親も子も自分の人生を生きられない|「暁星」と「汝、星のごとく」に共通するパラドックス
湊かなえの「暁星」と、凪良ゆうの「汝、星のごとく」は作品で取り扱っているテーマこそ違えど、共通する境遇を描いていた。
子どもは、自分の人生を選べないという残酷な現実を。
「暁星」あらすじ
「ただ、星を守りたかっただけ――」
現役の文部科学大臣で文壇の大御所作家でもある清水義之が全国高校生総合文化祭の式典の最中、舞台袖から飛び出してきた男に刺されて死亡する事件がおきた。逮捕された男の名前は永瀬暁、37歳。永瀬は逮捕されたのち、週刊誌に手記を発表しはじめる。
そこには、清水が深く関わっているとされる新興宗教に対する恨みが綴られていた。
また、式典に出席していた作家は、永瀬の事件を小説として描く。ノンフィクションとフィクション、ふたつの物語が合わさったとき見える景色とは⁉
自分の人生を生きる、とは
「汝、星のごとく」あらすじ
その愛は、あまりにも切ない。
正しさに縛られ、愛に呪われ、それでもわたしたちは生きていく。
本屋大賞受賞作『流浪の月』著者の、心の奥深くに響く最高傑作。
ーーわたしは愛する男のために人生を誤りたい。
風光明媚な瀬戸内の島に育った高校生の暁海(あきみ)と、自由奔放な母の恋愛に振り回され島に転校してきた櫂(かい)。
ともに心に孤独と欠落を抱えた二人は、惹かれ合い、すれ違い、そして成長していく。
生きることの自由さと不自由さを描き続けてきた著者が紡ぐ、ひとつではない愛の物語。
ーーまともな人間なんてものは幻想だ。俺たちは自らを生きるしかない。
自分の人生を生きる、とは
突然だけど、皆さんは自分の人生だけど自分で生きていないという感覚になったことはあるだろうか?
「汝、星のごとく」の櫂のように恋愛に翻弄される母親に寄り添い、時には悪酔いする様子を介抱し、スナックの発注作業まで担当し、大人になってからは定期的にお金というわかりやすい形で支援する。
こういった例ならわかりやすい。
しかし「暁星」の登場人物(本文をそのまま楽しんでほしいからあえて書かない)のように「あなたのためを思って」という理由で、知らぬ間に新興宗教の行事に参加させられていた例。ましてや、そのときは気づかなかったが、言われてみれば幹部に好かれるための振る舞いを求められていた……という場合もあるだろう。
特に「暁星」で辛かったのは、子どもであるという理由だけで才を利用されること。「あなたのために」「あなたを思って」と甘い言葉をかけながらも、結局は親の承認欲求ゆえに、好きで得意だったことを利用される描写だ。
ここまでの経験ではないが、筆者は幼少期、習い事を楽しくてやっていたというよりも「褒めてもらいたくて」やっていた人間だった。その象徴となるエピソードを1つ挙げるのであれば、ピアノのレッスンだ。
私はピアノがあまり得意ではなかった。小さな手ゆえにオクターブも届かないし、曖昧な上手い下手という評価は先生から言われても「え? さっきと何が違うんだ」「今日、先生機嫌がいいな」と思ってしまう。(たぶん私は相対評価というものが得意ではない。わかりやすく点数で評価される方がうんと好きだ)
でも、続けていたのは、その教室と縁が深い祖母のとある夢を叶えたいからであった。
しかし、私はそれができなかった。先生との折り合いが悪く、ある日、泣きながら帰ったことがある。その際、あっけなく「もう行かなくていいよ」と祖母と母から言われ、辞めることになった。
あの日、めちゃくちゃに泣いたのは、先生から「プロになりたいわけでもないのに、なんのために続けたいんだ」と言われたことゆえではない。「私がうまくやれないせいで、ここまで通わせてくれた家族の期待に応えられないなんて、なんて情けないんだ」といった不甲斐なさからだった。
そのときのクセが今でも抜けない。
「いるだけでいいんだよ」だなんて言われても「相手にとって私が一緒にいるメリット」や「与えられるものは何か」を過度に考えてしまう時がある。
こんな自分にたまに思う。「自分の人生を生きる」とは何なのだろう、と。
支配する親は人生を捨てねければならないのか
とはいえ、親が子どもを「こっちの方向へ」と先導することは不思議なことではない。
子に、自分の経験をもとに「あれはいい」「これもいい」と伝えること、方向性を決められるようにアシストをすることは、これまで2000年くらいの歴史の中で自然と行われてきたことだ。
では、導くと支配するの違いは何なのだろう。
個人的には何かを選択するときに自分の心の答えよりも、誰かを理由にして決めた答えを選んだとき、に“支配されている”と感じてしまう気がしている。
例えば「汝、星のごとく」で暁海は、母の精神状況を想って、東京進学を諦める。それまで描いていた夢のようなキャンパスライフ、この街から出たいという気持ちよりも「母を支えねば」が勝った瞬間だった。
ただ、このシーンは、暁海の母が家族のためではなく、自分の人生を歩んでいるがゆえに起こしてしまったちょっとした事件という見方もできる。つまり、暁海の母は「暁海の母」という役割を捨て、自分の人生を生きただけ。その結果、暁海が自分の選択肢を捨てることになっただけなのだ。
このように考えると「自分の人生を生きよう! 支配されないようにしよう」だなんて、簡単にはいえない。
自分の人生を歩むことで、誰かの自分の人生を生きたいという欲を奪ってしまうことは大いにあるからだ。
この2冊の本を読んでから、私は「全員が幸せになれる」だなんて道はないのかもしれないとばかり考えてしまっている。
そして、もしもこの先、私が自分の子どもに出会った時には、どのくらいの強さで導き、どのくらいの距離感で接し、どのくらい自分の人生を生きてもいいのか。そもそも本当に「自分の人生」などあるのか。
この2冊を読んでから、ずっと、そのことがずっとぐるぐるとしている。
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