篠田節子『弥勒』革命と信仰のはざまで、人間は何を選ぶのか?
篠田節子『弥勒』は、文庫本で700ページを超える大長編である。読み始める前にまず分量に身構える。しかし、読み終えたときには、この厚みこそが必要だったと納得することになる。物語の舞台はヒマラヤの小国。そこで革命軍に拘束された一人の日本人男性の運命を軸に、国家、革命、宗教、暴力、そして救済の可能性が描かれていく。
救済とは何かを問う衝撃の超大作。
ヒマラヤの仏教美術の国、政変と殺戮の渦中に潜入した男は革命軍に捕らわれ……。
新聞社の永岡は、妻の櫛がヒマラヤの国パスキムの破壊された仏像の一部と気づく。5年前入国した首都カターで見た美麗な仏像彫刻だった。美術品持ち出し禁止の国で政変のため寺院が崩壊したと聞いて、密入国を試みる。僧侶達は虐殺され都市は壊滅していた。彼も革命軍に捕らえられ……。旧習を打破し、完全平等の理想郷を求める人間達のもたらす惨劇。恐怖と戦慄の世界を臨場感豊かに描く畢生の大作。
篠田節子は、宗教や民族、国家といった社会構造を物語の中心に据えてきた作家である。ネパールを舞台にした『ゴサインタン』や、女性たちの生存戦略を描いた直木賞受賞作『女たちのジハード』など、社会と個人の緊張関係を描く作品を数多く発表してきた。『弥勒』もまた、そういいった延長線上にある作品だが、扱うテーマの重さ、思想性の密度という点で、際立っている。
物語の中心にあるのは、「革命」という理念がもたらす暴力である。理想社会の建設を掲げる運動は、既存の文化や伝統を否定し、人間関係を切断し、若者を兵士へと組み替えていく。ポル・ポト政権や文化大革命を想起させる構図が背後にある。歴史上の出来事を参照しながら、理念の純粋さが現実の残酷さへと反転する過程を丹念に描写する。
特に、少年兵の存在は強烈な印象を残す。純粋さは倫理的成熟と同義ではない。価値基準を内面化する前に理念を絶対視したとき、判断は停止し、命令は即座に行動へと変換される。暴力の正当化は、外部からの強制だけでなく、内部の確信によって支えられる。極限状況における人間の変質を描きながら、集団に属する誰もが持つ同質の傾向を浮かび上がらせる。
物語序盤に登場する奔放な妻も印象深い存在である。
強烈な個性を放ちながら、物語の中心からは早々に退場する。構造上の役割は限定的に見えるが、読み終えた後に残るのは虚無の気配である。理念にも歴史にも深く関与せず、欲望と感情の流れに身を任せる「生」のあり方。巨大な歴史の奔流の中では痕跡を残さないように見えるが、現実社会には確実に存在する類型である。理念的緊張の対極として配置された存在とも読める。
『弥勒』を読み進めるうちに浮かび上がるのは、歴史に対する人間の無力さだ。革命は過去を断ち切ろうとする。伝統や文化の否定は、理念の純度を保つための手段として選択される。しかし、歴史は単純に消去できる対象ではない。断絶を試みた結果、抑圧された過去は別の形で噴出する。理念と歴史の緊張は、短期的な勝利によって解消されるものではない。
題名に掲げられた「弥勒」は未来仏を意味する。遠い未来に現れ、人々を救済する存在という仏教的イメージが重なる。しかし物語が提示するのは、超越的存在による外部からの救済ではない。極限状況に置かれた人間が、何を選び、何を拒むのか。救済の可能性は、選択の内面に埋め込まれている。未来仏は歴史の彼方に待機する存在というより、人間の倫理的可能性を象徴する概念として機能している。
読後感はカタルシスのある爽快感はない。むしろ重い。思想と歴史の圧力が残響のように続く。娯楽として消費される物語とは異なり、読者の価値観を揺さぶる構造を持つ小説である。革命は本当に人間を解放するのか? 信仰は暴力を抑制するのか? それとも正当化するのか? 国家という枠組みは安全を保証するのか? それとも新たな拘束を生むのか?
提示される「問い」に単純な解答はない。
そして弥勒=未来の仏は到来するのか。救済は外部から訪れるのか。それとも、人間の内面にしか芽生えないのか。篠田節子は答えを断定しない。苛烈な現実を描き切ることで、判断を読者に委ねる。「問い」の持続こそが、本書の最大の眼目である。
