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    <lastBuildDate>Sat, 13 Jun 2026 16:17:12 +0900</lastBuildDate>
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      <title>陰キャ文学 第5回</title>
      <description><![CDATA[<p name="a6e8b357-3419-484c-9f2f-9d2914e31bd9" id="a6e8b357-3419-484c-9f2f-9d2914e31bd9">　寒さが身に染みる2月中旬、時刻は夜の9時過ぎ。<br>　坂田葵は西武池袋線池袋駅の二番ホーム、小手指行の電車に乗り込むと、ふう、とため息をつく。そして、ベージュのコートのポケットからiPhoneを取り出すと、自分でも病んでいるとわかっていながら、Google Chromeを開き、「河合塾　偏差値」と検索する。<br>　すぐに「入試難易予想ランキング表」のページが開いて、葵はすかさず「工学系　国公立」のリンクをクリックする。pdfが表示されると、表の上から順番に、「秋田大学国際資源学部」を探す。思っていたよりずいぶん低いところにあるのを見つけて、またため息をつく。<br>──偏差値42.5かあ。学科首席とは言ってたけど、さすがに低いよなあ。<br>　葵は心の中でそう呟くと、ぼんやり天井を見上げた。「西武の乗車ポイント」なんて広告がふと目に入り、柔和な微笑みを浮かべたイメージキャラクターの女優さんと目が合う。<br>　さっきまで一緒に飲んでいた、棟方翔太のことがはっきりと思い出される。顔は間違いなくイケメンだった。身長も高かった。葵が振った文学や映画の話はちんぷんかんぷんだったみたいだけど、中東の油田の話や、学生時代にオーストラリアの炭鉱でインターンをした話は、確実に"メロかった"。<br>　でも、そんな彼は結局のところ、秋田にあることしかわからない、田舎の国立大学出身だった。おまけに何やらすごそうな名前の学部なのに、結局のところは日大の理工学部──自分の学校だったら、留年しかけていたような子でも行かないようなところ──より、よっぽど入りやすそうにすら思えてしまう。<br>　葵はつい、せめて理科大か、千葉大くらい出ていてくれたらよかったのに、なんて考えてしまう。確かに理系院卒の男は好きだけれど、彼氏は偏差値42.5の大学出身です、だなんて、友達にも家族にも説明がつかない。彼女は周囲で、MARCH卒の男性と付き合っている子すら見かけた記憶がない。<br>　今日はありがとう、という翔太からのLINEメッセージに返事をできないうちに、電車は石神井公園駅に到着していた。慌ててホームに出たその瞬間、ホームに冷たい夜風が吹き込んできて、葵はつい、誰にも聞こえないような小さな声で、寒い、と声に出した。<br>──これからの時代、女だって高学歴、高収入にならないとダメ。<br>　母の美幸からそう諭された葵は、小5の春を目前に控えたある日、練馬の日能研で入塾テストを受けた。彼女は正直なところ、小学校の授業は簡単すぎて退屈だと思っていたから、そのテストも大して難しいとは思わなかった。相当な高得点だったらしくて、教室長直々に、ぜひうちへ、と誘われた。<br>　幸いなことに、授業の内容も案外楽しかった。理解できないことはそんなになかった。多少なりとも宿題をこなさなければならないことだけは嫌だったけれど、成績は順調に伸びて、まわりのみんなが褒めてくれた。今思い返すと、それが嬉しかった。<br>　ぼんやり小学校時代のことを思い出しているうち、葵は駅の改札を抜けた。そのタイミングで翔太のメッセージに返信だけはすると決め、またiPhoneを開く。楽しくなかったといえば嘘になるし、挨拶だけはしておくのが礼儀だろう、と思いながら、さっき交わした会話を思い出す。<br>「なんで、資源学部？でしたっけ。そこに入ろうと思ったんですか？けっこう珍しい学部じゃないですか。東京じゃ聞いたことない」<br>「うん。日本全国探しても、秋田大学にしかないからね。で、なんでそこにしたかっていうと、自分の学力で受かりそうな国立大学の中で、そこが一番、お金持ちになれそうだったからだよ。ガソリンとかエネルギーとか、人が暮らしていくにはなくてはならないもので、絶対儲かる分野でしょ？」<br>　翔太はそう言って、あはは、と笑った。けれど、葵は正直なところ、全く笑えなくて、とりあえず作った笑みを顔に貼り付けた。お金を稼ぐために大学に行く、という感覚は理解できなくもなかったけれど、正直なところ、他人に大っぴらにすることではないように思えてしまった。<br>　そして葵はふと、美幸からずっと、女でもちゃんとお金を稼げるから、という理由で、医学部を目指すように言われていたことを思い出す。<br>「女は結局さ、子供産んでしばらくはろくに働けないもんなんだよ。だから、いつでも辞められて、いつでも復帰できて、お金もしっかり稼げる職に就いた方がいいよ。そう考えたら、やっぱり医者が最高だよね」<br>　美幸はことあるごとにそう言って、葵に医学部受験を勧めた。<br>　理系科目が得意だったのに、両親に勧められるがまま、津田塾の英文科に進んでしまい、ろくな職歴を得られなかったことだけがどうやら、美幸の人生で唯一の心残りらしい。葵は母のことが好きだけれど、その感覚だけは、どうしても理解してあげることができないままでいる。<br>「こちらこそ、今日はありがとうございました！今、最寄り駅に着いたので、もうすぐ家に着きます。油田の話とか、オーストラリアの炭鉱のインターンの話とか、とっても楽しかったです！」<br>　そう当たり障りのない返信をすると、葵は駅の西口を出る。右手に見えるタワーマンションに歩みを進めると、エントランス前でキーをタッチし、ロビーを通り抜けて、エレベーターホールに向かった。</p><p name="c68fe22a-1dd9-4391-bd27-2c8468cf2099" id="c68fe22a-1dd9-4391-bd27-2c8468cf2099">「お受験したなんて、すごいなあ。大学も慶應なんだよね。頭が良くて、お嬢様なんだね。俺、地元は青森なんだけどさ。お受験したのなんて、医者の家の子、自営業の家の子、あとは市役所共働きの家の子くらいだったな。あとはみんな公立。ヤンキーもいて、大変だったけど、今思えば面白かったな」<br>　さっき翔太からそう言われたことを、葵はぼんやり思い出す。彼女が彼のようなタイプの男性とまともに話すのは初めてのことで、そうなんだね、としか返すことができなかった。本当は東大文三落ち慶應文学部なのだけれど、そこはさすがに言わずにおいた。言ったところで、引かれて終わりだろう。<br>　12年前のちょうど今頃、葵は合格確実と言われていた桜蔭に落ちて、雑司ヶ谷女子に進学することになった。けれど、そのおかげでこのマンションに住めたようなものだし、雑司ヶ谷女子だって十分胸を張って誇れる有名な学校、立派な進学校。そこまで卑下することでもない、と自分を納得させている。<br>　それに何より、雑司ヶ谷女子に合格したとき、教室長やお世話になった先生たち、パパとママがみんな、彼女の手を握って祝福してくれたのが心底嬉しかった。葵はあれ以上に嬉しかった瞬間を、未だ経験していない。<br>　結局は数学が苦手なのを克服できなくて、東大受験には失敗した。慶應は「受かって当たり前」だったし、実際、国語も小論文もかなり書けて、英語も十分解けた自信があったから、合格しても何の感動もなかった。<br>　ふと葵は、翔太が人生で一番嬉しかった瞬間は何なんだろう、なんて考える。今の会社に内定を得たときなんだろうか。それとも、学科首席で表彰されたと言っていたから、そのときなんだろうか。それとも……<br>　もしかして、初任給をもらったときだったりするんだろうか。<br>　エレベーターの中でそんなことを考えながら、葵はまた、深くため息をついた。あっという間に坂田家が住む10階に到着して、彼女は慌ててエレベーターを降りた。<br>　廊下をしばらく歩き、坂田、と表札代わりのシールが貼られた玄関のドアに鍵を差し込む。ドアを開けると、リビングに向かってただいま、と声をかける。美幸がはーい、おかえり、と返すのが聞こえてきて、葵はそのままパンプスを脱ぐ。<br>　リビングに入ると、3つ下の弟、太陽がソファに寝転がりながら、テレビを観ているのが見えた。葵と違って理数科目が得意だった彼は、彼女と同様に中学受験をして武蔵に入り、そこから現役で信州大学の医学部に進学した。長野には何もない、が口癖で、長期休みになると、一目散に実家に帰ってくる。<br>「太陽、そこでゴロゴロしてたら私が座れないじゃん。ちゃんと座ってよ」<br>　コートをリビングの端っこのハンガーラックに掛けながら、葵は太陽にそう声をかける。彼は不服そうな声を上げながら、ゆっくり身体を起こし、ソファの隅っこに座り直した。<br>「姉ちゃん、今日デートだったでしょ。しかも、多分イマイチだった。メイクとか服装とか、声の調子ですぐわかるよ」<br>　太陽に耳元でそう囁かれ、葵はついムッとしてしまう。けれど、図星だから何も言い返せなくて、彼の目を少しにらみながら笑うことしかできない。<br>「デートの内容自体はよかったんだよ。イケメンだったし、声をかけてくれたのも向こうからだし。ただ……もうちょっと高学歴だったらよかったな、って」<br>　そう本音を漏らすと、太陽がゲラゲラと笑う。<br>「うーわ。出た。妖怪学歴厨女。姉ちゃん、相変わらずそんなこと言ってんだ。ほんと、可愛くないなあ」<br>「うるさいなあ。学歴厨じゃなくて、サピオセクシャルだよ。あんたみたいな医学部の男にも全然萌えないし、東大でも文系は興味ないんだってば。そこそこ以上の大学の理系の修士で、専門職、研究職っぽい男がいいの」<br>「はいはい。サピオセクシャルね。なんつうか、男の趣味がちょっとズレてるんだよな。姉ちゃん以外にも雑司ヶ谷女子の子って、みんなちょっと変。毎朝裁縫してたせい？それとも池袋の邪気を吸ったせい？」<br>　散々バカにされたうえに、雑司ヶ谷女子の女は変、というのも否定できなくて、葵は心底イライラしてしまう。実際、彼女が中高6年間で一番親しくしていた森永詩音も含めて、変わり者や熱心なオタクは多かった気がする。高校の頃は葵も詩音と一緒に、「ユーリオンアイス」なんかに夢中になっていた。<br>「姉ちゃん、理系選択の俺がアドバイスするけど。高学歴理系の男からイケメンを探すなんて、砂金探しもいいとこ。"光る君"なんて、まあ、ほとんど存在しないようなもんだよ。だからさ、その男がどこの大学だか知らないけど、MARCHくらいなら付き合っちゃったほうがいいって」<br>　太陽が何も考えずにそんなことを言い出して、葵はますます苦しくなる。法政の理工学部くらいだったらむしろ、余裕で付き合いたいと思えたのに、と思ってしまう。<br>「私だって、相手の人がMARCHだったら、ギリギリ許容範囲だったし、付き合いたかったよ。でも、MARCHですらないってなると、さすがにちょっと考えちゃう」<br>「その人、そんなに学歴低かったの？芝浦？日大？千葉工業？」<br>　太陽がそんなことを聞き返す。我ながら本当に気持ち悪い姉弟、と思うけれど、お互い、今さら性格を叩き直すことは無理だろう。<br>「えーと。秋田大学国際資源学部ってとこ」<br>　葵がそう言うと、太陽は一気に無表情になった。<br>「うーん。それは確かに、ちょっと説明に困るかもね。あれでしょ？早い話が、"信州大学繊維学部"みたいなもんだよね？」<br>　葵にはよくわからなかったけれど、太陽が恐らく酷いことを言って、ゲラゲラ笑う。彼女はもはや、言葉を続ける気もなくなって、テレビに映る金曜ロードショーをぼんやり眺めた。そこで初めて、明日がバレンタインデーだったことを思い出して、チョコでも渡せばよかったかな、なんて後悔した。</p><br/><a 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      <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 21:25:04 +0900</pubDate>
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      <title>陰キャ文学 第4回</title>
      <description><![CDATA[<p name="2fbbeea1-9ffd-4697-a64d-f4f494aa6210" id="2fbbeea1-9ffd-4697-a64d-f4f494aa6210">　職場の忘年会の道すがら、パチンコ屋の前を通り過ぎるその瞬間。大学生の頃、文学部は東北大出ても就職先はパチンコ屋、とバカにされたことを、田尾ひかりはふと思い出す。そして、彼女と同い年で、当時機械知能・航空工学科の二年生だった須賀秀太がそう言ったときの、賢しらなあの顔を思い出す。<br>──ほんとあいつ、つくづく"嫌な奴"だった。<br>　大学を卒業してからは一度も会っていない、サークルの同級生の顔と名前を思い出し、ひかりは少し不愉快な気持ちになる。ただでさえ、これから始まる忘年会が憂鬱で仕方がないのに、ろくでもないことを思い出してしまった、と後悔しながら、歩みを速める。<br>　ひかりは二〇二二年の春に大学を卒業し、就職したから、早いものでもう社会人四年目になる。就職活動ではあちこち落とされまくったのは事実だけれど、データサイエンスの真似事をゼミでやっていたおかげで、かろうじて中堅どころのIT企業に拾われ、パチンコ屋に就職することはなかった。<br>　東北大学、それも彼女が卒業した文学部や、文化系サークルに所属していた文系学部出身者の就職先は、大きく二極化する傾向がある。決して大きな会社ではないけれど、大手IT企業のグループ会社に就職できたひかりは、就職活動に大失敗した、というわけではない。<br>　それでも往々にして、人は高望みをしてしまう生き物。<br>　だから、ひかりはつい、高校の同級生や、周囲からの"東北大学卒"へのイメージと比較して、自分がいかに平凡な社会人で、平凡な年収しか得ていなくて、好きになれない職場でつまらない仕事しかしていないか、ということに目を向けてしまう。そして、そのせいで嫌な気持ちになることがある。<br>──実際、これから数時間、一緒に飲むのすら嫌な人たちと働いてるわけだし……うまくいってないのは事実なんだよな。<br>　ひかりはそんなことを考え、はあ、と小さくため息をつく。仙台ほどではないけれど、年末の新宿に流れる空気は冷たくて、白い吐息がもくもくと立ちのぼった。</p><p name="9439639f-b500-481f-95d1-f8b1ab1fd189" id="9439639f-b500-481f-95d1-f8b1ab1fd189">　新宿駅周辺に星の数ほど建っている、無個性で少し薄汚れた雑居ビル。その二階にあるチェーンの居酒屋が、今年の部の忘年会の会場。昨年まで幹事を務めていたひかりからすると、お世辞にもセンスは良くないお店。<br>　ただ、会費は一人五〇〇〇円までに収めろ、という不文律がある以上、このインフレの世にあって、洒落た店で飲むなんて不可能に決まっている。だから、これはもう仕方がないこと、と自分に言い聞かせはするけれど、来年はいったいどんな店で飲まされるのか、と思うと、ひかりはうんざりしてしまう。<br>　ちなみに店を選んだのは、昨年の新卒、宮園くん。無名私立大学の情報学部を卒業した彼は、青葉山の連中──例えば、須賀秀太とか──の多くより身だしなみを整えていて、元気だけれど、知的ではない。この前は円高と円安の違いを知らなかったし、ひかりからすれば信じられないポカを繰り返す。<br>　ひかりは今年から宮園くんと一緒に、とある物流企業の案件を担当している。そして、彼はいつもそんな調子なので、彼女は次第に彼のことを、あまり好ましく思わなくなりつつある。彼が大学時代から付き合っているという、小学校教員の"ゆりあ"のことも、いったいどんな子なのか、と思ってしまう。<br>　東北大学にいた頃は、自分も含めてどいつもこいつも、陰気で陰険で陰湿、と思っていた。けれど、宮園くんと一緒に働くうち、どんなに陰気で陰険で陰湿だったとしても、きちんと知的対話ができるだけで素晴らしい、ということに気づくことができた。そういう意味で、ひかりは彼に感謝してすらいる。<br>　Googleマップで指示された通りに移動するうち、雑居ビルが見えてくる。そして、その入り口のところに宮園くんが立ち、課のメンバーを誘導しているのが目に入る。ひかりは思わず、は？と口に出してしまう。<br>──こんなクソ寒いのに、そんなことして…… あいつ、やっぱりバカなの？<br>　心の中ではそう思ってしまったけれど、さすがに口には出せない。ひかりは作った笑み──宮園くんがつまらないミスをするたび、いつも顔に貼り付けているもの──をまた準備すると、彼にお疲れさま、と声をかける。<br>──そういう社会性は、この会社に入って学んだんだ。<br>　そんなことを考えながら、ひかりはエレベーターに乗り込んだ。乗り合わせた営業事務の福岡さんが、宮園くん、寒い中あんなことまでしてくれて、さすがだね、と嬉しそうに言ったから、彼女は仕方なくそれに同意した。もちろん、さっきと同じ笑みを、またしっかり顔に貼り付けておいた。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n1efac2dbfb9f'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Wed, 24 Dec 2025 00:06:42 +0900</pubDate>
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      <title>陰キャ文学 第3回</title>
      <description><![CDATA[<p name="868d3eee-dba5-4314-af5e-848da001026d" id="868d3eee-dba5-4314-af5e-848da001026d">　十二月も半ばに差し掛かる金曜日、そろそろ日付も変わる頃。<br>　約束通り、祐天寺駅東口、明かりが落ちたスタバの前に堀田瑞希が現れて、慶太は思わずふう、とため息をつく。<br>「ごめんごめん、カラオケ誘われちゃってさ」<br>　瑞希は大して悪びれる様子もなくそう言うと、一応申し訳なさそうな笑顔を作ってみせた。綺麗に並んだ白い歯が、暗がりの中でまばゆく光る。彼女は中学生の頃に歯科矯正を受け、今も定期的にメンテナンスをしているので、いつも驚くくらいに歯並びが良い。<br>「いや、まあ、三次会まで行くのはいいとして…… せめて、連絡くらいよこしてくれよ」<br>　慶太はそう返すと、瑞希の方に向けて手を差し出す。瑞希がその手を取ったのをゆっくり引き寄せると、自然に二人の肩が触れる。その瞬間、アルコールのつんとした匂いがほのかに漂った。<br>　目黒税務署の方に向かって歩く道すがら、まいばすけっとが見えてきて、瑞希があっ、と声を上げる。<br>「私、喉乾いちゃった！ここで何か買っていっていい？」<br>「はあ？ もうちょい歩けばうちに着くじゃん！それまで待てないの？」<br>「うん、待てない！ もう閉店まで十分切ってるし、早くしなきゃ！」<br>　彼女は酔いに任せてそんなことを騒ぎながら、まいばすけっとに駆け込んでいく。仕方がないから慶太はその後ろを追って、少し遅れて店に入る。<br>　店内には「蛍の光」が流れていて、さっさと出ていけ、という無言の圧力がかかっている。それなのに瑞希はのんきなもので、ホット飲料のコーナーの前に立ち尽くし、何にしようか、と頭を悩ませていて、慶太はすっかり呆れてしまう。<br>「決めた！レモンティーにする」<br>　瑞希はそう言うと、ペットボトル入りのレモンティーを手に取り、慶太の手元に押し付ける。それくらい自分で買えよ、と言いたくなるけれど、どうせ無視されるのでぐっと呑み込む。自分の分がないのも癪に思えて、缶コーヒーを適当に取ると、そのままレジに向かった。<br>　店を出て、税務署前の交差点で信号に引っかかったところで、瑞希はペットボトルのふたを開け、レモンティーを一気にごくごくと数口分飲んだ。そんな甘いものをそんな風に飲んで、ますます喉が渇くんじゃないか、と思うけれど、あえて指摘はしない。<br>　慶太は自分用に買った缶コーヒーのプルトップを開けると、一口ごくり、と口にする。いつも通り、人工甘味料──アセスルファムK、スクラロース──のケミカルな味がした。<br>　めちゃくちゃ美味しい、とはお世辞にも言い切れないけれど、かといって飲み切れないほど不味いわけでもない。それなりの味。そもそも、缶コーヒーなんてほとんどの人は口寂しさを満たすため、あるいは身体を暖めるために買うものだから、みんな味なんてそこまで気にしちゃいないだろう。<br>　慶太がふた口目にさしかかろうとしたところで、ひと口ほしい、と瑞希がワガママを言う。特に断る理由もなくて、缶を差し出すと、瑞希はまたさっきみたいな、一応申し訳なさそうな笑顔を作ってみせる。<br>「ありがとう」<br>　瑞希はそう言うと缶を受け取り、ひと口飲みこむと、なんとも言えない表情をする。<br>「うーん、これ…… ちょっと人工的な味がする」<br>「まあ、仕方ないよな。人工甘味料がたんまり入ってるから」<br>もらっておいて文句を言われるのも慣れっこで、慶太は特にツッコミを入れる気もわかない。ただ、淡々と科学的見地から事実だけを述べた。<br>「人工甘味料かあ…… そういうのって、あなたみたいに化学を勉強して、メーカーに入ったら作れるようになるの？」<br>「そうだなあ…… 作り方自体はわかる。ただ、そういうのをわざわざ研究対象にしてる知り合いはいない。もうやりつくされたテーマだから、せいぜい学部生の実験レベルかな」<br>「へえ、そんなもんなんだ」<br>　瑞希が興味をなくしたような返事をするのとほぼ同時に、信号が青に変わる。慶太は瑞希から缶を受け取ると、一気にその残りを飲み干す。<br>　さっきと一緒で、いつも通りのケミカルな味がした。<br>　慶太はふと、高校の頃の「将来の夢」を思い出す。化学の研究者になって人の役に立つものを作る、という、高校生らしくふわっとしていて、自分が社会に貢献できるエリート候補生だと内心信じて疑わない、そんな夢。<br><br>　思い返せば、慶太は小学校のころから成績優秀だった。桐生の公立小学校に通っていた頃は、担任の先生からしょっちゅう神童扱いを受けた。ただ、その一方で同級生からはドッジボールが苦手というだけでうっすらバカにされて、女子からもさっぱりモテなかった。<br>　もう平成が始まって二十年以上経つというのに、桐生には依然、昭和のヤンキーたちが跋扈していた。どいつもこいつも粗暴で、小中学生なのに金髪にしていて、襟足をこれでもかというくらいに伸ばした、異様な見た目をしていた。どこからか調達してきた原チャを乗り回し、たまにケガをしては蛮勇を誇る。<br>　もっとも、慶太が本当に嫌っていたのは、そういう本物のヤンキーたちではなかった。連中が敵視しているのはよその街のヤンキーや学校の教師、警察官あたり。慶太のような地味な秀才は、おとなしくしていれば特に危害を加えられることはない。本当の敵は、ヤンキー崩れの腰巾着どもだった。<br>　腰巾着どもはヤンキーと違い、平気で慶太のようなおとなしい同級生を標的にちょっとした暴力を振るった。ドッジボールでは手加減なしでボールを投げつける。じゃんけんをして負けた方の肩を殴る、通称「肩パン」に参加させられ、アザができるくらいに殴られる。椅子を引かれ、しりもちをつかされる。<br>　中学校に上がってからはヤンキーがそもそも学校に来なくなり、腰巾着どもがますます我が物顔で校内を闊歩するようになった。慶太の数少ない小学校時代の友達の多くはそれを見越して、片道二時間ほどかかる高崎の中高一貫校や群大附属に進学してしまったせいで、彼はますます孤独を深めた。<br>　本当は慶太だって高崎の中高一貫で、腰巾着どものいない世界で勉強がしたかった。けれど、地元の郵便局員として働く父、弘とクリーニング工場で働く母、公美の下、長男の慶太含めた三兄妹の暮らし向きは貧乏ではないにせよ、裕福なものでもない。だから、そんなことはとても言い出せなかった。<br>　幸いにして、中学に入ってからも慶太が勉強で困ることはなく、いつも成績は一位。加えてたまたま入った陸上部で、多少長距離走の才能が開花して、県大会にも出場できるようになった。そこまで努力してようやく、腰巾着どもは慶太に対して少しだけ敬意を払い、多少は世界が暮らしやすいものになる。<br>　ただ、それでも相変わらず女子からモテることはなかった。一軍女子はヤンキーと付き合い、十四歳やそこらでセックスを経験し、その体験談を大声で話す。二軍女子は腰巾着どもの中では見た目のいい連中か、野球部サッカー部バスケ部あたりでレギュラークラスを張る模範的優等生のことしか見ていない。<br>　慶太がいくら個人競技で成績を残し、テストの度に一位を取ったところで、女子からのモテには一切寄与しなかった。それどころかうっすら気持ち悪がられて、話しかけることすらままならない。そんな経験を積み重ねるうち、次第に慶太の仮想敵は腰巾着どもではなく、クラスの平均的女子に移っていった。<br>　学年トップを死守することと三千メートル走のタイムを縮めることに執着しているうちに、慶太は中三になっていた。周囲の大人は皆こぞって彼に、前橋にある公立トップの男子校への進学を勧めるようになった。<br>　この頃も相変わらずひょろっとした体型ではあったけれど、中学入学時は百六十センチ台前半だった身長が百七十センチ程度には伸びていて、男子も女子も見下ろせることが増えていた。けれど、それでも相変わらずモテはしなかった。<br>　だから、慶太は男子校に進むことに対して何の抵抗感もなかった。むしろ周囲に女がいない方が楽しいだろう、くらいに考えていた。両親はともに高卒で、大学に進学することも今一つイメージはできていなかったけれど、部活を引退してからは前橋の男子校を第一志望として勉強に打ち込むようになった。<br>　二人の妹たちの進学も考えると、塾通いなんてできず、進研ゼミだけが頼り。けれど、かつて神童と呼ばれた男からしてみれば、そんな状況下であっても、地方都市のトップ公立校に合格する程度、造作もないことだった。そして高一の春、慶太は前橋市内なら誰もが一目置く、黒の学ランに身を包んでいた。<br><br>「それで、カラオケって誰がいたの？」<br>　慶太は部屋に着くなり、瑞希にそう質問した。彼にとって嫌な答えが返ってくることはわかりきっているけれど、聞かずにはいられない。<br>「ああ、いつものメンバーだよ？ もう辞めた会社の同期なんだけどさ」<br>「いつものって…… それ、また、早稲田のあいつ…… いたんでしょ？」<br>　慶太がそう質問すると、瑞希があはは、と笑う。<br>「うん、いたよ？ でも、関係なくない？ なんでケータって、そんなにいっつも、ヤギちゃんのことライバル視してるの？」<br>　やきもきする慶太をよそに、瑞希はそんなことを言ってみせる。機嫌よさげに笑いながら、チャコールグレーのコートを脱ぐ。ダークブラウンの繊細な髪が揺れ、さわやかな香水の薫りがふわっと漂う。少し骨っぽくて、適度に痩せた身体に、ジャンパースカートがよく似合っている。<br>　瑞希は慶太と同い歳。新卒で上京してきて早々に始めたマッチングアプリで知り合い、夏頃に交際がスタートした。かれこれ半年弱付き合っているけれど、慶太はいまだに彼女の心を掴めた気がしていない。<br>　三重県桑名市出身の瑞希は大手自動車部品メーカーに勤める父を持ち、慶太よりツーランクほど裕福な家庭に育った。とはいえ、所詮は庶民、という劣等感も垣間見えることがある。静岡大学工学部を卒業したという父譲りなのか、地元の公立中学校では秀才で通していたという。<br>　そこを卒業した後は、県下トップの公立高校に進学したものの、そこで数学の授業についていけなくなり、躓いた。それでも国立大学を目指したものの、第一志望だった大阪大学外国語学部には届かなかった。<br>　そして結局、瑞希は併願先の立命館大学国際関係学部に進学し、京大のインカレビジコンサークルに入った。そこで何人かの京大生の彼氏を作ったようだけれど、詳しいことは知らない。慶太が知っている彼女の元交際相手は、今年の一月頃まで付き合っていたという赤塚健吾だけ。<br>　瑞希曰く赤塚は、「高身長の雰囲気イケメンで、実家もそこそこ裕福で、無難だけれどつまらない男」だったという。彼女が同い歳の彼と知り合ったのは、"三回生"の夏、とある大手インターネット系企業のインターンシップの時。<br>　当時、上智大学で情報工学を学んでいた赤塚は瑞希を気に入り、インターンシップの最終日、彼女に連絡先を尋ねた。瑞希自身も実のところ彼を気に入っていて、快くその申し出に応じた。<br>　ただ、その後しばらくは特に関係が深まることはなかった。当時の彼女にはマンネリ中とはいえ、交際中の彼氏もいた。京都と東京という距離の遠さもあって、特に連絡を取り合うこともなかった。<br>　就職活動を終え、その大手インターネット系企業に入社することが決まり、携帯回線契約のノルマを課された頃、瑞希はふと、赤塚のことを思い出した。連絡を取ってみると某日系大手ITコンサルに内定していて、ちょうどフリーなことがわかり、そこからはとんとん拍子に交際に発展した。<br>　けれど、結局ふたりが結婚することはなかった。破局のきっかけになった赤塚の浮気が発覚したのは、結婚を見据え、激務の彼を支えるため、という名目で自分は激務から逃れ、某ユーザー系SIerに転職してすぐの、昨年の夏だったという。<br>──最初はさ、まだ正式にプロポーズは受けてなかったし、本気の浮気じゃないなら許してあげよっかなって思ってたわけ。浮気のひとつもできないような男、私の方だって願い下げ、ってずっと言ってたし。私ももう結婚する気満々で、年収下げて転職しちゃってたしさ。<br>　ただ、あいつがどんな女とセックスしてたのか、どうしても知りたくて。だから、何もしないから三人で会わせろってお願いしたの。そしたら出てきた女が、いかにも雑魚モテって感じでさ。ちんちくりんで、胸だけFカップくらいありそうなちょいブスだったの。笑っちゃったよね。<br>　確かに雑魚モテする顔ってのはわかるんだけど、信じられないくらい歯並び悪いし、服もおばさんみたいなえんじ色の安っぽいニットで、着古したピンクのチェスターコートなんか着てて。仕事は派遣のSEだし、卒業した大学も聞いたことない公立の大学でさ。何にせよ、本当やっすい女だったわけ。<br>　私、それでもうバカバカしくなっちゃって。どんなに繕っても、結局は男子校から理系進学したせいで、ろくな審美眼もなくて、こんなオタサーの姫みたいな女で満足できる男なんだ、って思うと、もうすっかり幻滅してさ。<br>　だからその帰り道、もう好きじゃないから別れてくれ、って言ったの。泣いて土下座されたけど、無理だよね。いくらセフレとはいえ、そんな女で射精できる男の子供、私、産めないよね。<br>　あるとき瑞希がそう冷たく語り、へへっ、と嘲るような笑いを浮かべていたことを、慶太は今でも鮮明に覚えている。それ以来、当の自分がかつて、彼女が言うところの"やっすい女"を散々抱いていた──ナンパ師をやっていた──ことだけは、何としても隠し通す、と心に固く誓っている。<br><br>　瑞希が部屋着の中に下着を隠しているのを横目で確認して、ああ、今日はセックスがしたいんだな、と心の奥で考える。胸がそこまで大きくないこともあって、普段はブラトップで済ませている彼女は、慶太に抱いてほしいとき、きちんとした下着を身につける習性がある。<br>　瑞希はこの部屋のバスルームが二点ユニットなのを心底嫌っていて、同棲するなら三点セパレート物件、と言われている。 ただ、そうなると、いくら家賃補助が潤沢とはいえ祐天寺に住み続けるのは難しく、踏ん切りがつかない。たとえ職場が近くなろうとも、せっかく上京したのに神奈川に住みたくはない。<br>　一人取り残されたリビングで、慶太ははあ、とため息をつく。目黒区の1LDKではなく桐生の3階建ての戸建てに住んでいた頃、女の身体の味なんて知らなかった頃、小じゃれた美容院ではなく、地元の床屋で散髪するのが当たり前だった頃のことに、ふと思いをはせる。<br>　慶太にとって、男しかいない高校生活は間違いなく、人生で一番楽しい時間だった。女子からの評価の目を気にすることもなく、ただやりたいと思ったこと──相変わらず陸上部での長距離走と、科学部での種々の実験──に熱中する日々を送ることができた。<br>　特に科学部の連中とは親しくなり、桃ノ木川の河川敷で性懲りもなく乃木坂46の推しメンや理想の女性像について、恥じらうこともなく大声で語り合った。だいたいみんな、同郷のまいやんが好きだったけれど、慶太だけは橋本奈々未が好きだった。<br>　もちろん、時には人生や夢についても熱く語った。理数科目は全般得意だったし、好きだったけれど、特に化学の実験が一番好きだった。次第に何となく、東大か東工大に入って、いずれは化学系の研究者になりたい、と考えるようになった。<br>　県下トップの高校に入学してからも、慶太の成績は相変わらずトップクラスで、先生からも東大を目指すことを真剣に勧められた。<br>　この子なら東大を目指せる、と三者面談の場で担任の先生が熱く語るのを、公美はいつも、半ば他人ごとのように聞いていた。絶対に口には出さなかったけれど、商業高校を出てクリーニング工場に就職した彼女が到底知らない世界に自分は足を踏み入れてしまったのだろう、と慶太はいつも思っていた。<br>　先生からは予備校通いも遠回しに勧められたけれど、悲しいことに、相変わらず慶太の家庭は貧しくもなければ裕福でもなかった。一人目の妹、真里は彼ほどではないとはいえ、それなりに勉強はでき、桐生高校を目指していた。だから、いずれは大学進学を望むであろうことも容易に想像できた。<br>　高二になり、周囲の大半が前橋の予備校に通い出す頃になっても、慶太はとても塾通いなどできなかった。両親にそれを言い出すこともできなかった。それを見かねたのか、模試の成績を持って行くと授業料免除が取れる、と科学部の連中が教えてくれて、東進の夏期講習や冬期講習には通うことができた。<br>　時が流れて高三になっても、ずっと東大はB~C判定で、センター試験も九割以上取ったけれど、結局慶太は東大には進学しなかった。絶対に浪人できない彼は、東北大学工学部のAO入試なら二回東北大学を受験するチャンスがあると知った。ものは試しと受験してみたら、あっさり合格してしまった。<br>　両親は東北大学のレベルを何となくでしか理解していなかったけれど、珍しくその日の夜、食卓にはステーキが並んだ。十分ハイレベルな大学に合格できたこと、家族にほとんど金銭的負担をかけずに済むことへの喜びが湧くと同時に、もしかしたら東大にも行けたのかもしれない、という後悔の念も生まれた。<br>　入学前に学費免除の手続きをすると、あっさりと全額免除が決まった。さらに一人暮らしの家賃を用立てるための奨学金の借入準備をしながら、改めて自分の家庭環境の厳しさを痛感した。そして、人生でいつか自分が子供を持つことがあったら、教育費の心配だけは絶対にさせない、と強く誓ったのだった。<br>　慶太はふと焦燥感に駆られ、先週振り込まれたボーナスの額を確認する。首都圏の物価を考えれば、大手飲料品メーカーの総合職とはいえ、子ども二人を安心して大学まで進学させるなんてとても無理だろう。だから、まともに稼げない女との結婚なんて絶対に考えられない、と改めて自分に言い聞かせる。<br>　ちょうど去年のクリスマス前、セフレのつもりだった新田茉由──確かに顔だけはよかったけれど、自分の食い扶持すらまともに稼げていなくて、慶太のことを本気で彼氏だと思っていた──を振った時の、彼女の絶望したような顔を、彼はふと思い出した。<br>　シャワールームの引き戸が開く音がして、慶太は胸の高鳴りを感じた。ふわふわとした素材のパジャマに身を包んだ瑞希は、タオルで頭を拭きながらリビングに出てきて、キッチンに立ち寄る。そして、冷蔵庫に入ったペットボトルの緑茶をコップに一杯注ぐと、一気に飲み干し、はあ、とため息をつく。<br><br>「やっと酔いが醒めてきた」<br>　瑞希はそう呟くと、コップをそのまま流しに置く。基本的にこの部屋で、彼女が家事をすることはない。別に慶太はそれでもかまわないと思っている。その一方で茉由が、特にお願いしなくても勝手に甲斐甲斐しく家事をして、あげく作り置きをして帰って行ったことを、彼はふと思い出す。<br>　思えば、慶太が初めてセフレ、という言葉をリアリティを持って聞いたのは、大学一年生の時だった。もう長距離走を本気でやる気もなく、サークルでまで実験をする意味もない、女子と関わりたい、と考えていた彼が行き着いた、貧しい中高生に勉強を教えるボランティアサークル。その夏合宿でのこと。<br>「お前らってまだ童貞か？」<br>　最終夜の宴会も終わり、すっかり酔いの回った深夜二時。経済学部四年の橋爪先輩──東京の私立男子校出身で、大手金融機関に就職することが決まっていた──は一年生の男連中を自分の周りに集めると、そう切り出した。<br>「はい、童貞です」<br>　理学部物理学科一年の東厚介はそう答えると、恥ずかしそうに肩をすくめた。その動きが妙にくねくねしていて、同性ながらちょっと気持ち悪い、と慶太は思った。<br>「よおし、じゃあ、いいもの見せてやるよ！ こっち寄れ！」<br>　橋爪先輩はそう言うと、スマホの画面をその場のメンバーに差し出した。そこには裸の女性が快感に喘ぐ姿が映し出されている。一瞬、ただのAVかと思った慶太は、次の瞬間自らの目を疑った。<br>──<strong>これはAVなんかじゃない。</strong>恐らく橋爪先輩が撮ったもの。そしてここに映っているのは…… 間違いなく、松永先輩。<br>　そう気づき、慶太は完全に言葉を失った。<br>　サークルには宮城教育大学の女子学生も多く参加していて、松永先輩はその中の一人だった。慶太たちの一つ先輩で、宮城の角田出身で、素朴だけれど愛嬌がある人気者。慶太自身、彼女の笑顔に癒されることも多かった。その彼女が…… 今、スマホの画面の中で快感に身悶えている。<br>　今思えばその場の一年生全員が、強いショックと抑えきれない興奮のせいで完全に思考停止し、言葉も発せずにいた。橋爪先輩はそんな様子をせせら笑いながら、さらに他の動画を再生してみせる。今度は松永先輩が、橋爪先輩の怒張したものを舐めている動画だった。わずかに残った希望が打ち砕かれる。<br>「でも橋爪先輩って、藤野先輩と……」<br>　法学部一年の金田聡一郎がそう言いかけ、慶太も確かに、と思う。農学部四年の藤野先輩は秋田出身で、来年から東京で働くことが決まっていた。理知的な美人で、皆密かに彼女に憧れていた。そんな彼女がいるのに、どうして？と思いかけたところで、橋爪先輩がへへっ、と冷たく笑う。<br>「うん、そうだよ。柚季ちゃんはあくまでも、俺の<strong>セフレ</strong>だから」<br>　その言葉の響きがあまりに残酷で、また誰も何も言えなくなった。その様子を見た橋爪先輩は嬉しそうに微笑むと、思いついたように紙コップに一升瓶の日本酒を注いでいく。<br>「お前ら、今日見たものは秘密だからな？あれを見た時点でみんな共犯者だぞ？あんなのお前らに見られたって知ったら、柚季ちゃん、サークルに来られなくなっちゃうぞ？」<br>　橋爪先輩がそう淡々と言い終えたところで、その場にいる人数分、日本酒のコップが準備された。彼はそれを手際よく配ると、自分の分のコップを天井に向かって突き上げる。<br>「今童貞の一年生全員が、無事に彼女を作って、童貞を卒業できますように！乾杯！」<br>　そう音頭を取られ、みんな従うしかなかった。空虚な乾杯、の声が宴会場の隅っこに響いて、その様子を見た何人かが呆れたように笑ったことを、慶太は今でも覚えている。<br>　この前買ったばかりのソファに座りながらあの夏の夜のことを思い出し、ぼんやりしている慶太の隣に瑞希が座る。シャンプーと香水の甘い香りが漂ってきて、彼は思わずごくり、と息をのむ。<br>「ケータはお風呂入ったの？」<br>「うん、とっくの昔に」<br>　慶太がそう答えると、瑞希は一気に彼に肩を寄せ、そのまましなだれかかった。ムードもへったくれもないやつ、と思ったけれど、彼自身ももう待ちきれなくて、そのままゆっくり、ナンパ師メソッドで学んだとおり"甘い"口づけをした。<br><br>　瑞希はセックスのとき、しょっちゅう演技をする、と慶太は思っている。彼女はいつも、自分が一通り満足したら、あとはさっさと終わらせたいのか、適当に感じているふり、絶頂したふりをして、暗に早く終わらせろ、と告げる。<br>　恐らく彼女は慶太の性経験を相当少なく見積もっていて、そんな演技を見抜くことなんてできやしない、と思っているのだろう。彼はそんな彼女の浅はかさに触れるたび、ドロドロとした支配欲が湧き上がってくるのを感じる。<br>　その一方で、自分の手の内なんて全部見抜かれているんじゃないか、と不安な気持ちになることもある。普段の自分のムード作りや前戯、あるいはセックスのお作法が全て"メソッド"に基づいていることなんて、とっくに見抜かれているのではないか、という恐怖心に、ふと駆られたりする。<br>　ただ、そんな瑞希もたまに、本気で絶頂することがある。そういうときはいつも、地元の訛りであかん、だとか呟き始める。本気で感じているときは、標準語を作る余裕がなくなるのだろう、と慶太は理解している。そして彼女がそんな風に呟く瞬間、彼は自分の存在が全肯定されるような感覚を覚える。<br>　自分が女や女体に固執するのは結局のところ、女から男として認められた、という感覚を得るためでしかない、ということを、慶太ははっきりと自覚している。そして、別にそれが悪いことだとも思っていない。<br>　ついさっき、初めて出会ったばかりの女が、自分のものを必死に愛撫している。あるいは身持ちの固そうな地味な女が、自分とのセックスで我を忘れて身悶えている。はたまた瑞希のような都会の派手な女が、普段の強気な態度を引き剥がされて快感にのめりこむ。<br>　そういう瞬間に出会うたび、慶太は自分が真に価値ある存在なのだと確認することができる。俺はもう田舎でシコシコ勉強していただけの、田舎者のガリ勉くんじゃない。あの橋爪先輩みたいに、真に女から求められる優秀なオスなんだ。そう自分に言い聞かせることができる。<br>　瑞希には隠すべき過去とはいえ、ナンパ師を経験したこと自体はよかった、と慶太は思う。思い返せば、彼がナンパの"師匠"のTwitterアカウントに初めて連絡したのは、三年に上がる年の春休み。ちょうど二年の夏にできた人生で初めての彼女、農学部一年の三國詩織と別れたばかりの頃だった。<br>　千葉出身の詩織は、女子校育ちの生粋のお嬢様。地味で控えめな容姿の通り潔癖な性格で、なんとか裸の身体に触れ合うところまではできたけれど、挿入だけはどうしても嫌がられてしまう。次第に慶太は、彼女が本当に自分を受け入れてくれているのかわからなくなり、最後は喧嘩になって、関係は壊れた。<br>　慶太は詩織から身体を許されなかった理由を自分の魅力不足に求め、ナンパ師の門を叩いた。そして"師匠"の"メソッド"通りに見た目を整え、身体を鍛え、数ヶ月ほどかけて"垢抜け"に成功した。さらに"話術"という名のパターン化された会話も身につけて、表面上は生まれ変わった。<br>　そして夏前、少し暑くなり始めた仙台の街で、ついにストリートナンパとTinderでの女漁りをスタートさせた。ほんの数回目でさっそく成果が出て、仙台駅近くのバーでナンパしたスズカ、と名乗る女を、近所のラブホテルに連れ込むことに成功した。<br>　スズカは慶太の三つ年上で、東北文化学園大学を卒業し、看護師として仙台市内の病院で働いていた。着ている白Tもライトブルーのデニムも、今思えば安っぽいもの。激務なのか少しくたびれた雰囲気を纏っていて、それが色気になっていた。きっと瑞希は彼女のことを、"やっすい女"と看破するだろう。<br>　彼は"メソッド"通りに雰囲気を盛り上げ、順番にシャワーを浴びた。シャワーを終えた彼女を待ちきれず押し倒した時、少し嬉しそうな顔をしていたのを今でも思い出す。そのまま前戯をして、慣れない手で何とかコンドームをはめ、必死に腰を振り、無事に果てた。<br>　慶太が童貞を捧げた相手はまさに彼女なのに、その後一度も会わなかったこともあり、もはや顔すらおぼろげにしか覚えていない。ただ、スズカ、という名前と、色白な身体に黒い下着が映えていたことと、事後に頭を撫でてくれて、強い自己肯定感を得られたことだけは、未だに頭に強く焼き付いている。<br><br>　"メソッド"で学んだ通りに一定のリズムで腰を振りながら、今日の瑞希は知る限りで一番感じている、と慶太は思う。ついさっき、悲鳴を押し殺すような声で彼女があかん、と何度も呟くのを、彼は確かにその耳で確認した。ついに彼女を完全に手に入れつつあるように思えて、心の奥で黒い炎が燃え上がる。<br>　慶太はこれまで何十人も女を抱いてきたけれど、瑞希はその集大成、と考えている。育ちが良く、自分ほどではないけど頭も良くて、まともな職業に就く能力もある、美意識の高い美人。きっと、過去の自分なら確実にビビっていたような女。<br>　そんな彼女を今、ついに自分のものにしようとしている。俺もついにここまで来られた。そう思うと、慶太の自己肯定感はかつてないほどに高まった。地元のトップ高校に合格したあの日も、東北大学に合格したあの日も、学会で賞をもらったあの日も、ここまでの感覚は得られなかった。<br>　スズカとの一夜は確実に、慶太に自信を与えた。自分を受け入れてくれる女は探せば必ずいる、と知り、すっかり味をしめた。以来、ますます"垢抜け"にハマり、ナンパとTinderに全力を注ぐ日々。最初は"やっすい女"ばかりだったけれど、次第にそこそこいい女も抱けるようになった。<br>　講義や実験、あるいはそれらのレポート作成の合間を縫って"垢抜け"の資金を稼ぐ必要があるのに、お遊びのボランティアなんかに時間は割けないと思い、サークルは辞め、金を稼ぐための肉体労働系のアルバイトを始めた。<br>　それと並行して慶太は、仙台の中では小洒落たバーでバイトを始めた。最初はスタバや人気のカフェを考えていたけど、それらには"本物"のモテる男がたくさんいて、少しハードルが高く感じられ、結局はバーを選んだ。<br>　ただ、幸いにしてバーでのアルバイトでは"話術"を磨くことができたし、"垢抜け"する前の自分はこんなところでは働けていなかった、と思うと、努力が実ったと実感でき、慶太は嬉しかった。カクテル作りは分量と操作手順を確実に守る、という点で化学実験に似ていて、そういう意味でも向いていた。<br>　それに、バーでバイトしている、と話すようになって以来、明らかにナンパ後の食いつきがよくなった。慶太は自宅にもカクテル作りの道具と、メジャーどころの酒を一通り揃えることで、カクテルを作ってあげるから、これからうちに遊びにおいでよ、という口説き文句も手に入れることができた。<br>　そして、研究室配属が近づいてきた三年生の春休み。ちょうどナンパ師になると決めて一年ほど経ち、経験人数が三十人近くなってきた頃。慶太はつい数週間前まで高校生だったという、サエと名乗る女を自分の部屋に連れ込むことに成功した。<br>　彼女は慶太と同じ東北大学の農学部に通うため、静岡の三島から引っ越したばかりという。表情はあどけないけれど、新歓に向けてか春先の仙台では少し肌寒いであろう、露出の多い服を着ていた。大人の世界に足を踏み入れてみたくて、自分に着いてきた様子。慶太はその背伸びを、素直に可愛いと思った。<br>　いつも通りに"雰囲気"を作り、肩を抱いたとき、明らかにサエがガチガチに緊張していることはすぐにわかった。頑張っているはずなのにどこか垢抜けない服と、まだ幼さが滲む下着を脱がせ、いざ挿入、となったそのとき、彼女は恥ずかしげに、自分は処女だと素直に告白した。<br>　もしかしたらこの子は処女かもしれない、という予想が的中し、慶太の胸は否応なしに高鳴った。自分と一年近く付き合ってもなお、詩織が頑なに捧げてくれなかったものを、サエは出会ってたった数時間の自分に捧げようとしている。それくらい自分は成長した。そう思うと、強い達成感に包まれた。<br>　そのとき既に、散々色々な女性と関係を持っていた慶太だったけれど、処女を抱くのは初めてだった。緊張で硬くなった身体は挿入するにも一苦労で、挿入後も痛がられてろくに腰は振れず、当然達することもできなかった。けれど慶太はその夜、スズカを抱いたときと同等以上の自己肯定感を得た。<br>　サエの申し出でセックスを中断し、一緒にシャワーを浴びた後、慶太は彼女に本名を尋ねた。ナンパした女の名前を知りたいと思ったのは、それが初めてのことだった。<br>　サエの本名を知った彼は、福本紗愛に交際を申し出た。それを聞いて、すっかり驚いた顔をした彼女は、こんな私でよければ、とだけ返事をした。<br><br>　事後、セミダブルのベッドの上で毛布にくるまった瑞希は、いつになく満足気な表情を浮かべていた。彼女はシャワーを浴び終えた慶太に気づくと、少しかすれた声で、ゆっくりと語りかけてくる。<br>「ねえ、気づいてる？ ケータって、私がヤギちゃんと会った日の夜、すっごいいいセックスするんだよ？ 私、毎回そういうふうにしてほしい」<br>　一切悪びれる様子もなく、あまりにもあっけらかんとそう告げられ、慶太は完全に言葉を失ってしまう。さっき得たあの自己肯定感は完全にまがいものだった、という事実に何とか動揺を隠しつつ、へえ、そうなんだ、とだけ返すと、瑞希がまた嬉しそうに笑った。<br>「いつもより硬いし、大きいし、激しいし、それなのに繊細で…… ケータが私をあいつに取られたくなくて、一生懸命頑張ってるんだ、ってことがわかって、なんだか、嬉しくなるんだよね！ だから……」<br>「だから、何？」<br>　慶太は少し震える声で、そう聞き返す。<br>「私、毎週末…… ヤギちゃんと飲んできてもいい？」<br>　瑞希は悪びれもせずそう言うと、あはは、と無邪気に笑った。慶太にはその言葉が冗談なのか、本気なのか、到底判断がつかない。何も言い返せなくて、ただただ顔をしかめることしかできなかった。<br>　ヤギちゃん、こと青柳将は、瑞希の新卒時代の同期にあたる。早稲田本庄出身、と聞いた時点で好感度は最悪だった──そこは群馬の裕福なお坊ちゃんお嬢ちゃんが行く学校だから、仕方のないことだ──けれど、そこからさらに断片的に詳しい話を聞かされて、ますます嫌いになった。<br>　埼玉の熊谷出身で、裕福な地主兼サラリーマンの家庭に生まれ育った"ヤギちゃん"は、恵まれた環境にもかかわらず勉強をサボり、内部進学では不人気の人間科学部に進学した。さらに、そこも留年すれすれで卒業している。けれど、結局は要領よく就職活動をこなし、大手企業への就職を決めている。<br>　それに加え、"ヤギちゃん"はバスケットボールが得意な高身長のスポーツマンで、顔立ちも整っているから、ずっと女性からモテてきている。恐らくナンパメソッドなんて人生で一度も学んだこともないはずなのに、瑞希の心の中に、いつの間にかぬるっと入り込んでいる。<br>　そのことが心底妬ましいし、羨ましい。<br>　慶太は瑞希に一度だけ、どうして"ヤギちゃん"ではなく自分と付き合っているのか、と問いただしたことがある。彼女は一瞬、あっけにとられたような表情を見せた後、いつもにもまして真剣な表情の彼をまっすぐ見つめ、すぐに吹き出し、あはは、と笑い始めた。<br>「ねえ、ケータ！ あなた、本気でヤギちゃんに嫉妬してるんだ！ 何それ、面白っ！」<br>　慶太の方はいたって真剣なのに、瑞希は心底おかしくてしょうがない、という様子でそんなことを言い、またしばらく笑う。そして突然、真面目な表情を作ると、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。<br>「まあ、ヤギちゃんってさ、確かにいいやつだし、カッコいいけど…… 何というか、陰がないんだよね。 言い方は悪いけど、なんか幼いっていうか……本当に何一つ不自由なく育ってきて、バカ騒ぎしながらのほほーんと生きてきたような、そんな感じ」<br>「ふーん。でも、女の子は皆、そういう男の方が好きなんじゃないの？」<br>　慶太がそうぶっきらぼうに返すと、瑞希はわかってない、とでも言いたげに首を左右に振った。<br>「まあ、そういう子の方が多いのかもしれないけど…… 私はヤギちゃんみたいな男、結婚相手として見れないんだよね。なんていうか…… ちょっとつまんないな、って思っちゃう。私はケータみたいな、ひねくれた男の方が…… 一緒にいて違和感がない」<br>　褒められたのか貶されたのかわからなかったけれど、とりあえずその言葉は額面通り受け取っておこう、と慶太は考えた。けれどその後すぐ、「結婚相手として見れない」ということは、彼氏やセフレとしては問題ない、ということだと気づき、結局不安の種は解消されないままでいる。<br>　そんな状態での、ついさっきのやりとり。慶太は改めて、自分は瑞希を完全に手に入れることができていない、ということを痛感する。いつでも自分の手からするっと離れていって、どこかに行ってしまいそうな…… 瑞希のそんな危うさが、ますます慶太の男としてのプライドを傷つけ、虜にさせる。<br>　そういえば、紗愛もそういう女だった、と思い出しながら、慶太はコップに水を一杯汲み、一気に飲み干した。<br><br>　紗愛と交際を始めて程なく、慶太の生活は研究で忙殺されるようになった。彼が入ったバイオプロセス系の研究室は想像より遥かに拘束時間が長く、僅かな空き時間はほとんど全て、生活費を稼ぐためのバイトで潰れる。カネも時間もなくなって、彼女とはあまり会えなくなった。<br>　その一方で紗愛はというと、当然遊びたい盛り。いくら仙台とはいえ、大学一年生の女の子、それも可愛い子なんて、無限に男からの誘惑が湧いて出てくる。そして当の彼女自身も、その誘惑に自分から乗っていきたがるタイプ。毎日のように新歓や飲み会に行っては、慶太の連絡を平気で無視した。<br>　そのことは慶太の紗愛に対する独占欲を大いに刺激した。けれど、多忙でなかなか会えない負い目もあり、なかなか強く出ることができなかった。そもそも、大学に入ってすぐの一番楽しい時期に、彼氏に気を遣って遊びまわるな、と言ったところで、それは難しいことも理解していた。<br>　それに、少なくとも仙台という一地方都市の中では、自分は女性ウケという意味で相当上位の容姿を作り上げている、という自信が慶太にはあった。いかにも東北大生、イカトン、とバカにされるような東北大生という集団の中で、自分がオスとしての魅力で負けることはそうそうない、とも考えていた。<br>　だからあえて、慶太は紗愛にあまり何も言わずにおくことにした。オスとしての魅力を維持するため、何とか時間を見つけて美容や筋トレを続けた。さらに、彼女を虜にできるようなセックスのテクニックを身につけるため、実験室や学生居室でこっそり、"メソッド"やハウツー本を再度読み漁った。<br>　慶太が陰で、そんな涙ぐましい努力を積み重ねたにもかかわらず…… 事件が起こったのは、その年の九月、休みも既に後半戦に入りかけた頃のことだった。<br>　三年の一年間はナンパばかりしていたものの、なんとか院試の免除を勝ち取った慶太は、その代わりに四年の夏休みも毎日研究室に通う羽目になった。周囲は院試対策のため、と研究から一時的に離れることを許されている中、一人、朝早く研究室に赴き、夜遅くまで帰れない日々を過ごした。<br>　そんな調子では当然、紗愛と会う頻度も低いまま。そろそろまずい、と思い始めた頃、彼女から、いったん二週間ほど地元に戻ると聞かされた。帰省後はろくに連絡が取れない日も多く、毎日不安を抱えながら、実験室でひたすらデータを取るしかなかった。<br>　約二週間後の週末、帰省から仙台に戻ってきた紗愛と久しぶりに会ったとき、何となくいつもと雰囲気が違っているように見えた。嫌な予感がするのを必死に心の奥に押し込めながら部屋に連れ込み、服を脱がせ、前戯を済ませ、いざ約一ヶ月ぶりの挿入、というその瞬間、紗愛がゆっくりとその口を開いた。<br>「ごめん。黙ってようと思ってたんだけど、やっぱりダメだ…… あのね、私…… 地元で、慶太くんじゃない男とエッチしちゃった」<br>　今にも泣きだしそうな声でそう告白され、慶太はごくり、と息を呑み込む。自分の炎がどんどん弱まっていくのがはっきりとわかった。散々、色んな女──その中には彼氏持ちも多くいた──を抱いてきたはずなのに、つい許せない、と思ってしまう。けれどその気持ちはぐっとこらえ、言葉を絞り出した。<br>「そっか…… 正直、昼に会った時からずっと、なんかおかしいと思ってた」<br>「やっぱりそうだよね…… 本当に、本当にごめんね。私、慶太くんと最近なかなか会えなくて、寂しくて…… それで、つい……」<br>　泣きじゃくりながらそう語る紗愛に、慶太はしばらく何も返すことができない。彼女がようやく落ち着き始めたのを見計らって、その肩を正面から抱く。<br>「もう二度とやらないって…… 約束してくれる？」<br>「うん、約束する」<br>「じゃあ、今回のことはもう水に流すよ。ただ、一つだけ…… その相手って、どんな男だったの？」<br>　慶太はそう質問すると、密着させていた身体を離し、紗愛の目を見すえる。<br>「えっと…… 高校の同級生なんだけど……」<br>「うん」<br>「私とはサッカー部の選手とマネージャーの関係で」<br>「うん」<br>「彼は高校を卒業して、慶應の商学部に行って……」<br>「うん、顔は？」<br>「結構イケメンかな。背も高くて」<br>「うんうん」<br>　紗愛と会話を交わしているうちに、慶太の黒い炎がまた燃え盛り始めた。<br>──そんな男より、自分の方が絶対に、こいつを感じさせることができるはず。今日は徹底的に、こいつを屈服させてやる。<br>　そう考えた慶太は、一気にベッドに紗愛を押し倒す。<br>　きっと気のせいではなく…… 紗愛はそのとき少し、嬉しそうな笑顔を見せた。<br><br>　月曜日の朝、慶太はいつものように祐天寺駅から、下り方面、元町・中華街行きの電車に乗り込んだ。ぼーっとした彼の頭の中でまた、金曜日の瑞希の言葉が響く。ナンパ師として積み上げてきた自信を、彼女はしょっちゅう、ボロボロに破壊していってしまう。そのことがただただ悔しい。<br>　慶太が働く大手飲料品メーカーの研究開発センターは神奈川県内にあるけれど、都内、それも「それっぽい」ところに住みたい一心で祐天寺を選んだ。少し時間はかかるけれど、毎朝通勤ラッシュと逆方向に通勤できるし、悪くないと考えている。<br>　慶太が就職活動を始めたのは修士一年の冬。夏は学会に出る必要があって、周囲のようにインターンに行くことができず、少し出遅れてのスタート。志望業界もふんわりしていて、冬インターンで受け入れてくれそうなところに片っ端からエントリーシートを出した。<br>　ちょうど夏の学会で受賞していたこともあり、メーカーの仕事自体は向いている、という感覚はあった。化学の研究者、というかつての青臭い夢のことも、まだ忘れてはいなかった。<br>　ただ、化学メーカーは多くの場合、田舎で働かされて、拘束時間も長い。その割に多くの場合、給料はそこそこ程度。割に合わないのではないか、と考え始めていた。加えて作業着を着て働くことにも嫌悪感があったし、抱ける女のレベルも高そうに思えない。<br>　だから、周囲は化学メーカー志望が多かったけれど、慶太はそうしなかった。どうせ一度きりの人生、過去の青臭い夢なんて二の次にして、どうせなら東京に出て一旗揚げたい、と考えた。<br>　加えて、俺はある程度成功したナンパ師だ、工学部のイカトン連中とはレベルが違う、という自意識もあって、慶太は次第に文系就職メインで考えるようになった。さながら東京の私文の学生のように、総合商社、専門商社あたりに行けたらいいな、なんて野心を燃やした。<br>　けれど、そんな野心はすぐに打ち砕かれた。<br>　そもそも動き出しが遅すぎて、採用数は多いものの、選考が早い外資系総合コンサルの採用は、既にほぼ締め切られつつあった。大急ぎでケース面接の練習をこなしたけれど、とても間に合わない。場数を踏んで慣れることもできず、お祈りメールを何度ももらう羽目になった。<br>　事業会社の選考は、かろうじて某総合商社の冬インターンにはなんとか参加することができた。けれど、インターン参加だけではほとんど何の足しにもならないと聞き、慌ててメガバンクも見るようになった。ただ、こちらはそもそも興味がわかないし、当然志望動機も思いつかない。<br>　結局、修士一年の三月の時点で、慶太はひとつもろくな内定がなかった。五月になって日系の某新興コンサルの内定は得たものの、内定者と話してみても、知的なやつは一人もいなさそうに見える。ここに行ってどうするつもりなのか？と自分に問うても、答えは得られない。<br>　そして修士二年の六月、慶太は結局某飲料品メーカーの推薦を取り、神奈川県内の研究開発センター配属確約の内定を得て、就活を終えた。世間一般では人気有名企業として知られていて、待遇だって十分だけれど、東大にだって行けたかもしれない自分が、結局メーカーか、と慶太は思ってしまったのだった。<br>　研究開発センター行きのシャトルバスが正門を抜け、建屋の前に停まる。ぞろぞろ降りていくほかの社員に連なり、社員証を運転手に見せながらバスを降り、更衣室に向かう。建屋は十年ほど前に建て直されたばかりで、ちょっとお洒落なデザインになっている。そのことがわずかに、慶太の自尊心をくすぐる。<br>　暖房が入っていて暖かい更衣室で作業着に着替え、慶太ははあ、と小さくため息をつく。ちょうど今週から、来年冬の新商品のパイロットプラントを稼働させる計画になっていて、少し忙しくなる。ただでさえそんなタイミングなのに、さらに無駄な心配が増えた、と思うと、慶太はまた腹が立ってくる。<br>　金曜日に瑞希から言われたことに対して、慶太は日曜日の夕方になっても、全く気持ちの整理がつかなかった。彼女はそれをあざ笑うかのように、部屋からの去り際、来週末の金曜日も"ヤギちゃん"と飲みに行くことが決まった、と笑顔で報告すると、風のように去っていった。<br>　慶太は更衣室の鏡を覗き込むと、髪を整えながら自分の顔を少し眺める。ここ最近、我ながら、明らかに疲れた顔をしている、と思う。<br>──まずい。オスとしての自信を取り戻さなければ。<br>　そんなことを考えながら、慶太はリュックを背負い、自席に向かった。<br><br>「えー！慶太くん、今年のクリスマスは彼女さんとウェスティン横浜のクラブフロアに泊まるの？ いいなー。彼女さん、羨ましいなー」<br>　パイロットプラントがうなりを上げるその隣で、漆原美玖はそう声をあげると、ふくれっ面をしながら腕を組んだ。何とかおどけてみせてはいるけれど、さっきの彼女の声には、明らかに不満が滲んでいた。<br>「美玖ちゃんの彼氏だって精一杯頑張ってくれるんじゃないの？」<br>「ううん、全っ然だよ！あえてどことは言わないけど、ほんとケチケチしてて、びっくりしちゃった！ メーカーの二年目じゃこんなもんかなとも思ったけど、慶太くんはちゃんといいとこ取ってるじゃん。やっぱり私、安く見られてるのかなって思った」<br>　美玖はそう言うと、表情を曇らせた。彼女は決して瑞希のような、上京してきてキラキラした東京に憧れる、派手な美人タイプではない。世田谷区出身で、普段はおっとりした、少し地味なお嬢様。そんな彼女ですらそういう感覚を持っていることを知り、慶太はまた一つ、女の嫌な一面を見た気になる。<br>　美玖は二年目で、慶太の同期にあたる。世田谷の中高一貫女子校を卒業した後、お茶の水女子大学理学部で化学を学び、東京工業大学の大学院で修士をとっている。地味な風貌だけれど、一度も染めたことのなさそうな艶々とした黒髪と、肌理の細かい色白な肌からは、お嬢様然とした雰囲気が漂う。<br>　新卒の研修時代からたまたま、同じ班になったり同卓で飲むことが多かったこともあり、二人は仲が良い。昼食を共にしたり、仕事終わりに二人だけで飲みに行くこともある。同期や部署の人達からはたまに、二人の関係について質問されることがあるけれど、都度、男女の仲は否定している。<br>　ただ…… お互い、異性としては間違いなく、「アリ」だ。<br>──確か美玖の彼氏は、<strong>東大</strong>とのインカレ文芸サークルで出会った、神奈川の男子校出身の理系くん。自分たちと同い歳で、物理工学科だったかを出て、大学院に行って、修士をとった後は、某大手半導体装置メーカーで働いているはず。<br>　慶太は美玖が過去に聞かせてくれた話の断片をかき集め、その「ケチ」な彼氏をプロファイリングし、いったいどんな男なのか想像してみた。頭の中にはどことなく垢抜けない、いかにも理系です、といった風貌のメガネくんが現れて、その程度の男なら全然勝てるな、なんてことを考える。<br>　もともと慶太は、美玖が自分にうっすらと好意を抱いていることを、以前から何となく察していた。仕事帰りに二人で飲みに行くと、彼女はしばしば、自分が口をつけたグラスを彼に差し出したりする。勢いで肩を引き寄せても拒むどころか、少し嬉しそうに微笑みさえする。<br>　だからその日、慶太は美玖を飲みに誘い、その場でデートを申し込んだ。日程は、瑞希が"ヤギちゃん"と飲みに行くという、今週末の金曜日。きっと断られないだろう、という慶太の予想は、やはり裏切られることはなかった。<br>　一緒にスマホの画面を覗き込みながら、たまたま空きがあった、みなとみらいのとある高級ホテルに宿泊することを決めると、二人は微笑みながら顔を見合わせる。美玖の表情は、試験場で見せる真面目な表情とは違って、地味な雰囲気の中に、女としての喜びと色香が満ちていた。<br>　改めて、女ってやっぱりそんなもんじゃん、と思った。<br>　そんな冷静さが通り過ぎた後、慶太の中で一気に炎が燃え上がっていく。飲み屋からの帰り道、どうしても我慢しきれなくて、ビルのエレベーターで美玖の唇を奪った。思っていたよりずっと情熱的なキスが返ってきて、彼の中の炎がますます燃えさかる。<br>「ここから先は、金曜日ね」<br>　ゆっくり唇を離し、自分にも言い聞かせる意味でそう声に出し、ゆっくり微笑みかける。ここでこのまま流れに任せてホテルに行ったら、台無しになってしまう。美玖もそのことに気づいたのか、少し恥ずかしげに笑った。<br>「じゃあ、週末は楽しみにしてる」<br>　そう言い残すと、美玖は和光市行きの電車で静かに去っていった。<br><br>　その翌朝、慶太は朝九時前に出社した。オフィスの自席に座ると、斜め向かいが定位置の美玖と目が合う。いつも通り最低限のナチュラルメイクで済ませていて、髪はポニーテールにした地味な雰囲気。その頬が少し緩んだように見えたけれど、あえて反応しないでおいた。<br>　時刻が九時半を過ぎた頃、二人はほぼ同時に席を立った。十時からまた、プラントの運転試験が行われる予定があり、実験室に向かう必要がある。いつもと同じように二人並んで試験場に向かうその道中、心なしか、距離が近いように感じられた。ただ、誰もそのことには気づかなかったようだった。<br>　早く金曜日が来てほしい、というもどかしい気持ちを抱えたまま、一日ずつ時が過ぎていき、ついに今日がやってきた。職場での美玖はいつもと同じように、やっぱり化粧っ気のない姿。けれど、集合時間の夜七時半、ホテルのエントランスに現れた彼女を見て、慶太は心底驚いた。<br>　普段と違って髪を下ろし、しっかりメイクをして、メガネも外した彼女は、相変わらず地味ではあったけれど、品の良い美しさを放っていた。瑞希のような、都会の中で洗練された美人とはまた違った艶めかしさを感じ、慶太の胸は高鳴る。<br>　予約していたホテルの中のレストランで、二人はステーキのコースを一緒に味わった。テーブルマナーなんて両親から教わったこともない慶太は、上京してきてから必死にそれを学んだ。そのおかげで、今では通り一遍のことはこなせるようになっているけれど、我ながら少しぎこちない、とも思う。<br>　けれど、美玖は違った。<br>　その所作はスマートで、風格と色気すら感じさせた。これが生まれも育ちも世田谷区で、お父さんは大学教員だという彼女が持ち合わせた「文化資本」なのだと思うと、慶太はここまでたどり着いた自分を褒めたくなる。彼はかつて、自分が総合商社に行けなかった理由を、「文化資本」に求めていた。<br>　何とか美玖に呆れられることなく、ここまでたどり着けた、という安堵の気持ちとともに横浜の夜景を眺めながら、慶太は美玖を後ろから抱き締めてみる。ワンピースの生地はさらさらとした質感で、気持ちが良い。<br>　加えて、ワンピースを隔てたところにある女性らしい肉付きの身体には、抱き締めるとそのまま包み込まれていくような抱き心地がある。その身体に直接触れたくて、一度腕を離すと、背中のファスナーを下げる。美玖がふふ、と嬉しそうに微笑む。<br>　そのまま背中に手を差し込み、しっとりとした白い肌に触れる。ワンピースをはだけながら、彼女の下着が真新しい、上下揃いの黒のレース柄なのを見て、彼はふと、あのスズカのことを思い出す。全ての始まりのはずなのに、どんな性格なのかも、どんな人生を送ってきたのかも知らないままの、あの女。<br>「この下着……」<br>　慶太がそう言いかけたところで、美玖が恥ずかしげに笑う。<br>「これ、火曜日に慌てて買ったの…… 今日は綺麗な下着、着けてきたくて」<br>　そう聞かされて、慶太の感情は一気に昂る。我慢しきれなくなって、そのまま美玖を抱き寄せ、唇を奪う。また頭の中で"メソッド"を思い出しながら、その通りに身体を動かす。もっとも、何も参考にしなくとも、きっと自分の方が"彼氏"より上手に違いない、とも考える。<br>　唇を離し、美玖の頭を丁寧に撫でながら、慶太は今度は、詩織のことを思い出す。一年付き合って、一度もセックスをさせてもらえなかった。手を繋いでも、キスをしても、前戯をしても、どことなく他人事みたいに振舞っていた、冷めたあの女。<br>　詩織のあの態度に散々傷つけられたままだった自分はいま、彼女の上位互換にあたる美玖を、これから抱こうとしている。<br>　ついそんなことを考え、慶太の興奮は最高潮に達した。瑞希からは得られない自己肯定感と満足感に包まれながら、また唇を奪う。美玖がまた、普段の姿からは想像できないような艶めかしい仕草をして、慶太は脳が蕩けそうな感覚を得る。無我夢中で、もう"メソッド"のことを考える余裕はどこにもない。<br>──俺がほんとうに欲しかったのは、もしかして、こいつなのか？<br>　手入れの行き届いた美玖の髪を撫で、鎖骨に唇を這わせながら、慶太はそんなことを考えた。まだシャワー浴びてないからダメだよ、という彼女の声が聞こえるけれど、もうそんな心の余裕はない。無視して、そのままさらに先に進んだ。<br><br>「ねえ、私…… 彼氏と今週末、別れようと思うんだ」<br>　時刻は夜の零時を過ぎた頃。一足先にシャワーを浴び終え、自分の隣に戻ってきた美玖から突然そう告げられ、慶太は驚いてしまう。<br>「それって……」<br>　慶太が言葉に詰まっていると、美玖がふふふ、と恥ずかしげに笑う。<br>「別に、慶太くんに彼女さんと別れて、私と付き合って欲しい、なんて言わないよ！ ただ…… もう彼氏への気持ちは残ってないなって、今日改めて思っただけ」<br>　美玖はそう言うと、ハンドバッグに手を伸ばし、メガネを取り出す。職場でもかけている、縁が黒いプラスチック製で、少し垢抜けないもの。彼女がそれをかけると、少しいつもの彼女の雰囲気が戻ってきて、ますます慶太の頭は混乱する。<br>「慶太くんがもし私のこと、彼女さんより気に入ってくれたんだったら…… クリスマスは彼女さんじゃなくて、私とデートしてほしいな！ でも、別にって感じだったら…… そのときはそれで構わないよ」<br>　まさか美玖がここまで言うような女だと思っていなくて、慶太はますます戸惑う。職場にいるときの、ちょっと地味な見た目で、職場のおじさんたちを転がすのもあまり得意ではなさそうな彼女の姿は、いったいどこまでが"本当の美玖"なんだろう、と考える。<br>　そしてふと、瑞希は今どうしているんだろう、と思う。<br>「暖かいもの飲みたいから、缶コーヒー買ってくる」<br>　美玖と入れ替わりでシャワーを浴び終えた慶太は、彼女にそう告げると、明日の朝着るために出しておいた服を着る。カードキーをポケットに突っ込み、コートをクローゼットから引っ張り出して羽織り、廊下に出ると、エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した。<br>　ホテルのロビー奥にある自販機コーナーで、"いつもの"とは違う缶コーヒーを買ってみる。さっきの美玖の言葉、先週末の瑞希の言葉が頭の中をぐるぐるして、女という生き物はつくづく業が深い、なんてことを考える。そして、そんなことを考えている自分はもっと業が深いかもしれない、と思う。<br>　すぐには部屋に戻りたくなくて、慶太はロビーのソファ、窓際の席に腰かけ、また横浜の夜景を眺める。海のない桐生からずいぶん遠いところに出てきてしまった、という感覚になるけれど、寂しいとは全く思わない。缶のプルトップを開け、コーヒーを一口飲む。<br>　"いつもの"より人工甘味料──アセスルファムK、スクラロース──のケミカルな味がずいぶん強くて、慶太は少し驚く。まがいものの、チープな味。ひと缶分ならまだしも、たくさんは要らない味。なんだか自分みたいだな、と思えてきて、彼は自嘲気味にへへ、と笑う。<br>　ナンパ師として、垢抜けや女ウケばかり気にして見た目を整えて、小手先のモテテクニックばかり積み重ねてきた自分も、表面上取り繕ってばかりで、いつまで経っても心が通じ合わない瑞希との関係も、東京に馴染むために必死で着飾り、いい女ぶる瑞希も、何だかこの缶コーヒーみたいだ、と慶太は思う。<br>　そして、本当はまがいものなんて絶対に似合わない、きちんとした身分のはずなのに、こんなまがいものの自分で満足している美玖…… きっと、あの子はつくづく、世間知らずの呑気なお嬢様。そう思うと、途端にバカらしくなる。<br>　慶太はだんだん、何もかもがどうでもよくなってきて、瑞希に電話してみよう、なんて思い立つ。<br>　かつての元彼の浮気相手を「やっすい女」と看破した瑞希は、彼女のような派手さは持たないけれど、"上流"といって差し支えない育ちを持ち、お金をかけられて育ち、彼女が苦手にする理系科目を苦にせず、東京工業大学で修士号をとった美玖に、いったいどんな"値段"をつけるだろうか？<br>　自分より"高い"と思い、俺を今より求めてくるだろうか？それとも、"安い"と思い、俺を軽蔑して突き放すだろうか？<br>──どちらにせよ、面白い。何もかもぶっ壊れたら、そのときはそのとき。<br>　そんな、サドとマゾが入り混じった気持ちになった慶太は、スマホを取り出すと、瑞希に電話を掛ける。<br>　電話はすぐに繋がり、少し眠そうな瑞希の声が慶太の耳に響いた。<br><br>(おわり)<br>(本作品は実在の人物、組織とは一切関係のないフィクションです)</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n8b715d01da33'>続きをみる</a>]]></description>
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      <pubDate>Sat, 13 Dec 2025 18:10:15 +0900</pubDate>
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      <title>Gemini3 Proによる"フラッペ女子"の予後シミュレーション</title>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 24 Nov 2025 01:11:34 +0900</pubDate>
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      <title>「陰キャ文学」第2回</title>
      <description><![CDATA[<p name="de684975-a8dd-4acd-9e40-4d28bb672898" id="de684975-a8dd-4acd-9e40-4d28bb672898">「せわしなく朝早く出ていって、夜遅くまで保育園に預けられ、親子共に疲れ切って帰宅する子どもと、ママとゆったり朝食をとって幼稚園に登園し、三時過ぎには家に戻って元気なママと過ごす子ども。小学校入学までの間に取り返せないくらい差がつくのは明らかやん」<br>「自分の子どもがどう育っても構わない、そんなことより今のちょっとした贅沢を捨てたくないから、お小遣い稼ぎでぬるい仕事してるだけやん？それで、私はキャリアも子育ても両取りしたワーママですってドヤ顔されましても笑」<br>　美穂がXでそんなことを呟いているうちに、のぞみ六十九号の車内には京都駅到着のアナウンスが流れた。住まいのある長津田から横浜線と新幹線を乗り継ぎ、ようやく京都までたどり着いたけれど、まだまだここからが長い。それなのに既に疲労感が強くて、彼女は思わずため息をついた。<br>　駅のホームに列車が滑り込み、停止する。ドアが開き、降車のチャイムが鳴り響く。美穂はキャリーケースを持ち上げながら駅のホームに出ると、エスカレーターに乗ってコンコースに降りる。そしてそのまま中央口を出て、近鉄京都線のホームへ向かう。<br>　京都の街には晩秋らしい、少しひんやりとした空気が漂っている。美穂はそれを頬越しに感じ、改めて、薄手のコートしか持ってきていないことを少し後悔した。あいにく、分厚いコートはまだクリーニング屋から引き取れていない。<br>　美穂が十一月最初の三連休を地元の奈良で過ごすことになったのは、大学時代に所属していたソフトテニスサークルの同級生、中島綾が、三十八歳にしてついに結婚したから。明日、大阪市内の某ホテルで開催される結婚式に出席し、二次会にも出た上で、月曜日の昼ごろに奈良を発つつもりでいる。<br>　自宅マンションに残された夫の健司は普段ずっと帰りが遅いこともあってか、小学四年生になる一人娘、日向子と三連休を二人きりで過ごすのは難しいという。それで同じ新幹線で名古屋まで乗って、そのまま日向子とともに清須の実家まで帰っていった。その二人も、月曜日の夕方には長津田に戻る予定。<br>　ふと美穂は、健司が実家で日向子にちゃんと、今週末分のSAPIXの宿題をすべて解かせることができるだろうか、と思う。彼女は日向子を、長津田の公立中学には入れたくない。勉強は得意だけれど自己主張が苦手な彼女が、仲のいい友達が中受で抜けた公立中学で、うまくやっていけるか心配だから。<br>　それに健司と美穂は、日向子の将来の選択肢を少しでも増やすため、元々暮らしていた愛媛の工業都市を捨ててまで横浜に移ってきている。せっかく増やした選択肢を使わないなんて、あまりにもったいないと思ってしまう。<br>　だから、去年から中学受験を見据えてSAPIX通いを始めたのだけれど、毎回出される大量の宿題を消化させるのにずっと苦労している。日向子は真面目だし、飲み込みも早い部類だけれど、放ったらかしで自主性に任せるだけでは、宿題を完遂できないことがある。<br>　それに、どうせお受験をするのだから、公立じゃなければどこでもいい、とは思えない。できれば洗足学園かフェリスには入れたい。そしていずれは医者や弁護士のような、手に職がついて自由度が高く、時給の高い仕事に就かせてやりたい。<br>　健司は大阪府立大学で大学院まで材料工学を学んでいたし、美穂自身も中学受験を経験して奈良女子大学附属と、大阪大学法学部を卒業している。だから、自分の子どもにそれくらいの学歴と経歴を期待するのは決して無謀ではない、と彼女は考えている。<br><br>「武内先生がついに、女性初の総理になりはったんよ！ほんま、奈良の誇りやわ！」<br>「高校、大学の同窓として、こんな嬉しいことないわ！」<br>「グラント大統領とのあのツーショット、見た？」<br>　近鉄郡山駅のロータリーで母の直美に拾ってもらい、実家まで連れ帰ってもらうその道中。五年落ちのトヨタプリウスの後部座席で身体を休める美穂に向かって、直美が運転席からそう立て続けに話しかけてくる。<br>　正直なところ、あまり美穂は彼女には共感できない。けれど、だからといってわざわざ、目くじらを立てて反論するほどのことでもない。そうだね、良かったよね、とだけ返し、ぼんやりと窓の外を見る。<br>　奈良選出の保守系有力国会議員として広く知られた武内香織はつい先月、日本の憲政史上、初めて女性として国のトップに立った。すっかり世間はカオリブームに熱狂し、彼女が持っているバッグや愛用しているという化粧品は飛ぶように売れているらしい。<br>　直美はその武内と同じ奈良県内の某公立高校と、神戸大学━━武内が卒業した経営学部と違い、「皆から下に見られる」教育学部だった、といまだによく愚痴を言う━━を卒業している。それゆえ、彼女を強く支持していて後援会にも入っている。選挙のたび、ビラを配ったり電話をかけて回っている。<br>　奈良の田舎、それも女子としては飛びぬけて勉強ができたという直美は、地元を出たい一心で周囲が勧める奈良女子大学文学部ではなく、神戸大学教育学部を選び、卒業後は神戸市内で中学校教員になった。けれど、結局は今で言うところのモンスターペアレントに遭遇し、心を病んで実家に戻った。<br>　祖父の進は失意の彼女の縁談相手を必死に探した。そして最終的には、同じ奈良県の生駒市出身で、同志社大学工学部を卒業し、某大手自動車部品メーカーの奈良県内の事業所で技術職として働いていた父、譲と見合い結婚させた。<br>　進と美穂の祖母、スエの間には男子が生まれず、三姉妹だった。だから、将来は家業──今は兄の一穂が譲から継いだ、自動車整備工場兼自動車ディーラー、「森川モータース」──を継がせることも考慮しての縁談で、恐らく直美がこれを断る余地はなかった。<br>　結婚以来、直美はずっと専業主婦を通し、一穂と美穂を産み育てた。ただ、内心では自分が女であったがゆえに、生まれ持った頭脳と学歴を活かしきれなかった、とずっと思っている。だからこそ、対等に男と渡り合っているように見える武内香織への思いが強いのだろう、と美穂は分析している。<br>　そして、そんな直美と、奈良県出身の女性ということくらいしか武内香織と共通項のない美穂とでは、彼女に対する熱量が違うのは当たり前のこと。それどころか、彼女のあの社交的な雰囲気を見ていると、新卒のときに自分と違って東京の本社に行けた女性社員を思い出し、少し嫌な気持ちにすらなる。<br>　美穂がぼんやりと窓の外に眺めている十一月頭の奈良盆地には、いつしか冷たい霧雨が降り始め、寒々しい雰囲気があたり一面を覆う。明日の大阪は晴れるだろうか、と心配に思い始めたちょうどそのころ、「森川モータース」が目の前を通り過ぎていく。<br>　実家がほぼ目前に近づいたことを察した美穂は、また大きなため息をついた。あまりに大きなため息だったので、直美が何なん、あんた、と少し語気を荒げた。<br><br>「三十八で初婚？おっそ！よう結婚できたな」<br>「一生DINKsってやつか」<br>　一穂はそう言って笑いながら、食卓の上の横濱ハーバーをつまんだ。今どき人前では言えないことではあるけれど、ほとんど同じようなことを美穂も考えてはいた。<br>「いや、それが、これから子どもも一人は産みたいって言ってたわ」<br>「まあ、今どき体外受精もポピュラーやし、一人は産めるんやない」<br>　美穂はそう返すと、直美が淹れてくれたコーヒーを一口飲む。もっとも、彼女自身は三十歳を過ぎてから体外受精で二人目を作ろうとして、結局諦めた経緯がある。<br>　ずっと近居していた進とスエの影響もあって、自分たち兄妹が「人間は皆いずれは結婚し、少なくとも二人は子をなすもの」という考えを内面化していることを、美穂ははっきりと自覚している。<br>　大阪大学法学部に進むと言ったとき、就職して愛媛の工場に配属が決まったとき、彼氏もいないまま二十五歳になったとき、美穂は嫁に行けないのではないか、とスエがうろたえていたことも、未だに覚えている。<br>　そして、自分が二十七で結婚して、二十八で日向子を産んだのは少し遅かった、と後悔もしている。東京の本社に異動したい一心で無駄に仕事を何年も頑張って、子どもを産むチャンスをふいにした、という感覚もある。何より、そういうことをはっきり話したがらない、今どきの風潮に辟易している。<br>「そういえば、りっちゃんは大学受験、大丈夫そうなん？」<br>何となく今の話題を続けたくなくて、美穂は話題を変える。りっちゃん、というのは一穂の長女、律のこと。奈良ではトップクラスの私立高校に通っている。<br>「いやー、大変やわ」<br>「俺は同志社の推薦を薦めたんやけど、コッコーリツに行きたい、って言って全然聞かんくて」<br>「今は神戸大の経営学部に行きたいらしいんやけど、武内香織効果でこれから難易度上がるんちゃうか、っていう話で、ほんまタイミング悪いわ」<br>　一穂はそうぼやくと、直美が淹れてくれたコーヒーを飲み干す。彼もまた、直美が武内香織を熱烈に支持していることを、そこまでよく思っていない。<br>「武内先生のことは関係ないわ！勉強したかどうかがすべてやわ」<br>　直美が突然会話に割り込んできて、一穂は少しうんざりした顔をする。<br>「はいはい、まあ、そうなんでしょうな」<br>「俺、高専からの編入で大学受験してへんし、おふくろや美穂ほど勉強もできひんし、もうわからんわ」<br>　一穂はそう返すと、テレビの電源をつける。画面に映った情報番組は、阪神タイガースの日本シリーズ敗退を伝えていた。それが気に入らない彼は舌打ちをすると、チャンネルをころころ変えた。<br>　恐らく幼いころから家業を継ぐことを意識していた一穂は、地元の公立中学を卒業した後、「家から近いから」「手に職がつくから」と奈良高専の機械工学科に進学し、そこから三重大学の工学部に編入した。<br>　卒業後は大学院には進まず、三重県内の某自動車関連メーカーに就職し、大学時代から交際していた女性とすぐ結婚し、一男一女をもうけた。課長代理まで昇格したけれど、律の高校入学、長男にあたる怜の中学校進学のタイミングで奈良に帰ってきて、森川モータースを継いだ。<br>　一穂が本当は会社を辞めたくなかったこと、それゆえ怜が後継ぎを目指すことより、律が跡継ぎを連れてきてくれるのを期待していることを、美穂は何となく察している。だから、律がキャリアに走って、そのまま独身を貫かれるのが一番嫌なんだろう、と美穂は考えた。</p><p name="0c083409-9eb5-4923-99c4-b783801c7f72" id="0c083409-9eb5-4923-99c4-b783801c7f72">「そういえば美穂も、日向子ちゃんに中受させるんやろ？」<br>「東京の中受ってなんかえらい大変そうやけど、大丈夫なん？」<br>　何故か突然爪を切り始めた一穂にそう質問され、美穂はああ、と切り出す。関西人にはままあることだけれど、彼は首都圏のことをすべてひっくるめて東京、という。<br>「中受させるつもりで去年SAPIXに入れたけど、大変やわ」<br>「私が中受してたころよりやることは増えてるし、特に向こうは裾野が広くて競争も激しいし、全然甘くないわ」<br>　そう返すと、一穂が渋い顔をする。<br>「そんな過当競争、ようやるわ」<br>「別に公立でもええんちゃうん？横浜やろ？この辺におるようなヤンキーなんか、どこにもおらんやろ」<br>「それで変に目覚めて、高学歴になったはええけど、その美穂の友達みたいに三十八で結婚します、とか言われる方が、俺は嫌やわ」<br>　そんなふうに続けられてなんだかイラっとして、美穂は思わず一穂を睨みつける。<br>「兄ちゃん、わかってへんなあ……私らはあくまで環境を買うんよ」<br>「学歴はあくまでも、環境を整えることでついてくればいいんや」<br>「それに今どき……早慶くらいには行って、大学の間にいい男を見つける方が、すぐ結婚できる可能性も高いんやわ」<br>　そう返すと、一穂は顔をしかめた。<br>「なーんか、世知辛い話やな」<br>「俺は横浜なんかより、愛媛の方がよかったと思うけど…..」<br>「まあ、そこは美穂の家庭の方針やし、しゃあないな」<br>　あきれたような顔で一穂はそう言うと、キッチンに向かい、換気扇の電源を入れた。そして、電子タバコをひと息大きく吸い込むと、ゆっくりと煙を吐いた。<br>　一穂のそんな様子を眺めながら、愛媛の田舎なんかより横浜の方がずっといいに決まっている、と美穂は思う。実際、夫婦が日向子の幼稚園入学に合わせ、彼女を連れて長津田に引っ越してから、早いものでもう七年目になるけれど、愛媛に戻りたいと思ったことは一度たりともない。<br>　引っ越す前の年、美穂は九年半勤めた会社を辞めた。<br>　さらにその前の年の春、育休から復職こそしたものの、日向子のことで早退したり突発的に休暇を取って、職場の中年男女からうっすら邪魔者扱いされることにも、そんな状態の中、本社異動というモチベーションを失ってもなお、仕事を頑張り続けることにも、到底耐えられなかったからだった。<br>　健司には妻の稼ぎをあてにする男なんて三流、と言い続けていたし、彼自身もジェンダーロールに親和的な考え方をするタイプなので、美穂の稼ぎはすべて貯金と自分のお小遣いにしていた。だから仕事を辞めたところで生活水準は変わらず、ただ日向子と過ごす時間が増えただけだった。<br>　そして、日向子と過ごす時間が増えたからこそ、田舎の無機質な工業都市で彼女を育てることに、次第に耐えられなくなった。ここでは可愛い服を買おうにも、イオンモールしかない。当然将来の進路の選択肢も狭まるだろうし、田舎のヤンキーみたいな、粗暴そうな小中学生の存在も気になる。<br>　だから必死に健司に訴えかけて、結局は彼に半ば無理やり転職活動をさせた。そしてその結果、某大手メーカーの相模原にある工場に転職が決まった。あの屈辱的な地方工場配属から十年経ち、ついに美穂は首都圏、それも一応は田園都市線沿線に住めることになったのだった。<br><br>　一穂がタバコを吸い終えてからも、食卓では誰も言葉を発さないまま時間が流れた。美穂はリビングの食卓からハンドバッグごと移動し、テレビ台の前に置かれたこたつに脚を突っ込む。<br>　スマホでXのアプリを開くと、少し目を離した間に数えきれないくらいの通知が来ていた。しつこいアンチは皆ブロックしているので、連中からのRTは来ないようになっているはずだけれど、それでも引用リポストやリプライが山のように来る。肯定的な意見と否定的な意見が、だいたい七対三くらい。<br>「私の実家は事業もしてるんやけど、誰も娘には共働きしなさい、夫と家事や育児を分担しなさい、なんて教育はしてません」<br>「所詮、目先の小金にしか目のいかない小作人階級のワーママは、長期的視野で考える資産家階級には永遠に追いつけへんやろうね」<br>　さっきの一穂との会話を思い返しながら、さらにそんなことをポストする。きっとまた、有象無象のワーママ垢が、顔を真っ赤にしてあれこれ反論してくるに違いない。<br>　美穂がXに匿名アカウントを作ったのは二年ほど前。日向子の小学校生活が軌道に乗り始め、マンションも購入し、約五年のブランクを経て、そろそろ働き始めることを考え始めた時期。中学受験やその先の進学も気になり始めていて、そういった諸々の情報収集が目的だった。<br>　ちなみにアカウント名は、長津田に引っ越してから南町田グランベリーパークにばかり行っていたので、自虐の意味を込めて「みなみ」。<br>　「みなみ」は今では、アンチワーママの急先鋒として、数千人のフォロワーを抱えるアカウントになっている。そして、美穂の日常生活のちょっとした空き時間はすべて、Xでのレスバにあてられるようになっている。そのせいか、最近は疲れがなかなか取れない。とはいえ、アカウントをやめる勇気もない。<br>　美穂が前職の某大手メーカーに入社したのは二〇〇九年。就職活動をしていたときは、東京本社の綺麗なオフィスビルで法務や経営企画として働くことを夢見ていたけれど、現実は甘くなかった。縁もゆかりもない愛媛の工業都市にある工場で、生産管理として働くことになった。<br>　ちょうどリーマンショックがあったころで、周囲には内定取り消しを食らった人もいた。だから大手メーカーに入社できて、仕事があるだけでもありがたかった。とはいえ、本社配属が決まった同期女子にはなんでこの子が？という子も混じっていて、美穂は激しく嫉妬した。<br>　大して可愛くもなくて、学歴もせいぜい青学や成蹊あたりなのに、どうしてあの子たちは本社に行けて、自分は愛媛のド田舎の工場に？と思っていたけれど、すぐに理由はわかった。彼女たちはいわゆる、「本物のお金持ち」だった。<br>　美穂はそれまでずっと、何不自由ない暮らしをさせてもらってきたし、自分の実家はお金持ち、とずっと思っていた。けれど、所詮は田舎の小金持ちにすぎないということに、そこで初めて気づいた。<br>　森川モータース自体は市役所や消防署、警察署、地場のタクシー会社なんかとも取引があり、安定した儲けが出ていたし、譲や進は地元では名士として知られてすらいた。正月になると決まって市長や市会議員が二人に年賀状を送ってきたり、挨拶にやってきたりすることも、美穂は誇りに思っていた。<br>　美穂自身も、小学校入学から高校卒業まで、ずっと周囲からは一目置かれて、それなりに丁重に扱われてきたし、「あの森川さんのところの娘さん」として生きてきた。大学に入ってからもやっぱり、周囲で自分以上のお金持ちはほぼ見当たらなかった。<br>　そんな調子だったから、就職して、人生で初めて「本物のお金持ち」に遭遇し、美穂は強いショックを受けた。奈良の田舎の自動車整備工場の娘、という出自に以前ほど自信を持てなくなり、失意の中で愛媛に引っ越したことを、彼女は今でもはっきりと覚えている。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/nc37ce82ea145'>続きをみる</a>]]></description>
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      <pubDate>Fri, 07 Nov 2025 18:50:45 +0900</pubDate>
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      <title>陰キャ文学 第1回</title>
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id="501f5f9d-11a3-49d9-a99b-7bc247da03c2">1<br>「吉村ってデートのとき、文香ちゃんに財布出してもらったことないの？」<br>溝の口駅近くのとある居酒屋、一番隅っこのボックス席から店じゅうに響き渡るような声で、中島一也がそう叫ぶ。<br>　ちょうど今日は金曜日で、店内は満席。一也の大声を面白がった酔客たちの目線が、一気にこちらに集まる。<br>　気恥ずかしくなった吉村徹平は口に人差し指を当てると、静かにして、というジェスチャーをする。一也はそれを見て、少し申し訳なさそうに肩をすくめた。<br>　徹平と一也は3年前の春、同期として大手電機メーカー、プラウディアに入社した。新卒での配属以来ずっと、それぞれ所属する課は違うけれど、同じ部に所属してスーパーコンピューターのシステム設計を担当している。<br>　その一也からTeamsで急にチャットが飛んできたのは、今週の月曜日のことだった。<br>　飲みの誘いだろうな、と思って開くと案の定、久々に飲みたい、徹平と同じ課の宮澤あさひとも話したい、という。ちなみに、あさひが昨年新卒でやってきた頃からずっと、彼女は一也のお気に入り。<br>　仕方のないやつ、と思いながら徹平はその要望に応え、今日のこの場をセッティングした。もっとも、徹平自身も久しぶりにあさひと飲みたかった、というのが正直なところ。<br>　久々の飲み会で嬉しくなったのか、はたまた年下の女性の前でカッコをつけたかったのか、一也は異様なハイペースでビールやらハイボールやらをどんどん飲み干した。そのせいで、20時過ぎの時点ですっかりできあがってしまっている。<br>　一也の特徴的な丸顔が真っ赤になっているのを見て、何だかアンパンマンみたい、と徹平は思う。加えてその頭には、パーマをかけたボリュームのある髪がわさわさと載っかっていて、なおさら面白い。とても慶應ボーイとは思えない、うっすら垢抜けない風貌。まあ、慶應とはいえ、理工学部だとこんなものか。<br>「デート代とかホテル代とか、男が出すもんだと思ってたし……」<br>「向こうもそう思ってるみたいなんだけど……違うの？」<br>徹平がそう返すと、一也はふふっ、と噴出した。<br>「いやいやいや」「令和は男女平等の時代ですよぉ」<br>「男がずっとお金を出す謂われなんて、もうどこにもないですよぉ」<br>すっかり酔った一也はおどけた口調でそう言うと、徹平の隣に座るあさひに目配せする。<br>　あさひはミントグリーンのボウタイブラウスに、ベージュのロングスカートとパンプスを合わせていて、プロパーの技術職というよりは、派遣で来てくれている事務職のOLのように見える。<br>──あさひも事務職の子も、結局は川崎勤務なのによく頑張るよな。<br>徹平は頭の片隅でそんなことを思う。<br>「宮澤さん、どう思いますか」<br>一也はわざと、急に真面目な顔と口調になった。徹平は顔の右半分だけで笑いながら、あさひの方を見る。<br>「うーん」<br>「私はデートは割り勘、ホテル代は彼氏持ち、みたいにしてますかねぇ」<br>あさひが少しためらいながらそう言うのを聞きながら、徹平はふと去年の冬の一夜のことを思い出す。　　<br>　まだ文香と付き合っていなかった頃、彼はサシ飲みから流れに任せて、一度だけあさひと一緒にホテルに行ったことがある。もちろんそのときは、徹平が全部支払った。彼は基本的に、デート代やホテル代は男が出すものだと思っている。<br>「ほらほら」「やっぱりデートは割り勘、って言ってるじゃん」<br>あさひの返事を聞いた一也は得意気な顔をすると、徹平の方を見る。<br>「あー、でも、ちょっと待ってください」「一つ言っておかなきゃいけないことがあって」<br>あさひはそう言うと、一也に微笑みかける。<br>「少なくとも私は……」「割り勘してもいいな、って思える人としか付き合わないです」<br>それを聞いた一也はニヤっと笑い、また大きな声を上げる。<br>「ほぉ、ほぉ、ほぉ、ほぉ」「そういうことね」<br>そしてカッコつけたような顔をすると、さらに言葉を続ける。<br>「じゃあさ、ちょっと質問なんだけど」<br>「俺って宮澤さんから見て……割り勘してもいい男に入る？」<br>相変わらずデリカシーゼロ。セクハラギリギリアウトだと徹平は思う。あまりにひどくて、思わず吹き出してしまった。<br>　あさひの方を見ると、面白がりつつも気持ち悪がっているような表情。ある程度仲が良いから、かろうじて許されている。<br>「あー、ごめんなさい」「中島さんは……まあ、ちょっと無理ですかねー」<br>あさひはあしらうような平坦なトーンでそう返す。半分本気、半分はその場を盛り上げるための嘘、といった雰囲気。<br>「ちくしょう！」「俺は恋愛対象外かよぉ」<br>一也は不服そうな、けれどおどけた表情でそう言うと、手元のハイボールを一口飲み、さらに続ける。<br>「じゃあさ、じゃあさ」「徹平はどうなのよ」<br>一也の目線がまずはあさひに、次に徹平に向けられる。あさひは少し困ったような表情をすると、同じく徹平の方を見た。<br>「吉村さんは……うーん……」「まあ、ギリギリ入りますかね」<br>あさひが徹平の方を見ながらそう言うのを聞いて、一也はまた不服そうな顔をした。<br>「おい、おい、おい、おい」<br>「なんで徹平はありで、俺はなしなんだよぉ！」<br>「やっぱり顔か！顔か！」「まあ確かにこいつ、よく見たらまあまあイケメンだもんなぁ！」<br>一也はあさひの回答が少しお気に召さなかったのか大声で叫ぶと、グラスの1/4ほど残ったハイボールを一気に飲み干した。顔以前の問題だろう、と徹平は思うけれど、あえてそんな野暮な指摘はしない。<br>　こんなデリカシーのないやつでも、失敗を恐れず行動すればちゃんと彼女ができたりするんだから、不思議なものだ。<br>「でも、こいつには文香ちゃんがいるから」「宮澤さん、残念だけど他を探してください」<br>「そんなの知ってますよ」「それに、別にそういうのじゃないですから」<br>　あさひは一也をあしらうようにそう返すと、机に頬杖をつき、困った顔をしながら徹平の方を見る。また二人の目が合い、徹平は腕を組みながら、あさひを真似て困ったような表情を返す。<br>　そのまま数秒経って、徹平は何だか居たたまれなくなった。あさひから一度視線を外すと、手元のおちょこの日本酒を飲み干す。<br>　そして、いったん間を置くためにトイレに向かい、間接照明で照らされた室内で、徹平は真新しい洋式便座に腰かける。<br>　さっきの安い日本酒の雑味が、まだ口の中に残っている。<br>　ふう、とため息が出た。<br><br>2<br>──岩本くん、この前小野寺さんと付き合い始めたみたいです。<br>まあ、小野寺さんは私と違って、"本体"の人だし、綺麗だし。<br>しょうがないですよね。<br>そもそも、岩本君と私じゃ絶対釣り合わないって、頭では理解してたんですけどね。<br>　武蔵小杉駅のほど近くにある、小洒落たワインバーの一角。<br>　部署の1つ下の後輩にあたる飯田理子──読み方はりこ、ではなくまさこ──がそう言葉を紡ぐのを、佐々木文香は黙って聞いていた。<br>    理子の話し方はあたかも自分に言い聞かせるようで、未練があるのはすぐにわかった。新卒の頃からかれこれ2年以上、ずっと淡い恋心を温め続けてきたのだから、さすがに仕方ないことかな、と思う。けれどその反面、最初からダメなことなんてわかってたんでしょ、と意地悪を言いたくもなる。<br>　文香と理子が働くプラウディアシステムズは大手電機メーカー、プラウディアの子会社。二人は南武線沿線、川崎市内にある"本体"の研究開発拠点の同じ課で、常駐のシステムエンジニアとして働いている。<br>　"本体"に常駐するプラウディアシステムズの女性社員にとって、そこの男性社員は、結婚を見据えた恋愛対象としてちょうどいい人たち。何を隠そう、文香が今交際している吉村徹平もそのひとり。<br>　彼らは派遣会社からやってくる事務職の可愛い子をチヤホヤするし、付き合ってみたりもする。そのくせ、いざ結婚、となると、彼女たちを選ぶことはそう多くない。結婚相手には多少容姿が地味でも、"稼ぎすぎない程度に"堅実な稼ぎがあり、福利厚生の恩恵にも与れ、ある程度の大学を卒業していて仕事の話も通じる、プラウディアシステムズの女性社員を選びたがる。<br>　ただ、彼女たちにとっても、自分たちより高い給料をもらっている"本体"の男性社員は、結婚相手としてちょうど良い。そういうこともあって、お互いの共生関係はずっと続いている。<br>　ちなみに、"本体"の男性社員の中でもモテる人──たとえば、岩本巧とか──は、"本体"の社員同士で付き合い、結婚していくのがお決まりのパターンでもある。<br>　文香はふと、正面の理子越しに店内の様子を眺めた。季節はもう晩秋、11月も後半に入っていて、店内はクリスマスらしい装飾で飾り立てられている。外は寒いから、というのはわかるけれど、店内はあまりに暖房が効きすぎていて、もはや熱気が立ち込めているくらい。<br>　その熱気と酔いにあてられて、文香は一瞬、腕を組みながら目をつぶり、少し下を向く。うっすらぼーっとした文香の頭の中に、岩本巧の整った顔立ちと、小野寺美月の勝気な笑顔が続けて浮かんで消えていった。<br>　数秒ほど経ってから顔を上げ、目を開けると、また理子がいた。<br>「大丈夫ですか？気分悪くなっちゃったりしました？」<br>理子は心配そうな顔をして、文香に声をかけてくる。<br>「大丈夫、心配しないで」<br>「ちょっと、ここ暑くってさ」「一瞬、外で頭冷やしてくるね」<br>文香は理子にそう声をかけると、通勤用のショルダーバッグは置きっぱなしにして一旦店の外に出る。<br>　ひんやりした空気が火照った身体を一気に冷やしてくれて、気持ちが良い。大きく深呼吸をすると、はあ、とため息をつく。<br>　そして振り返り、店の窓越しに所在なさげな理子の横顔を見た。<br>　確かに本人も認めるとおり、彼女は地味な女性。<br>　ただ、決してブスではない。<br>　兵庫の姫路出身で、関西訛りが目立つけれど、何か面白いことを言って場を沸かすタイプではない。<br>　関西出身の先輩や上司から何かギャグを振られても、真剣に返してしまうような性格。<br>　文香と同じように、青春時代は所謂真面目ちゃん、地味な優等生ちゃんとして、クラスの"2軍"をずっと遊泳していたような雰囲気が漂う。<br>　そして文香が進学したような、地元で2番目に優秀な公立高校を卒業して、やっぱり文香が卒業した千葉大学のような、少し地味な"コッコーリツ"──岡山大学の経済学部──を卒業している。学生時代、ヨーロッパに留学していたのも一緒。<br>　ファッションにしても、理子は文香も持っているのとよく似た銀縁、メタルフレームのメガネをかけている。<br>　髪も文香と同じく一度も染めたことのなさそうな黒髪。<br>　そして、文香もよく着ているような水色のシンプルなブラウスと、クロップド丈で濃紺のパンツを組み合わせた、無難なオフィスカジュアルに身を包んでいる。<br>　恐らくどちらも、某ブチプラ人気ブランドの通販で買ったもの。<br>　履き潰しかけのGUのパンプスはまったく同じものが、文香が住まう尾山台の1Kで靴箱の肥やしになっている。<br>　そして何より、服や小物を意地でもしまむらやヨーカドーあたりでは買わないところが私と一緒、と文香は思う。<br>　ただ、文香の顔の輪郭はホームベース型に近く、平坦で、顎がしっかりある弥生顔。ひょろっと背が高く、平面的な体型。<br>　それに対し、理子の顔は丸顔で、頬がぷっくりして、顎が小さい童顔。ただ、目鼻立ちははっきりしている。中肉中背で、少しグラマラスな体型。<br>　そして、こう言っては申し訳ないけれど、男性からモテるのは文香の方。<br>　ただ、ふたりが醸し出す雰囲気そのものは何となく似ている。<br>　それはきっと、青春時代に属していたコミュニティやそこでの立ち位置がちょっと似ているから。<br>　それゆえか理子が自分を慕っていて、こうやってしょっちゅう飲みに誘っては愚痴を聞かせてくれるのを、文香は嬉しく思う反面、ちょっと嫌だと思う。<br>　本音を言うと、文香は理子のことを、あまり人として好きだとは思えていない。<br>　それは彼女から見て理子は、どうしても"身の丈を知らない"女性に見えてしまうから。<br>　どう考えても釣り合わないだろう岩本巧に本気で片思いしてみたり、どう考えても自分では背負いきれないような仕事を一人で頑張って背負おうとしてみたり。<br>　そういう前向きさ、ひたむきさが、文香の目には眩しく映る反面、この子はバカなんじゃないか、と思ってしまうことすらある。他人事のはずなのに、いつも歯がゆい思いをする。<br>　"身の丈に合った"男性を選んで尽くしてもらえばいいし、"身の丈に合わない"仕事はうまく男性の先輩に頼んで助けてもらえばいいのに、と思ってしまう。<br>──きっと、今後も内心そう思いながら……こうやって、優しく振る舞うんだろうな。<br>　自席に戻った文香はそんなことを考えながら、手元の少し高価な赤ワインを一口飲む。<br>　口の中に芳醇な香りとともに、渋みがゆっくりと広がっていくのを味わった。<br><br>3<br>　用を足し終えてトイレの水を流すとき、便座の中で水が渦を巻いて流れていくのを、徹平はぼんやりと眺めていた。こういう渦ができるのは、地球が自転していて、水にコリオリ力が発生するから。<br>　大学院時代の研究内容は大気の数値シミュレーションだったこともあって、彼はたまにこんなふうに、水や空気の流れを眺めていることがある。　<br>　ちなみに、全く同じ癖を宮澤あさひも持っている、ということを、徹平は以前本人から聞かされて知っている。<br>　徹平はふと昨年の5月、部に配属が決まった新卒の自己紹介を思い出す。<br>「お天気キャスターに憧れていたので、気象予報士の資格を持っています」<br>あさひはあの日、部長席の前でそう言うと、ニコッ、と笑った。<br>　当時も今も変わらず、丸の内のOLみたいな恰好。<br>　生まれも育ちも国分寺、というところから湧き出してくる、"程よい"育ちの良さ。<br>　清楚でお嬢様っぽくて、ナントカ坂、のアイドル崩れみたいな容姿。<br>　そして、お茶の水女子大学理学部情報科学科の"学卒"、という"絶妙な"学歴。<br>　旧帝大や東工大、早慶あたりの理系で大学院まで6年過ごし、しっかり熟成されてからプラウディアの研究開発拠点に放り込まれた男たちはみんな、こういう"ギリギリお近づきになれそうな"女の子に弱い。こぞって近くの席に座った別の男と顔を見合わせると、ほう、とかへぇ、とか嬉しそうな声をあげた。<br>　じゃあ徹平はどうだったかというと、正直いけ好かなく思った。ふっ、と小さく鼻で笑いすらした。どうせ天気なんてこれっぽちも興味なくて、チヤホヤされたかっただけだろ、とさえ考えた。<br>　何を隠そう、徹平自身は天気予報が好きだ。<br>　もともと彼が天気予報に興味を持ったのは、大阪の茨木で過ごしていた小5の秋、"運動会が予定されていた日"のこと。<br>　その前日の金曜日、秋晴れの空は一日じゅう雲一つないくらいに晴れていて、運動会の雨天中止を期待していた徹平は恨めしく空を睨んだ。<br>　元々その一週間前に季節外れの台風がやってきて、日程は一度順延になっていた。担任の渡辺という熱血教師が、順延日も悪天候なら運動会は中止、とクラスの皆にアナウンスして以来、徹平はずっと、順延日の悪天候を願っていた。<br>　けれど、ついにその願いは叶いそうにない。<br>──明日はとうとう運動会か。嫌やな。<br>そんなことを徹平は思った。<br>　徹平はずっと運動会が嫌いだった。そもそも運動は苦手だし、朝から晩まで外にいて、身体中が砂と汗でベトベトになるのも気持ち悪い。母さんが妙に気合いを入れた弁当を作ってきたり、親父や2つ下の弟の壮平が能天気に徹平の足の遅さをからかってきたりするのも嫌。<br>　そして、そんな三人と一緒に校庭にビニールシートを敷いて、弁当を食べなければいけないのも何となく気恥ずかしい。<br>　加えて、同じマンションに住んでいる森田康介の運動神経の良さや、学年の女子がこぞって康介に黄色い声援を飛ばすところを見せつけられるのも不愉快。<br>　だから金曜日の夜、徹平は心底憂鬱な気分だった。<br>　どうせ雨なんか降らないだろう、と思いながらも、わずかな期待をかけて天気予報をつけた。するとお天気キャスターのお姉さんが、大阪は今日の深夜から明日にかけて雨です、なんて言っている。<br>　けれど、徹平はやっぱり、とてもそんなことは信じられない。<br>──雨なんか降るわけないやん。今日もめちゃくちゃ晴れてたし。<br>そう思いながら眠りについた。<br>　けれど翌朝、目覚まし時計で目覚めた徹平が窓の外を見ると、確かに雨が降っていた。夢でも見ているのかと思い、頬をつねってみたけれど、やっぱり本当に降っていた。そして数分後には、連絡網で運動会の中止が告げられた。<br>　翌週の月曜日、徹平は学校に着くと、いの一番に職員室に向かった。物知りで有名な教頭の森岡先生に、天気予報の仕組みを教えてもらうためだった。<br>　そして、そこで森岡先生から教えてもらったことは、「キショウチョウ」という謎の組織が世界中から色々なデータを集めてきて、「スーパーコンピューター」という装置に分析させることで、天気予報が出来上がっている、ということだった。<br>　徹平はひとつ、世界の裏側を知った気になって嬉しくなって、「キショウチョウ」で働くことを何となく夢見るようになった。<br>　月日が流れて中2の秋、総合の時間に将来就きたい仕事を調べたときも、「気象大学校卒の気象庁の分析官」と堂々と書いた。<br>　幸い徹平はそれなりに勉強が得意で、大阪では名門と誉れ高い公立高校に進学することができ、そこで気象大学校を目指した。<br>　けれど、気象大学校の入試難易度は京大レベルとも、東大レベルとも言われている。彼の成績はなかなか、そこまではたどり着けそうになかった。<br>　苦しむさなかの高2の夏休み、徹平は水泳部の同級生だった今村信介が部室に持ってきた、神戸大学工学部のパンフレットを暇つぶしにパラパラめくっていた。<br>　そして、そのパンフレットのあるページにあの"スーパーコンピューター"という言葉に並んで、"大気シミュレーション"という言葉が小さく載っているのを見つけた。<br>──もしかして、気象大がダメだったら……"スーパーコンピューター"とか"大気シミュレーション"について勉強していた方が、気象庁に入りやすかったりするんだろうか？<br>　そう直感的に思いついた徹平は1年半後、東京工業大学理学部の地球惑星科学科に落ちて、気象大学校にも落ちて、国立大学後期日程で拾われた神戸大学の工学部、情報知能工学科に進むことになった。そして、そこで"スーパーコンピューター"とか"大気シミュレーション"について学んだ。<br>　けれど結局、気象庁に入るのは諦めた。<br>　きっかけは徹平が3年の時、彼よりずっと優秀で、大学院の惑星学専攻で気象学を研究していた天文研究会の杉本先輩が、気象庁総合職の人事院面接まで行って落とされたこと。<br>　杉本先輩は結局、民間では納得行くような就職先が見つからず、滑り止めにしていた地元の奈良県庁に就職した。<br>　そして、専攻とはなんの関係もないような事務仕事をさせられることになり、サークルの人たちはみんな、彼の境遇を哀れんだ。<br>　そんな様子を見せられると、徹平は夢を追うことが怖くなった。<br>　叶うかどうかわからないような夢を追った結果、あえなく夢敗れ、みんなに哀れまれるくらいなら、身の丈に合った成功を掴んで、それを幸福と思って生きていく方がよほど良い。<br>　徹平はそう考え、大学院を修了すると、気象庁にスーパーコンピューターを納入していることで有名なプラウディアに入社した。<br>　それが徹平なりに最大限、夢と現実に折り合いをつけた進路だった。<br><br>4<br>「いやぁ、俺はやっぱり納得いかないよ」<br>徹平がトイレから戻ってきてもなお、一也は相変わらず文香に対する義憤を募らせていた。<br>「もうさ、別にいいじゃん」「少なくとも俺は納得してるんだから」<br>徹平はそう言うと、あさひが渡してくれたお冷やを一口飲む。<br>「まあ、そうなんだけどさぁ」<br>一也は不服そうな顔で切り出す。<br>「文香ちゃんってプラウディアシステムズの子じゃん」<br>「それなら、派遣で来てる事務の子みたいな安月給じゃなくて、年収も500くらいはあるんでしょ？」<br>「なのに日頃は一切財布を出さない、同棲しても家賃は出さないって、ちょっと舐めてると思うんだよな、俺は」<br>「別にお金がなくて出せないわけじゃなくて、お金はあるけど出さないわけで、それってなんつうか、愛を感じられないじゃん」<br>「それで徹平は本当にいいのか？」<br>妙な義憤を発揮している一也は一気にそうまくしたてると、もう4杯目になるハイボールの残りを一気にあおった。<br>「まあ実際、佐々木さんって普段、何にお金使ってらっしゃるんですかね」<br>あさひはそう言うと、少し呆れたような表情をする。彼女があえて"佐々木さん"という距離感のある呼び方をしたことを、徹平は意味深に感じた。<br>　何が一也をここまで義憤に駆り立てているのか、徹平は全く理解できていない。ただ、隣に座ったあさひを見ると、彼女も怪訝な表情をしていて、もしかしたら自分がおかしいのかもしれない、と思い始めた。愛が感じられない、という一也の言葉も引っかかる。<br>　すると途端に、もう何が何だかよくわからなくなってきて、ヤケクソな気分になってくる。とりあえず、手元のおちょこに手酌で日本酒を注ぐと、一気にすべて飲み干した。<br>　徹平はこれまで、文香も含め4人の女性と付き合ったことがある。<br>　最初の彼女は大学1回生の夏から3回生の秋まで2年ちょっと付き合った、天文研究会の同期で、法学部生の森本詩織。<br>　詩織は地味さの中にかすかな妖艶さを持った、図書委員系の女性。堅物と言ってもいいくらい真面目で、中学校の優等生みたいなメタルフレームのメガネをかけていた。<br>　彼女は松山の教員家庭の出身で、暮らし向きは質素だったから、遊びに行くにもお金のかかることはしなかった。同級生ということもあり、いつも割り勘。お泊りも旅行以外はいつも彼女の部屋で、ホテル代について考えることはなかった。<br>　ただ、2人目の彼女だった堀田奏は違った。<br>　彼女はバイト先の学習塾で3つ下の後輩で、王子公園駅に実家があり、関西学院大学の社会学部に通っていた。大学院1年の夏から2年の春まで8か月ほど付き合っていたけれど、その間彼女は一度も財布を出すことはなかった。詩織と違って、何かとお金のかかることをやりたがったし、実家住まいなのでホテルにも行く必要があった。<br>　それでも徹平自身は、三つも年下の女性に気を遣わせるのは違う気がして、必ず自分がお金を支払うようにしていた。ただ、院生になってからは忙しくなる一方なうえに、一人暮らしを始めて色々とお金がかかる。<br>　なのにろくにバイトもできないから、過去のお年玉や入学祝なんかの貯金を食いつぶす日々で、いつも金欠だった。<br>　仕方なくデートは月に2回だけ、お泊りは基本的に自分の部屋、ということにしたら、ある日突然「あなたは私の身体にしか興味がない」と激怒されて振られた。徹平は当然そんなつもりはなかったし、未だに当時のことに対して100%は納得できていない。<br>　3人目の彼女だった大橋日向子もやはり、絶対に財布を出さない女性。<br>　1つ年上の彼女とは社会人2年目の春にマッチングアプリで知り合い、1年ちょっと付き合っていた。<br>　二子新地に実家があり、横浜の女子大を卒業して、丸の内にある金融機関のオフィスで事務職のOLをしていた彼女は、徹平がそれまでの人生で出会った中で一番の美女で、とんでもなく男に金を使わせる。<br>　付き合い始めて1年経ち、向こうから結婚話を切り出してきたとき、徹平の銀行口座には20万円しか残っていなくて、ほとんど自転車操業だった。<br>　おまけに、彼女から結婚後のライフプランを聞かされたけれど、とても、たかがメーカー勤務の徹平が実現できるようなものではない。<br>　サークルや会社の先輩に何度も相談した結果、別れることを決めた。<br>　品川のシティホテルで丁重に別れ話を切り出したら、「女にとって、20代後半の1年間がどれだけ重要かわかっていない」と何度も殴られた。彼女にドライヤーで背中を殴られたときの骨に響くような痛さは、きっと一生忘れないだろう。<br>　そういう恋愛遍歴を経る中で、徹平にはすっかり、"男がお金を出すのは当たり前""極端に高いものをねだられなければ万々歳"という価値観が染みついた。<br>　文香は記念日だからといって、高級フレンチに連れていけなんて言わないし、ビジホなんて泊まらない、とも言わないし、誕生日祝いに10万円以上もするようなブランドものを買わせようともしない。<br>　せいぜい日頃のデート代やホテル代と、たまに行くディズニーのチケット代を徹平に支払ってもらい、同棲のために徹平が引っ越した梶が谷の2LDKの家賃も全て支払ってほしい、というだけ。旅行に行けば自分の宿代は出してくれるし、英語ができるから海外旅行に割高なツアーで行く必要もなくて、それで十分すぎるくらいだと思っていた。<br>　けれど徹平は、今日この場で一也に散々バカにされて、あさひにも呆れられて、初めて自分の価値観を疑い始めた。<br>　加えて、付き合い始めた頃からずっと、文香との間に燃えるような恋愛感情がないことが、改めて気になり始めた。確かに彼女の容姿は好みだけれど、ただお互い、結婚相手として過不足ない、というだけで一緒にいるような気がしてならない。次第に、本当にこんなのでいいのか？と思い始める。<br>　酔いが回ると同時に、だんだんよくわからないけれど腹が立ってきた。いったん感情を抑えようと思い、両手で頭をばさばさ、と何度か強く撫でた。<br>　そしてあさひがその様子を、妙に優しげな目線で見つめていることにふと気づく。その目線をたどって彼女と目が合った瞬間、一気に酔いが醒めるような、そんな気がした。<br>　徹平はふと思い立ち、一度小さくため息をつくと、机の上に裏返しで置いたスマホをひっくり返す。そして、お互いの予定が終わってから合流する計画をしていた文香にこっそり、今日は朝まで飲むことになりそう、とLINEで連絡をした。<br><br>5<br>　時刻が20時半を過ぎた頃、理子はいつになく酔って、泣きが入り始めた。<br>　その様子を見て、文香は小さくはあ、とため息をつく。<br>　理子の泣きべそ混じりの愚痴を聞いているうち、スマホが震えて、徹平からLINEのメッセージが届いた。今夜は朝まで飲むから、この後は会えないという。<br>　何だか嫌な感じがして、彼女はもう一度ため息をつく。<br>　思い返せば、文香は人生で一度も、理子のような大失恋をしたことがない。<br>　男性を好きになるときはいつも心の中で、この人は自分の"身の丈"に合っているか？と問うていて、高望みをしたこともない。<br>　だから、叶わぬ恋というものを知らない。振るときもいつも自分から。<br>　幸福に生きていくためのコツは高望みしすぎないことと、"身の丈"を知ること。<br>　文香がそう考え始めるようになったのは高校生の頃だから、もう10年ほど前になる。<br>　彼女の故郷は、茨城県南部のとある新興住宅地。彼女が小学校低学年の頃に開通したつくばエクスプレスに乗れば、秋葉原から40分ほどで実家の最寄り駅に到着する。<br>　文香の父、孝は、一家の住まいからほど近いところにある某大手メーカーの工場で今も働いている。文香の母で専業主婦の順子は、結婚して30年以上経った今も、彼の仕事内容を全く把握していない。そんなこと理解していなくても、十分幸せに生きることができるから。<br>　一人娘だったこともあり、順子は文香と半ば友達のように接した。<br>　文香が服に興味を持ち始めると、順子は彼女と二人で、まだ開業して間もないつくばエクスプレスに乗って都内まで遊びに行き、そこで綺麗な服を買ってくれた。<br>　同級生の多くは服を地元の量販店で買ったもので我慢させられていて、二人が選んだそれらの服──お嬢様風のワンピースやブラウス──を、素直に羨ましがってくれた。<br>　両親がピアノを習わせてくれたおかげで、音楽も得意だった。周りにピアノが弾ける子がそう多くなかったこともあって、小学校の卒業式では伴奏者を務め、周囲からは多少のリスペクトを受けた。<br>　両親から勧められた中学受験はせず、結局そのまま地元の公立中学に進んだ。部活は吹奏楽部。そこでも人気のあったフルートを担当していたから、部内でも居心地は良かった。<br>　おまけに孝譲りなのか、小学校の頃からずっと学業成績も良好。中学ではいつもお馴染みのメンバーと学年トップを競っていた。<br>　容姿も目立って美人というわけではないけれど、地味なりに──少なくとも、人生で一度もブスと罵られたことはない程度には──整っている。そのおかげで"1軍女子"たちから嫌われることもなければ、ブス、といじめられることもなかった。<br>　だから文香は、地元の公立小学校でも中学校でもずっと、それなりに居心地の良いポジションにいた。ヤンキーっぽい子や可愛くて派手な子たちのような"1軍女子"にはなれなくても、"2軍女子"の中では周囲からも一目置かれて、背筋を伸ばして生きることができていた。<br>　誰かと付き合ったりすることはなかったけれど、成績学年トップを競っていた中の一人で、同じ塾の同じ教室に通っていたテニス部の河瀬くんとはお互い、ライバル心とも恋心ともつかない感情を持っていた。<br>　まだ恋愛感情を100パーセント理解しきれず、性の目覚めにも正直になりきれない。そんな、あの時期特有の青臭い関係が楽しかった。<br>　首都圏の郊外で生まれ育った優等生としては、理想像に近い少女時代。<br>　もちろん「佐々木、何だかスカしてて気に入らない」みたいな声がなかったわけではない。裏で陰口を叩かれたことは何度もある。けれど、自分のことに自信があったから、そこまで気にはならなかった。イジメの対象にもならずに済んでいた。<br>　15歳までずっとそんな調子で過ごしていれば当然ながら、文香はほとんど挫折知らず。もはや、うっすらとした全能感すら持っていた。<br>　けれどその全能感は、県内のトップではないけれど、そこに進学できれば周囲から褒められるような公立の進学校に入ると、一気に消え失せていってしまった。文香はそこでは、何一つ目立つ存在になれなかった。<br>　高校の同級生にはつくばの研究所で働くエリート研究者や、医療機関で働く医者なんかのお坊ちゃん、お嬢ちゃんが多くいた。当然、文香とは同程度か、それ以上に裕福な家庭の出身。生まれて初めて、帰国子女、なんて人にも遭遇した。<br>　そのうえ、その子たちの多くは文香より可愛いし、垢抜けている。何を真似ればああなれるのか、さっぱりわからない。<br>　勉強だって、中学の頃は常に学年トップを争っていたはずなのに、高校ではちょっと成績がいい、くらいになってしまった。せいぜいクラスで7番目とか、その程度。<br>　部活は吹奏楽部に入ってみたけれど、そこには自分よりずっと楽器が上手い子がたくさんいた。中学ではずっと一番上手かった、という自信が、ガラガラと音を立てて崩れていく。<br>　すっかり自信をなくした文香はふと、県内のトップ校に進学した河瀬くんのことが気になった。買ってもらったばかりのiPhoneを使って、先日交換したばかりのLINEでメッセージを送る。<br>「久しぶり」「そっちは高校生活、順調？」<br>「うん、まあまあかな」「佐々木は？」<br>「楽しいけど、中学と違って、私より勉強できる人がいっぱいいる」<br>「それにみんな勉強だけじゃなくてオシャレだし、楽器もうまい」<br>「中学では自分は何でもできるって思えたけど、ここでは無理」<br>「それ、めちゃくちゃわかる」<br>「こっちもみんな、俺より全然勉強できるし、運動もできる」<br>「だから、みんなとちょっと違うことをやろうと思って、応援団に入った」<br>　河瀬くんも自分と似たようなことで悩んで、彼なりの解決策を見出していることに、文香は安堵した。<br>　それから数日考えた結果、できることを増やそうと思い、英語部にも顔を出してみることにした。けれど、結局ここでもまた挫折した。自分の英語の発音は明らかにカタカナ読みで、帰国子女組のそれと比較するとあまりにも不格好。<br>　そういったことが積み重なっていくたび、高々と伸びていた文香の鼻はどんどん折れていった。そして文香が高2になる頃にはとうとう、彼女の顔の真ん中にちょこん、と載っている──孝に似てペチャ鼻気味な──実物の鼻と同じ高さまで、すっかり萎んでしまった。<br>──私はやっぱり、所詮は凡人。あんまり高望みしちゃダメだな。身の丈に合ったことをしないと。<br>　高2の夏のある日、放課後の教室の片隅。<br>　何となく周囲に影響されて志望校にしてみた、東京外大の英語学科と慶應の文学部に揃ってD判定がついているのを不貞腐れた顔で眺めながら、文香はそんなことを考えた。<br><br>6<br>　自分は多少勉強ができるだけの凡人なんだから、何か役立つ知識を身につけた方がいい。<br>　そう思って経済学部志望に切り替え、必死に勉強した文香は、なんとか千葉大学の法政経学部に進めることになった。当初目指していたのは筑波大学の社会学類だったけれど、結局は高望みはせず、現実的なところを選んだ。<br>　併願で上智大学にも受かっていたけれど、そちらは選ばなかった。周りの大人は口を揃えて"コッコーリツ"の方がいい、と言うし、何よりそういうキラキラした都内の私大は、自分の"身の丈に合わない"気がしたから。<br>　3年間、LINEで細々と連絡を取り合う仲だった河瀬くんは、東北大学を目指して浪人するという。<br>　そんな状況では久しぶりに会いたい、なんてとても言い出せない。結局、彼のことは中学時代の綺麗な思い出として胸の奥に一旦しまいこみ、3月末には千葉に発った。<br>　文香は中、高とずっとフルートを吹いていたから、大学でも交響楽団に入った。そこの人達を含め、千葉大学の学生の多くは彼女と似たような性格。<br>　少なくとも文香の観測範囲では、誰もが"身の丈に合わせた、無難な"──しかし最低限度の裕福さを伴った──日々を過ごしていて、彼女はそれをとても馴染みやすい、と感じた。<br>　文香が人生で初めての男女交際をスタートさせたのは、2年のゴールデンウイークのこと。<br>　相手は文学部2年の黒田篤志だった。<br>　篤志は全てが"そこそこ"。容姿もファッションセンスも、全てが普通の人。ただ、あれこれ文香に尽くしてくれるのがよかった。<br>　そのお盆、久しぶりに実家に帰り、高校時代の友達とつくばで集まったとき、篤志の写真を見せて口々に言われた言葉は「優しそう」。<br>　友達の彼氏の写真を見せてもらって、ちょっと反応に困ったときに使う言葉。<br>　けれど、結局はそういう篤志みたいな男性が、自分の"身の丈"には合っているんだろうな、と文香は思った。<br>　ちなみにその翌年の成人式で、文香は河瀬くんと再会した。<br>　彼の方から声をかけてきてくれたけれど、一目見た瞬間に、"身の丈に合わない"存在になってしまった、と思って悲しくなった。東北大学で材料工学を学ぶ傍ら、ボート部で漕手として活動しているという彼は、身長が高くて筋肉質で、爽やかな小麦色に日焼けして、モテるんだろうな、という風貌になっていた。<br>　文香は河瀬くんのことを、その日限りですっぱり忘れることにした。彼女の初恋とも言えないような初恋は、そこであっさり終わりを告げた。<br>　それから時が流れて3年の夏、文香は半年間、イギリスに留学した。中学以来のコンプレックスだったカタカナ英語もいくぶん改善されて、ある程度喋れるようになった。<br>　イギリスから帰ってきて、久々に篤志に会って思ったのは、彼は半年前から何も変わっていない、ということ。相変わらず彼はどことなくのんびりしていて、文香はそのことをどうしても快く思えない。<br>「ねえ」<br>「お互い就活も忙しいし、しばらく会わないことにしようよ」<br>3月の終わり頃、文香は篤志にそう切り出した。<br>「あー、そうだね」「俺も、公務員試験の最後の追い込みがあるし」<br>そう淡々と答える篤志の様子を見て、もう終わった関係、と直感した。<br>　それから、何となく気乗りしきらないまま就職活動を始めた。そんな調子だから、有名企業や人気企業には悉く落ちたあげく、たまたま内定を貰ったのが今の会社。<br>　社名はいかにも関連会社だけれど、給料はまずまず。福利厚生も親会社のものがそのまま適用されて、恵まれている。<br>　内定者懇親会に出てみても、みんな文香と似たようなレベルの大学に通っていて、似たような学生生活を送ってきている。<br>　留学経験も大学で学んだことも大して役に立たなさそうだけれど、なんだか身の丈に合っている。<br>　そう思うと嬉しくなって、文香は納得して内定を承諾した。<br>　少し遅れて7月末になると、篤志も都庁から内定をもらった。そのお祝いをした翌週、文香は彼に別れ話を切り出した。案の定、別れ話はスムーズに進んだ。<br>　フリーになると、周りからは彼氏を作らないの？としょっちゅう質問された。けれど、どうせすぐ就職するのに、今焦っても仕方ない、と思った。<br>──社会人になったら、出会いなんていっぱいあるでしょ。<br>そう考えて、大学生活最後の半年は友達と残された日々を楽しむことを最優先にした。<br>　けれど、実際には年が明けてすぐコロナ禍がやってきた。結局計画していた卒業旅行には行けず、卒業式もなくなって、不完全燃焼のままリモートでの入社式を迎えた。<br>　配属先は今と同じ、親会社の拠点でスーパーコンピューター関連のシステムを設計する部署。当時はフルリモートということもあり、一人ぼっちで心細い、という感覚が抜けないまま2年目を迎えた。<br>　2年目も夏頃になると、徐々に出社頻度が増え始めた。そこで気づいたのは、社内の技術系の男性たちは皆、文香が美人すぎない程度に容姿の整った女性、というだけで、彼女にうっすら好感を抱いてくれる、ということ。<br>　彼らと少し仲良くなれば、ちょっとした頼みごとは簡単に聞き入れてくれるので、一気に働きやすくなった。<br>　そういう仕事の進め方を、人によっては女を使っている、と嫌うかもしれない。けれど文香は、むしろ"オタサーの姫"みたいな立ち位置を取って有利に仕事を進めることを、自分の"身の丈"に合ったやり方と思っていて、なんとも思わない。<br>　会社でチヤホヤされるうちにだんだん自信がついてきて、マッチングアプリを始めた。そして、そこで知り合った男性と隔週くらいの頻度でデートをした。<br>　みんな文香にご馳走してくれたし、その中で良さげな男性と2回くらい付き合ったりもした。けれど、結局はピンとこなくて、半年ほどで振ることが続いた。<br>　ちなみに、吉村徹平にアプローチして、向こうから告白してきてもらったのは今年の春。結局、結婚するならプラウディアの社員が一番良いと思い、部の新年会でたまたま親しくなった彼をターゲットに選んだ。<br>　身長は文香より少し高い。<br>　細いけどヒョロヒョロはしていない。<br>　顔は中の上くらい。<br>　オシャレではないけれど、清潔感はある。<br>　そして、やっぱり何かと文香に尽くしてくれて、いつもデート代もホテル代も払ってくれる。<br>　あの篤志よりも、少しだけモテそうな男性。<br>　2回目のデートで進学先に神戸大学を選んだ理由を聞いたとき、「行きたかったところに全部落ちたから」と答えたのも、上京して2年経っても関西弁を隠し切れていないことに対し、コンプレックスを持っているのもよかった。<br>　この人が今の私の"身の丈"。<br>　そう思って交際を始めて、9月で半年を過ぎたところ。<br><br>7<br>「徹平が文香ちゃんと、今のパワーバランスで納得してるってことは、まあ理解したわ」<br>一也はそう言うと、呆れたような顔をした。そして思い出したかのように、机の上ですっかり冷えてしまったポテトフライをむさぼる。<br>「で」「それで俺が気になるのは、さ」<br>「じゃあ徹平は文香ちゃんのどこが、全部お金出してもいいって思えるくらいに好きなのか、ってことなのよ」<br>一也は長めにカットされたポテトフライを一本つまみ、それで徹平の方を指しながらそう続けた。口の中に水分量の少ないポテトが入っているせいで、喋り方がもごもごしていて、ちょっと汚らしい。<br>「どこが好きか、ねえ」<br>徹平はそう言うと、時間稼ぎをした。けれど実のところ、答えは考えるまでもなく「見た目」と決まっていた。<br>　そもそも初対面の時からずっと、徹平は文香を美人だと思っている。<br>　黒目が大きく、奥二重で細い目は物憂げな一方で、唇が薄くて大きな口は利発そうに見える。さらさらとなびく、一度も染めたことのなさそうなセミロングの黒髪も魅力的。<br>　色が白くて華奢で、すらっとしていて、腕と脚が細い。少し猫背気味ではあるけれど、骨格が綺麗なので、後ろ姿が美しい。<br>　ただ、好きなところは見た目、と素直に言ってしまうと、あさひの機嫌を損ねるかもしれない、と徹平は考えた。<br>　彼は文香もあさひも同じくらい美人だと思っている。けれど、それぞれタイプが違うから、一方を褒めればもう一方は面白くないかもしれない、なんてことを思う。そして今、徹平の気持ちはわずかに文香よりもあさひに向かっているから、彼女の機嫌を損ねるようなことは言いたくない。<br>　数秒悩んだ末、徹平は素直に思ったままを答えることにした。中途半端に繕って、変なことを口走るよりはマシだと思った。<br>「まあ見た目、だよなあ、やっぱり」<br>徹平が数秒の沈黙の後にそう返すのを、一也はニヤニヤしながら聞いていた。そして一瞬間を置くと、突然うひゃひゃひゃ、みたいな奇妙な声で笑い始めた。<br>「お前、さぁ」「流石に素直すぎるだろ」<br>「なんつうか、もう、許すわ」「まあそもそも、何を許すのかもわかんないけど」<br>一也は笑いながらそう言うと、真っ赤な顔でボックス席のベンチに寝転がった。飲みすぎて、そろそろおかしくなってきている。<br>──これ以上飲ませたら、たぶんこいつ、一人で帰れなくなるな。<br>徹平はそう考え、一也の手元にあった日本酒のおちょこと徳利を取り上げると、自分の手元に置く。<br>「中島さん、大丈夫ですか？」<br>あさひは首を伸ばし、一也の方を覗き込んでそう質問する。そんな彼女に向かって、一也は「I'll be back」だとか言いながら、サムアップして見せる。<br>　徹平は何だかアホらしくなって、はあ、とため息をついた。今すぐ店を出ることは難しいと考え、しばらくあさひと、他愛もない会話を続ける。<br>　時刻が22時近くなって、徹平がそろそろ店を出たい、と思い始めた頃、一也は突然起き上がった。<br>　そして一言、しょんべん、と宣言した。<br>　わざわざそんなこと宣言してくれなくても、と徹平は思う。けれど、トイレに行って吐いてくるわけではない、というアピールとして理解した。<br>　この店のボックス席はベンチの座面が畳になっていて、座布団が等間隔に3つ敷いてある。徹平はその中の一つで、ベンチの中央に置かれ、徹平もあさひも使っていないものに、何とはなしに右手をつく。そして、足元の少しおぼつかない一也の様子を見守った。<br>　右手に少しずつ体重を預けながら、トイレに向かっていく一也の後ろ姿をぼんやり眺める。ふと、その手の上にゆっくりと、柔らかい手が重ねられるのを感じた。<br>　確認するまでもなく、あさひの手。<br>　徹平は口角が上がりそうになるのを我慢し、わざと無表情のまま彼女の方を振り返る。誘うような、すべてを受け入れるような……そんな、静かな微笑みを浮かべていた。<br>「中島さんが帰ってきたら、お会計しましょうね」<br>あさひはそう言いながら右手で髪をかきわけ、左手の人差し指では徹平の手の甲を優しく撫でる。<br>　さっきの自分の発言に対し、彼女がなんとも思っていなかったことと、二人が今、全く同じ感情を共有していることを同時に確認できて、徹平は安堵した。<br>「そうだね」「これ以上飲んだら、あいつ一人で帰れなくなりそうだし」<br>徹平はそう返すと、片手で徳利に残った一口ぶんほどの日本酒をおちょこにつぎ、一気に飲み干した。<br>　結局3時間ほど飲んで、お会計は計14000円。<br>　一人7000円で済むし、一也と2人で割ろうと思って提案したけれど、少し酔いがさめ、冷静になった彼に却下された。結局は多めに飲んだ一也が6000円、徹平が5000円、あさひが3000円をそれぞれ支払った。<br>　会計が終わると店を出て、3人で駅に向かう。<br>　相変わらず少し足元のおぼつかない一也が、人ごみに混じって武蔵溝ノ口駅の改札を抜けていくところを、徹平とあさひは二人並んで見送った。<br>　そして、一也の後ろ姿が完全に見えなくなったところで、あさひは徹平の左腕を抱き寄せた。そこに右腕を絡ませ、それからゆっくり、お互いの指を絡めてきた。<br>「私、彼氏と別れました」<br>あさひは徹平の耳元に顔を近づけ、そう呟く。それを聞いた徹平は一瞬驚き、すぐに彼女の手を強く握り返した。<br>　その動きに呼応して、あさひは少し上目遣いで徹平の横顔をのぞき込む。<br>また二人の目が合った瞬間、あさひが満足げに微笑むのがわかった。<br><br>8<br>　溝の口は首都圏の繁華街としては珍しく、所謂ラブホ街を持たない。駅前の雰囲気からすると信じがたいけれど、住宅地が近いので仕方がない。<br>　結局、徹平はあさひと一緒に田園都市線に乗り、梶が谷駅徒歩5分のところにある自宅マンションまで彼女を連れて帰ることにした。<br>　来年のゴールデンウイークからはそこで文香と同棲する予定にはなっているけれど、別に夫婦になると決まったわけではないし、家賃は自分が払っているんだし、それくらい構わないだろうと思った。<br>　駅のホームから腕を組んで歩く道中、徹平は会社で見覚えのある若い女性に追い抜かされたけれど、知らないふりをした。あさひが気づいたのかどうかはわからないけれど、彼女も何の反応もしなかった。<br>　マンションに着いて部屋に入ると早々、徹平はあさひと長いキスをした。そして、その流れでブラウスのリボンを解くとき、ついに、という達成感を得た。<br>──やっぱり、勤務地が丸の内じゃなくて川崎だったとしても……ブラウスのリボンはあった方がいいな。<br>徹平はそんなことを思いながら、ブラウスの裾に手をかける。<br>　第一印象は最悪だったあさひのことを好ましく思うようになったのは、去年の9月頭のこと。部内の研修が一通り終わり、徹平の課に後輩として配属されることが決まった、彼女の歓迎会のときだった。<br>　その日の会場は、オフィスから15分ほど歩いたところにある炭火焼の店。入口すぐのカウンター席に囲まれた厨房では肉や魚が焼かれていて、そこからもくもくと煙が上がる。そして、天井に設けられた換気扇に、その煙がどんどん吸い込まれていた。<br>　歓迎会は和やかに進んだ。ある程度場が盛り上がったタイミングで、あさひを含めた課の新卒2人と、プラウディアシステムズの新卒1人が前に出て挨拶をする。あさひは5月と全く同じ自己紹介をして、それに対して徹平は、5月と全く同じ感想を持った。<br>　挨拶が一通り終わったタイミングで、徹平はトイレに立った。全く同じことを考えた人が多かったらしく、トイレの前には行列ができていて、すぐには入れそうにもない。それなら、いったん一人で行列が捌けるのを待ちたいと思って、彼は店の入口の方に向かった。<br>　入口すぐのカウンター席のところまで戻ってくると、さっきと同じように厨房では煙がもくもく上がって渦を作り、天井の換気扇に吸い込まれていた。その様子が面白く思えて眺めていると、突然後ろから声をかけられた。<br>「乱流って同じものがないから、見ていて面白いですよね」<br>さっき聞いたばかりのあさひの声だった。<br>「私もよく、こういうの眺めちゃうんですよ」<br>「へえ、一緒だね」「大学では流体やってたの？」<br>「はい」「でも、ここじゃ通じないでしょうし、情報工学で流体やってた人なんて異端ですから、あえては言わないようにしてます」<br>あさひはそう言うと、ブラウスのリボンの形を直しながら徹平の隣に並んだ。<br>「それも一緒だね」「俺も情報工学の流体屋さんだから」<br>「で、流体やってたなんて言ったら、機械工学出身だと思われてめんどくさいし、あえては言わないようにしてる」<br>そう言うと、あさひがあはは、と笑う。<br>「完全に私と一緒ですね」<br>「じゃあプラウディアに入ったのも、気象庁にスパコンを納入してるから、だったりしません？」<br>そう訊かれて、すっかり仲間意識が芽生える。<br>「よくわかったね」<br>「だって、私もそうですから」「本当は気象庁に行きたかったけど、無理だったんで、ここに来ました」<br>そこまで言われて、つい15分前までうっすら嫌いだった目の前の女性のことが、今では気になってしょうがない存在になる。<br>「すみません、お名前伺ってもいいですか？まだ全然わかってなくて」<br>「ごめん、名乗ってないよね」「吉村徹平です」<br>「ありがとうございます」「私は……名乗ったほうがいいですか？」<br>あさひはそう言うと、ふふっ、と微笑んでみせた。<br>「いや、要らないよ」「宮澤あさひさん、でしょ？」<br>徹平の言葉を聞いて、彼女はまた微笑み、それからゆっくりと頭を下げた。<br>　徹平もそれを見て頭を下げ、また元の姿勢に戻る。そして、今度は煙の渦を二人で一緒に眺めた。<br>　その日以来徹平は、たまに出社した日の仕事帰り、あさひと二人で飲みに行くようになった。そこでお互い、色々な身の上話をした。<br>　正直、こんなに話が合う女性とは二度と出会えないだろうと思った。そして、恐らくそれは、向こうも同じこと。ただ、あさひには大学時代から付き合っている早稲田の院生の彼氏がいて、その彼氏が就職したら結婚するつもり、と聞き、手は出さないことにした。<br>　そもそも、4つも年下の後輩、それも課内のアイドル的存在と付き合えたとしても、顰蹙を買って仕事をしづらくなるのは間違いない。それは流石に避けたかった。<br>　11月になって幾分肌寒くなったある日、いつも通り二人で、いつもよりも少し足を伸ばして、あさひの通勤ルート上にある立川まで飲みに行った。<br>　店を出ると、11月としては異様に風が冷たい。二人で寒さをこらえて駅まで歩く道中、あさひは酔った勢いもあってか、徹平に抱きついてきた。<br>「ねえ、吉村さん」「私、こんな寒い夜はひとりで帰りたくないです」<br>そう言われて、流石にドキッとした。<br>「でも、あさひちゃんって彼氏いるでしょ」<br>「まあ、いますけど」「研究ばっかで構ってくれないし、寂しいです」<br>「だとしても、ダメだよ」<br>「えー……吉村さん、いじわる」「私のこと、好きじゃないんですか？」<br>寂しげな顔と少ししゃがれた声でそう言われたとき、自分の中の衝動を抑えきれなくなった。<br>　しばらくあさひと見つめ合うと、それじゃあ、と来た道を戻ってホテルに入った。初めての逢瀬が立川のラブホなんてロマンのかけらもない、とは思ったけれど、仕方のないこと。<br>　そのとき徹平は、あさひを抱くのはこれが最初で最後、一度だけの思い出、と決めていた。<br>　次に進もうと思い、翌年の新年会で親しくなった文香と交際して、新しい恋愛も始めた。<br>　けれど結局……今、彼の部屋のベッドの上では、満足げな表情を浮かべたあさひが裸体に毛布を纏い、静かに横たわっている。<br>　悲しいことにあさひと過ごした時間は、文香とのそれよりもずっと心が通じ合って、暖かくて、お互いの快感も段違いだった。<br>　徹平は深くため息をつきながら、やっぱり本当はあさひと一緒にいたい、と思った。そして、そのためにこれからやるべきことについて考えた。<br><br>9<br>──酔いつぶれて、文香先輩にずいぶん迷惑かけてもうたな。申し訳ないな。<br>理子はそんなことを考えながら、南武線の立川行きに乗り込み、家路についた。武蔵溝ノ口で乗り換えて、春に引っ越したばかりの用賀まで帰る。<br>　プラウディアシステムズの新入社員で実家から通勤できない人は、2年目の終わりまでは格安の寮に入れる。ただし、3年目までにそこを出ていかなければならない。代わりに"本体"と同額の家賃補助が出る。<br>　理子が入っていた女子寮は津田山にあるけれど、当然ながら彼氏も友達も呼べない。"キラキラした東京"とも無縁の地味な立地なので、ほとんどは早々に出ていってしまうという。実際、理子の同期も大半は1年目の終わりまでに引っ越してしまった。<br>　けれど、彼女は何となく引っ越しが億劫で、退寮期限ギリギリまで寮生活を続けた。みんなと違って彼氏もいないから、なおさら引っ越しのインセンティブがなかった。<br>　引っ越し先に用賀を選んだのは文香の影響。<br>　元々理子は生活圏を変えるのも面倒くさくて、津田山で物件を探していた。特に何があるというわけでもないけれど、マックスバリュが夜遅くまで開いていて便利で、割と気に入っていた。<br>　けれどその話を文香にすると、絶対にやめた方がいい、と笑われた。<br>「理子、やめなよ、津田山なんて」<br>「そんなところ、結婚してからでも住めるじゃん」<br>「東急沿線なんて単身者向け物件が山ほどあるんだし、ちょっと無理してでも、都内のいいところに住んだところがいいよ」<br>そんなアドバイスをしてくれた。実際文香も、1年目の終わりには女子寮を出て、大井町線の尾山台に引っ越したという。<br>　普段何かと身の丈、と口にしている文香が、こと住む場所についてはどうやら、しっかり背伸びをしているらしいことを、理子は面白く感じる。人間とは往々にして矛盾を抱えた生き物だと思うから、ダブスタやん、だとかは思わない。人当たりが良くて仕事ができて美人で、ちょっと冷たいところもある彼女の、人間臭い一面の一つだと思う。<br>　ただ、理子は正直、そういう"キラキラした東京"みたいなものがあまり理解できていない。そもそも興味もない。元はといえば、上京するつもりすらなかった。<br>　今の会社に入社したのは、別に上京したかったからではない。あちこち落ちまくった末、内定が出た中では一番待遇がよさそうだったのと、勤務地候補の中に神戸があったからだった。ただ、結局川崎配属になって今に至る。<br>　そんな調子だから、今のところは、やっぱり津田山にしておけばよかった、という感想を理子は抱いている。そちらなら職場まで乗り換えなしで一本だし、似たような条件であと1万円は家賃が安いところに住めたはず。その1万円があれば、何冊漫画や本が買えただろうか。<br>　ただ、最終的に文香のアドバイスに納得して決めたのはあくまでも自分だし、もう少し慣れてくれば住めば都、になるだろう、とも理子は思っている。少なくとも飲食店の選択肢は豊富だし、春は砧公園の桜が綺麗だと聞いたから、それを楽しみにしている。<br>　理子は何とかきちんと武蔵溝ノ口駅で降り、ぺダストリアンデッキを通って、溝の口駅で田園都市線に乗り換えた。そして、電車が出発したところで、反対方面、中央林間行きの電車に乗ってしまったことに気づいた。文香に迷惑をかけてしまったことや、岩本巧のことで頭がぐるぐるしていたし、酒にも酔っていてぼんやりしていた。<br>　仕方なく溝の口のひと駅隣、梶が谷で降りる。<br>　ホームに出ると、目の前に仲睦まじそうに手を繋ぐカップルがいるのが見えた。その2人の後姿に、理子ははっきりと見覚えがあった。<br>──あれって、吉村さんと宮澤さん……？嘘やん……？<br>信じられなくて、確認せずにはいられなくて、歩くスピードを速める。そしてそのカップルを追い抜くときに、一瞬ちらっと横顔を確認した。<br>──あれは確かに……"本体"で働いている吉村徹平と、宮澤あさひ。<br>でも、吉村さんって、文香先輩と付き合っていて……<br>そこまで考えて、理子は見てはいけないものを見てしまったことに気づく。心拍数が一気に上がっていくのがはっきりわかった。<br>──嘘や。嘘や。嘘や。あれは人違い。酔ってたから見間違えただけ。<br>そう何度も自分に言い聞かせながら、理子は先ほどまでとは反対方面、押上行きの電車に乗り込んだ。理子の頭の中に、吉村さんとの惚気話を聞かせてくれている文香の様子が頭に浮かぶ。<br>──デートの時、絶対に文香先輩に財布を出させない。<br>　文香先輩の誕生日には、理子が上京してきてから一度も行ったことのないようなキラキラしたお店に彼女をエスコートした。<br>　文香先輩とのツーショットの写真には、いつも優しそうな、嬉しそうな笑顔で写っている。<br>　来年からは同棲も始めるつもりで広い部屋に引っ越して、その家賃も全部自分で払っている。<br>　そんな吉村さんがまさか、浮気だなんて。ありえへん。ありえへん。<br>　理子は心の中で、何度もそう呟いた。<br>　今度はきちんと用賀駅で降り、10分ほど歩いて、自宅マンションに着いた。それでもまだ、理子の動揺はおさまらない。<br>　化粧を落とし、頭をシャキッとさせるために顔を洗いながら思い出したのは、先週末、"本体"の先輩にあたる中島さんがTeamsのチャットで飲み会に誘ってくれたこと。そして、その場に吉村さんを誘うつもり、と言っていたこと。<br>「この前おっしゃってた飲み会って、まだやってますか？」<br>安心したくて、理子は中島さんにLINEでそうメッセージを送信してみた。けれど、10分待っても、1時間待っても既読にならない。<br>──きっと、まだ中島さんと吉村さんは一緒に飲んでて……<br>私の連絡には気づかなくて……きっとそうやんね。<br>　理子は結局そうやって無理やり自分を納得させると、いつもより少しぬるめのシャワーを浴び、眠りについた。<br>　文香は確かに、どこか冷めたところがある。けれど、理子の仕事の愚痴や、うまくいかない恋愛の話を親身に聞いてくれる、優しい先輩でもある。<br>　そんな文香が吉村さんから裏切られているかもしれないなんて、理子はやっぱり考えたくなかった。<br><br>10<br>　翌日土曜日の朝8時頃、理子はLINEの通知音で目を覚ました。<br>　昨晩のことが頭をよぎって全く寝付けず、熟睡もできなかった。そのうえ何だか嫌な夢も見たせいで、昨日の疲れがほとんど残ったまま。<br>　それでも仕方なく、重たい身体を無理やり起こす。<br>　そしてメガネをかけ、充電コードを引っ張ってiPhoneを手繰り寄せ、その画面をのぞき込む。中島さんからの返信が来ていて、一気に心拍数が上がる。<br>「お疲れ！昨日は返信できなくてごめんね」<br>「俺、昨日は飲みすぎて、気づいたら朝だった」<br>「また今度、一緒に飲もうぜ」<br>確認するとそんな返信内容で、理子はつい期待外れ、と思ってしまう。彼女が今一番欲しかったのは、朝まで吉村と飲んでた、という返信。<br>　期待外れとはいえ、既読無視は失礼だし、もしかしたら、と嫌な予感がして、理子はすぐに返信を打つ。<br>「いえいえ！お怪我はありませんでしたか？」<br>「次回はぜひご一緒させてください！」<br>「ちなみに、誰が来てたんですか？」<br>最後の一文を書いて送信しようとしたとき、一瞬躊躇った。けれど、やっぱりはっきりさせたくて、覚悟を決めて送信した。<br>　なのに、それからまた返信が途絶えた。<br>　次に中島さんから返信があったのは、理子が遅めの昼食に冷凍の担々麺を作り、食べ終わった頃だった。<br>「おう！どこかにぶつけたりコケたりせずに帰れたわ！次も呼ぶから来て！」<br>「昨日は俺と吉村と、宮澤あさひちゃんだったよ！知ってるかな？」<br>その返信を見て、理子は昨晩の吉村さんの浮気疑惑はほぼクロだと悟った。<br>　失恋のショックからも回復できていない中、またショッキングな事実を突きつけられる。<br>　理子は一気に、胸のあたりに鉛でも仕込まれたような気分になった。何とか自分を奮い立たせ、当たり障りのない返信をすると、そのままベッドに崩れ落ちる。<br>　彼女の頭の中を岩本くんのこと、小野寺美月のこと、吉村さんと文香先輩のこと、そして宮澤あさひのことが順番にめぐっていった。<br>　岩本くんと吉村さん、小野寺美月と宮澤あさひはそれぞれ何となく似ている、と理子は思う。岩本くんも吉村さんも、技術系の割にちゃんと見た目を整えていて結構カッコいいし、モテるほう。小野寺美月と宮澤あさひは揃って、東京のお嬢様、という感じ。<br>　そして、文香先輩と自分も何となく似ている。<br>　となると……アナロジーで考えれば、最終的には吉村さんは宮澤あさひを選ぶ。<br>　そこまで考えて、理子はますますどんよりした気持ちになった。頭まで掛け布団を被り、また泣いた。<br>　ただ、少し外が暗くなってくると、次第に泣くのにも、ただベッドでゴロゴロしているだけなのにも飽きてきて、たまたま目についた小説を読み始めた。<br>　結局土曜日も日曜日も、夕飯の買い物の時以外はどこにも行かずに本を読んで、たまに泣いて、寝て、気づけば月曜日の朝がやってきた。<br>　すっきりしない頭で田園都市線に乗り、溝の口で南武線に乗り換え、職場の最寄り駅で降りたところで、中島さんと遭遇した。<br>「中島さん、おはようございます」<br>「ああ……うん、おはよう」<br>初めて見るような暗い顔。何があったのか知りたいけれど、自分からは言い出せない。そう思いながら並んで歩いていたら、むしろ中島さんの方から声をかけてきた。<br>「飯田、なんかすごい思い詰めてない？大丈夫？」<br>「やっぱりまだ、岩本のこと……？」<br>そう質問されて、理子は返答に迷う。あなたも大概ですよ、とも思った。<br>「いえ、あの……」<br>一瞬躊躇して頭を整理し、覚悟を決める。<br>「あの、私がこれから話すこと、内緒にしてもらえますか？」<br>「あー、うん、わかった」<br>中島さんが真剣な顔になったので、理子はそれを信用して切り出す。<br>「私……見ちゃったんですよね、金曜日の夜」<br>「何を？」<br>「梶が谷で、吉村さんと宮澤さんが一緒に歩いてるとこです」<br>「それって、単に一緒に帰ってたとか、そういうのじゃなく？」<br>中島さんが怪訝な顔をしながらそう訊き返す。<br>「そういうのやなくって」<br>「手を繋いで、なんかずっとカップルでした、みたいな雰囲気で」<br>それを聞いた中島さんは、複雑な表情を受かべる。<br>「あいつ、マジかよ」<br>「文香ちゃんがいながら……あさひちゃんにも手を出して……」<br>「流石に、ダメだろ」<br>理子はその声には、わずかな義憤がこもっているように思えた。彼女自身の中でも、吉村さんへの嫌悪感が一気に湧き上がっていく。<br>「俺、実は……」<br>「昨日、吉村から、文香ちゃんと別れようと思ってるって連絡もらって」<br>それを聞いて、理子の口から声にならない声が漏れる。<br>「そんな……急になんで……」<br>「それってつまり……ずっと二股してて、やっぱり文香先輩は捨てるってことですよね？」<br>「まあ、そういうことだよなあ」<br>中嶋さんは渋い顔をしてそう言うと、さらに続ける。<br>「ただ俺、ひとつ引っかかってて」<br>「俺、金曜日の飲み会で、ちょっと文香ちゃんを悪く言ってて……」<br>「はあ？」<br>「文香先輩って、そんな悪口言われるような人ちゃいますよ！」<br>理子は頭がカッと熱くなって、本筋からズレることは承知でそう叫ぶ。そして、中島さんを思いっきり睨む。<br>　社会人になって以来、こんな怒り方をしたのは初めて。飲み会でセクハラまがいのことをされても、上司から理不尽なことを言われても、なあなあでごまかしてきた。<br>──私、こんなことできるんだ。<br>理子は我ながら驚く。当の本人すら驚いたくらいなので、中島さんはもはや、うろたえてすらいた。<br>「いや、違うの、違うの、そういうのじゃなくて」<br>「吉村にお金のことで頼りっぱなしなところがよくない、それでお前はいいのか、愛されてると思うのか、ってずっと言ってたみたいで」<br>「はあ？」「そんなの、二人が決めることで、別に中島さんがあーだこーだ言うこととちゃうと思いますけど」<br>理子がそう怒り声で返すと、また中島さんがうろたえたような表情になる。<br>「まあ、それはそう」<br>「ただ、そしたら別れるって言い出しちゃったから」<br>「もしかして俺のせいなのかな、悪いことしたなってずっと考えてたんだけど……」<br>「理子ちゃんの話が正しければ、あいつ、元から二股してて、あさひちゃんに乗り換えるだけだよな」<br>中島さんはそう言うと、顔をしかめる。<br>「なんだかよくわかんないですけど……」<br>「吉村さんも、中島さんも、ほんと、サイテー」<br>「いったい女を何だと思ってるんですか？」<br>理子はそうぶちまける。声が震えているのが自分でもわかった。<br>　彼女の怒りに触れ、固まってしまった中島さんをほったらかしにして、理子はオフィスに向かって歩き始めた。オフィスに着いて初めて、行き場のない怒りや苦しみをまとめて彼にぶつけてしまったことに気づき、申し訳なく思った。<br><br>11<br>　3月半ばの週末、文香は引っ越しに向けて荷造りを進めていた。<br>　埃が出るから窓を開けて作業しているけれど、まだまだ外は寒くて、冷たい風が時折吹き込んでくる。<br>　部屋はずっと綺麗に保ってきたし、要らないと思うとものをすぐ捨ててしまう性質だから、荷造りにはそこまで時間も手間もかからない。だから、作業は一人で十分、と文香は思っている。<br>　徹平は手伝いには来てくれない。引っ越し先も、当初予定していた彼が住む梶が谷の2LDKではない。<br>　理由は簡単。去年の11月末、クリスマスのちょっと前に捨てられたから。<br>　徹平に対しては元々、そんなに燃えるような感情があったわけでもない。正直なところ、結婚を考えた時にネガ要素がないし、自分のことを好きでいてくれるのなら、この人でいいよね、くらいの感情だった。<br>　だから、別れ話をされたときは、悲しいというよりむしろ腹が立った。どうして他に好きな女性ができた、なんて言われなきゃいけないんだろう？とばかり考えていた。<br>　そこまで言われてもなお、関係に固執する気なんてさらさらなくて、その場で別れ話を受け入れた。<br>　12月にもなると、職場中で徹平と文香が別れたことが話題に上るようになった。聞きたくもないのに、嘘か本当かもわからない情報が噂として山のように回ってくる。<br>　その噂によると、彼の新しい彼女──"他に好きな女性"──は部署の4つも年下の後輩、宮澤あさひで、おまけにどうやら、二股をかけられていたらしい。しかも最終的に文香を振った理由は、彼女との交際が金銭的に負担に感じたからだという。付き合って1年も経っていないのに。<br>　そんな話を聞くとますます腹立たしくなって、職場で徹平の顔を見るたび、コーヒーでもぶちまけてやりたい気持ちになった。反面、そんなケチ臭い男と別れて良かった、とも思う。<br>　タイミング的に新しい男を探すのも難しくて、久々にひとりぼっちのクリスマスを過ごすことになった。26日になるまでずっと絶望的な気分だったことを、文香は今でも思い出す。<br>　唯一の救いは、徹平とも宮澤あさひとも、4月からは恐らく二度と顔を合わせずに済むこと。徹平は転職することになり、3月末で退社する。噂によると、行き先はプラウディアと大して給料の変わらない大手IT企業らしい。<br>　職場の中で女を乗り換えて、捨てた女だけでなく新しい女とも一緒に働くのが嫌で、社内で後ろ指を指されるのにも耐えられなくて、逃げていくのがバレバレ。<br>　ダサい奴、とは思うけれど、あんなモテない男だらけの職場で自分だけ、職場の複数の女性と遊びつつ平然と仕事をするためには、多少容姿が整っているだけではダメ。圧倒的に仕事ができるか、肝が太いかのどちらかが必要。<br>　そして、残念ながら徹平は、そのどちらの性質も持ち合わせてはいなかった。ただ、多少容姿が整っているというだけ。徹平の浮気が取り沙汰される場で、「それでも仕事はできる」なんて擁護する人は一人もいなかった。要するに、彼の仕事ぶりは良くも悪くも平凡。<br>　文香を振り、4つも年下の後輩で、部署のアイドル的存在でもあったあさひを自分のものにしたことを、徹平は既に陰でも表でもあれこれ言われていた。社内の人間関係にも影響が出ていた。そんな状況を打破できるような肝の太さは、彼にはなかった。<br>　一方、徹平とは対照的に、彼の新しい女、宮澤あさひは平然としていた。　<br>　さすが、他人の彼氏を盗っていくような女は肝が据わっている、とずっと腹立たしく思っていたけれど、先月、彼女は懲罰人事に近い扱いで来年度から異動させられることがわかり、ちょっと気持ちが晴れた。<br>　4月からは、今のオフィスから電車で数駅乗ったところにあるボロっちい拠点で、"本体"の人達曰く、毒にも薬にもならない仕事をするらしい。<br>　徹平のことはもうすっかりどうでもよくなったけれど、彼をよく呼んでいた部屋で過ごすのが嫌で、引っ越すことにした。ただ、東急沿線ではなかなかいいところが見つからなくて、通勤が遠くなり、家賃も高くなるのを承知で、小田急線の成城学園前に引っ越す。<br>　理子に引っ越しの話をすると、手伝いを申し出てくれた。けれど、何だか彼女から哀れまれているような気がして、それがちょっと癪に障ったから、丁重にその話は断った。<br>　中島も手伝いを申し出てくれたけれど、やっぱり丁重にお断りした。下心はなさそうだったけれど、それでも彼と同じ部屋で二人きりなんて嫌だった。彼女は彼の学歴──学部も院も慶應理工──だけはカッコいいと思うけれど、容姿から漂う芋っぽさも、デリカシーのなさも好きにはなれない。<br>　文香が失恋したと知れると、職場の色々な人が励ましてくれた。<br>　特に派遣で来ている事務職の女性たちによく励まされた。それまでろくに話したことのなかったような人も含め、同年代から年上まで、みんな文香の肩を持ってくれる。<br>　けれど、結局のところ彼女たちは、自分の本当の味方ではない、と文香は考えている。結婚を考えていた"本体"の男に突然別れを告げられ、他の女に乗り換えられた、という、彼女たちにありがちな経験と重ねて、今のところは同情しているだけ、と思っている。<br>　相対的にあさひよりは文香の方が感情移入できるというだけで、彼女たちにとっては"本体"の女も、プラウディアシステムズの女も、内心いけ好かない存在ではあるはずだ。<br>　加えて、同年代の男性社員が何かと彼女を食事や飲みに誘ってくるようになったのも嫌だった。<br>　どいつもこいつも、下心があるのが丸わかりのモテなさそうなのばかり。どうせ、振られて弱っているのにつけこめば、一回くらいはセックスに持ち込めるだろう、と思っているだけ。薄気味が悪くて、ため息が出る。<br>　結局のところ自分は、東京という街でも職場でも、本質的には孤独な存在。それを解決するためには自分を好きでいてくれる男を見つけて、さっさと結婚して、夫という最大の味方を得なければいけない。文香はそういう考えを強め、婚活を始めることに決めた。<br><br>12<br>　3月半ばの週末、あさひは引っ越しに向けて準備を進めていた。<br>　最初は窓を開けて作業していたけれど、まだまだ外は寒くて、冷たい風が時折吹き込んでくるのが嫌で、窓をゆっくり閉める。<br>　20年以上住み続けてきた子供部屋は荷物だらけで、持っていくものと置いていくものを区別するだけでも一苦労する。<br>　両親と離れて暮らすのは人生で初めてだけれど、徹平との二人暮らしなので、特に不安はない。<br>　あさひは先月、唐突に別拠点への異動を告げられた。今のオフィスの最寄り駅から数駅乗ったところにある、ぼろっちいオフィスビルの中に作られた拠点。先行技術開発、とは名ばかりの、いわゆる"問題児"ばかり集めた部署。職場の輪を乱してしまったことに対する、明確な懲罰人事。<br>　ちなみに、徹平も職場にいづらくなり、とある大手IT企業に転職を決めた。それに伴い引っ越すので、流れで一緒に暮らすことになった。鹿島田駅と新川崎駅の間にある築20年超の2DKで、家賃は14万円。全額徹平が払ってくれる。<br>　これでようやく大学時代の友達に"子供部屋おばさん"と自虐せずに済む、と思うと、彼女は少し嬉しくなる。何より、好きな人と一緒に暮らせることが一番嬉しくて、ワクワクする。<br>　他人から羨まれるようなものを手に入れてきたけれど、本当に欲しいものは手に入らない。<br>　あさひは徹平と交際を始めるまでの24年間、ずっとそんな人生を歩んでいた。<br>だから、周りから後ろ指を指されても、笑われても、左遷されても、初めて一番欲しかったものが手に入って、彼女は今、人生で一番幸せだと感じている。<br>　彼女は東京都国分寺市生まれで、大手電機メーカーの社宅で育った。<br>　父、肇は石川県小松市出身で、金沢大学で大学院まで半導体材料工学を学んだ研究者。母、早紀子は新潟県長岡市出身で、肇と同じ金沢大学の文学部を卒業し、中学校教員を経て塾講師として働いていて、揃って教育熱心だった。<br>　あさひの両親は、当時周囲のみんなが持っていたニンテンドーDSの代わりに本や図鑑ばかり買ってきてくれた。ゲーム機よりはるかにお金がかかるのに、海外に連れて行ってくれることもあった。<br>　本や図鑑で見た通り、真冬にオーストラリアに行くと真夏の気候だし、赤道直下のシンガポールに行くと日本より暑い。ヨーロッパに行けば8時間も時差がある。そういう経験を早いうちにさせてくれたのはありがたかったけれど、やっぱり"どうぶつの森"がやりたかった。片思いしていた長坂くんと、"スマッシュブラザーズ"で互角に戦ってみたかった。<br>　けれど、とてもそんなことは言い出せなかった。<br>　小4になると、両親の強い勧めで中学受験の塾に通い始めた。幸いにして成績はよかったし、模試のたびに両親も塾の先生も褒めてくれたけれど、正直、あまり嬉しいとも思えなかった。<br>　そして小6の2月、あさひは都内で難関、名門、とされる私立の中高一貫女子校から偶然合格をもらった。周囲から勧められるがままに出願したチャレンジ校に合格して、身に余るくらいの祝福の言葉をもらったけれど、内心あまり喜べなかった。<br>　彼女が本当に行きたかったのはとある共学校だった。そちらにも合格していたけれど、周囲はせっかく受かったんだから、とみんな女子校の方を勧めてきた。どうしても本音を言えなくて、結局女子校に進むことを決めた。<br>　入学式の日、両親も、おじいちゃんおばあちゃんも、みんな喜んでくれていた。それを見て、やっぱりここでよかったんだ、とあさひは自分を納得させた。<br>　それに、なんだかんだ女子校生活は楽しかった。制服は可愛いことで有名だったし、校内でテストを受けても、その順位が張り出されたりすることはない。校舎は駅を挟んで斜向かいの公立中学よりずっと綺麗。<br>　ただ、その公立中学の生徒が男女仲良く騒ぎながら帰っていくのに遭遇すると、ああいう青春を送ってみたかったな、とよく思った。<br>　東大現役合格を目指す某有名予備校では、男子校の子とも一緒に混ざって勉強する、という話は周りから聞いていた。けれど正直なところ、スパルタで勉強させられるのはもううんざりだった。<br>　あさひは6年間そこそこに勉強して、学校の近所にある上智大学くらいに行ければ良いと思っていた。今度は6年も必死に勉強して、東大に行きたいとはとても思えないし、両親もそこまでは求めてこない。<br>　何より、そういうところで得られる青春は、あさひが求めているような青春とはちょっと違うように思えた。<br>　ちなみに、お天気お姉さんになりたい、とぼんやり思い始めたのは中1の終わり頃。<br>　当時の彼女は、毎晩肇が観ていたNHKの朝のニュースに出てくるお天気お姉さんに憧れていて、どうやったらお天気お姉さんになれるのか調べた。すると、気象予報士の資格を取るか、アナウンサーになる必要があることがわかった。<br>　あさひは、アナウンサーは芸能人になれるような麗しい見た目の人がなるものだと思った。そして、どこかしら理系の大学に進学して、気象予報士を目指すことを考えるようになった。<br>　それからさらに月日が流れて高校生になると、彼女の目標は気象予報士から気象庁で働くことに移り変わっていた。第一志望は東北大学理学部物理系。そこで気象学を専攻して、国家総合職試験を受けて、気象庁を目指すつもりだった。<br>　最初は独学だけで何とかなると思っていたけれど、次第に無理と悟った。結局、高2の春には吉祥寺にある某予備校の現役コースに通い始めた。<br>　そして、彼女はそこで5年ぶりに、男子と一緒に授業を受ける、という経験をした。想像の10倍ほど刺激が強くて、頭がくらくらする日々。<br>　加えて、自分がいかに地味な雰囲気を纏っているか、ということに改めて気づかされる。理系クラスの同級生の多くは自分と同じように地味な格好をしていたから、ずっと気づいていなかった。<br>　あさひは急に恥ずかしくなって、吉祥寺で服を全部買い替え、中学から使っていたメガネもやめた。<br>　YouTubeやインスタなんかで、メイクを研究していたら、なんだか急に垢抜けた気がして、周囲からもそう言われて、嬉しく思った。<br><br>13<br>　あさひが安達大翔と知り合ったのは高3になった年の春。<br>　数学の講師と相性が合わず、新年度からクラスを移った初日、隣に座っていたのが彼だった。<br>　大翔は健康的な小麦色に日焼けして爽やかで、ほとんど一目惚れ。<br>　あさひはどうしても大翔と連絡先を交換したくて、でも話しかける勇気も出なくて、どうしたものか、とずっと頭を悩ませた。<br>　悩んだ挙句、あさひは講義後、大翔が講師の先生に質問しに行っている間にこっそり人目を盗んで、自分の名前と学生番号だけ書いた新品のノートを、大翔のかばんに入ったテキストの中に混ぜて帰宅した。そして、彼がそれを教務に預けずに、直接手渡ししてくれることを期待した。<br>　その週の木曜日、化学の講義を受けにまた予備校に行ったら、後ろから声をかけられた。振り返ると大翔がいて、大成功！と心の中でにんまりした。<br>　彼が彼女のノートをわざわざ、本屋さんでもらえる平べったいビニール袋に入れて返してくれたのも嬉しかった。<br>　それから少し話して、彼が"都立御三家"の一角を占める公立高校に通っていて、陸上部に所属していること、一人暮らしがしたくて京都大学工学部の工業化学科を目指していること、化学も物理も同じ先生の講義を受講していることを知った。<br>「じゃあ、次の授業、一緒に受けようよ」<br>会話の終わり際、大翔にそう言われたとき、あさひは嬉しくて飛び上がりそうになった。<br>　その講義終わり、彼とLINEを交換して家に帰る道中、垢抜けを頑張ってきて本当に良かった、と嚙み締めた。そして京都大学理学部のホームページを検索して、そこにも気象学の講座があることを確認した。<br>　それ以来、あさひの頭の中ではすっかり、大翔と一緒に京都大学を受験しに行って二人とも合格して、そのタイミングで彼に告白して、OKをもらって、一緒に"上京"して、大学の近くの小さな部屋で同居して……という妄想が展開されるようになった。<br>　当時のあさひの成績はクラスでも上位に入る部類で、夏休み明けには、このまま順調に推移すれば京大に合格できる、とお墨付きをもらうこともできていた。<br>　けれど、そんな幸福は長く続かなかった。<br>　肝心の大翔の成績が伸びず、京大模試で大翔はD判定。あさひはB判定で、成績にはかなり隔たりがあった。<br>　それに劣等感を覚えたのか、彼はあさひを次第に遠ざけるようになった。<br>　そして、彼と同じ高校から来ている、地味でおとなしそうだけど小綺麗にしていて、かわいらしい女の子とよく一緒に過ごすようになっていった。<br>　9月の半ば、予備校からの帰り道、その女の子と大翔が一緒に手を繋いで帰っているのをたまたま見てしまい、あさひは言葉を失った。覚悟はしていたけれど、やっぱりつらかった。<br>　そこから勉強のモチベーションが出なくなって、成績が落ちていった。仲の良かった、担任の女性の先生に放課後呼び出されて、「もしかして……失恋した？」と質問されたとき、涙が止まらなくなった。<br>　11月も半ばになると、ようやく気持ちが乗るようになったけれど、京大を狙うにはさすがに遅すぎた。<br>　結局、センター試験対策で手いっぱいで、京大の個別試験には対応しきれず落ちた。後期日程でお茶の水女子大学の理学部情報科学科を受験して、合格を貰った。そこを受験したのは、気象学の講座がある有名大学の中では一番受かりやすそうだったのと、京大に行けないのなら、家から通いたいと思ったから。<br>　周囲の大人はお茶女なんてすごい、と褒めてくれたけれど、あさひの中では不完全燃焼という感覚が強かったし、過去の自分が我ながらバカすぎて、タイムマシンがあるなら戻りたいくらいだった。<br>　吉祥寺校で大学に合格した生徒は、その年の新入生募集のチラシに顔写真が出るというので、写真を撮ってもらったら、3月半ばにそのチラシが完成して、家に送られてきた。<br>　そのチラシにあさひは、大翔とあのかわいらしい女の子──そこで初めて、"江崎真帆"という名前を知った──が並んで写っているのを見つけた。<br>　大翔は筑波大学の理工学群化学類、真帆は生命環境学群生物資源学類に合格したことを知り、一緒の大学に行ける二人を心底羨ましく思った。<br>　そんな調子ではあったけれど、春からの大学生活は第一志望に落ちたなりに、実家暮らしなりに楽しんだ。<br>　気象予報士を目指す有志学生の団体と、早稲田のちょっと地味なインカレ演劇サークルを掛け持ちした。その演劇サークルでは他の私立の女子大から来ている子よりもちょっと格が高いような扱いを受けて、男子にはそこそこの頻度で可愛いと言われて、少し自尊心が回復した。<br>　併願で早稲田の教育学部理学科に合格して辞退していることと、京大落ちということは隠しておいた。たぶんその方が、人間関係はうまくいくだろうと思ったから。<br>　1年の5月末、あさひは基幹理工学部1年の西尾耕太と付き合い始めた。耕太は神奈川の私立中高一貫男子校を卒業して、東大に落ちて早稲田に来ていた。<br>　正直なところ、そこまで好きだとは思わなかったけれど、彼はサークルの同期の中では一番イケメンで、女子から人気があったし、グイグイアプローチをかけてきた。<br>　振る勇気も出なくて付き合ってみたら、皆が美男美女のお似合いカップル、ともてはやしてくれたけれど、やっぱり何か違う気がしていた。<br><br>14<br>　夏前に耕太に初めて抱かれたとき、向こうは既に、それも複数人と経験があると知って、あさひはちょっと嫌な気持ちになった。<br>　女子校で理想の恋愛像を拗らせたあさひはずっと、自分が初めてを捧げる相手は自分以外の女性を知らないでいて欲しい、と思っていた。けれど、結局その希望は叶わなかった。<br>　耕太とはその後も1年半ほど付き合って、楽しかったことには楽しかったけれど、やっぱり違和感が残り続けた。そして、その違和感は彼の"手馴れた感"にあると気づいて、結局はあさひから別れを告げた。<br>　彼女が耕太と別れたと知れると、すぐに色々な男性からお誘いを受けた。<br>　皆が皆、揃って自分に自信ありげな男で、ガンガンアプローチをかけてくる。高2のとき、周囲に比べて明らかに垢抜けないことに劣等感を覚えていた自分が、そこまでモテるようになったこと自体は感慨深かった。けれど、全員なんだかピンとこない。<br>　ただ、彼氏がいないのも寂しくて、結局夏には創造理工学部3年の杉原龍馬と付き合い出した。<br>　耕太と別れて一番最初にアプローチしてきたのが彼だった。<br>　そのことは素直に嬉しかったけれど、やっぱり何となくピンとは来なかった。もうちょっとオラついていない、ガンガンアプローチしてこないような人があさひの好み。<br>　けれど、耕太や他の言い寄ってきた男性ほどは違和感がないし、龍馬もサークル内では女子から人気があったし、まあ嫌いじゃないからいいや、と思い、結局は彼と付き合うことにした。<br>　ただ、本当は、同じ公務員試験予備校に通っていて、サークルの幹事をしている政治経済学部3年の吉野曜一郎のことが気になっていた。<br>　彼は神奈川で一番の公立高校から早稲田に入学していて、そこで初めてあさひは、自分は公立上がりの秀才特有の、いかにも優等生っぽい雰囲気が好きなんだ、と気づいた。──そう、あの大翔みたいな。<br>　なのに、曜一郎はあさひにはあまり興味を示してくれない。<br>　彼はあさひと最低限の会話しかしてくれなかった。公務員試験以外の話題を見つけることもできなくて、どう親しくなればいいのかすら、よくわからないままに終わった。<br>　では龍馬はどうかというと、彼は名古屋出身で、お父さんは電機メーカーの技術職として働いていた。愛知の私立中高一貫校を卒業して、あさひと同じく京大に落ちて来ていた。<br>　属性が近い分、耕太よりは分かり合えるところもあったけれど、やっぱり何かが違う。でも嫌いじゃないし、こんなものだよね、と思いながら付き合っていた。<br>　4年になって気象学の研究室に配属されてからは、あさひは公務員試験と乱流シミュレーションのプログラミングの板挟みになった。尋常ではないくらい忙しくなって、龍馬とはちっとも会えなくなったけれど、彼は変わらずあさひを愛してくれた。<br>　夏になって、国家総合職試験の人事院面接で気象庁に落ちたときは、2週間ほど毎日のように国分寺まで会いに来て慰めてくれた。<br>　1年留年して、院進してから気象庁を受け直すかどうか悩んでいたあさひに、たまたま内定を得ていたプラウディアに行くことを強く勧めてくれた。<br>　そして、僕にとってあさひ以上に魅力的な女性はいない、本当は愛知に帰ってトヨタあたりに就職するつもりだったけれど、あさひのためなら都内で就職先を探す、大学院に行く2年だけ待ってほしい、と本気で言ってくれた。<br>　龍馬からほとんどプロポーズに近いようなことを言ってもらえたこと自体は嬉しくて、彼の好意に応えようと思い、まずはプラウディアに就職することを決めた。<br>　皆、そんな大手に推薦も使わずに内定をもらってすごい、と言ってくれた。けれど、やっぱり、本当に行きたかったのはここじゃないんだよな、という気持ちは変わらなかった。<br>　ただ、今となっては、龍馬に勧められた通りプラウディアに入社したことは自分にとって正解だった、とあさひは思う。そして、龍馬にとってはむしろ、その選択肢を自分に勧めない方が良かった、ということを皮肉に思う。<br>　都心勤務の外資系コンサルティング会社に内定をもらっていて、お金を稼げる見込みがあって、同い年の龍馬と別れる。<br>　そして、懲罰人事を食らってまで、普通の大手メーカー勤務で、お給料はそれなりで、4つも年上の徹平を、"ピンときた"というだけで選ぶ。<br>　そんなあさひのことを、都内の女性100人にアンケートを取ってどう思うか聞けば、98人ぐらいはおかしい、と言うだろう。<br>　けれど彼女からすれば、お金なんてある程度あればどうでもいい。<br>　自分だって稼いでこれるんだから、文香みたいに奢ってほしいとか、経済的に支えてほしいなんて思わない。<br>　ただ、自分が一番好き、一緒にいたい、と思った男性から選ばれて、一緒にいられる、ということが何より重要。<br>　それを恋愛脳、女子校で拗らせている、と笑われるのなら、いくらでも笑ってもらって構わない。<br>　高3のあのとき、一緒に筑波大学に進学した大翔と真帆に、5年間ずっと憧れ続けていたあさひは、今になってようやく二人を見返し、幸せを掴めた気がしていた。<br><br>15<br>　6月末の月曜日、京阪中之島駅を出ると、大阪の空はどんより曇っていた。街全体にうっすらもやがかかっていて、熱気と湿気が身体にまとわりつく。<br>　けれど、そんな天気とは対照的に、理子の気持ちは明るい。この前買ったばかりの紺色の雨傘をさすと、なにわ筋をひたすら歩き、オフィスに向かう。<br>　理子は今年の1月から関西系大手機械メーカー、サカキのIT子会社に転職して、地元の関西に戻った。今は大阪市内で、データベースサーバ担当のSEとして働いている。<br>　野江駅徒歩7分、築5年の鉄筋コンクリート造マンションの一部屋、1Kに住んでいるけれど、家賃は用賀時代に住んでいた築25年、鉄筋コンクリート造マンションのワンルームとほとんど変わらない。つくづく、アホなことをしていたものだと思う。<br>　転職のきっかけは巧への失恋と、文香の周りのあの騒動で、すっかり東京──こう言うと地元の友達には川崎でしょ、と笑われる──に疲れてしまったこと。<br>　あの騒動がまだ落ち着き切らない中で地元に帰省した理子は、やっぱり関西に戻りたい、東京はもう嫌だ、と思った。数ヶ月考えてもその思いは変わらなくて、3月末の期末面談では神戸支社への異動を直訴した。<br>　けれど、その希望はすぐには受け入れられそうにはなかった。そもそも神戸支社は国家プロジェクトが絡む仕事が多く、かなり優秀な人か経験を積んだ人しか行けない、というのが実態。<br>──神戸に戻れるとして、いったい何年後？<br>そう考えると気が遠くなって、理子は次第に転職を考えるようになった。<br>　理子が転職を考え始めたちょうどその頃、あの騒動の中心人物二人が相次いでオフィスからいなくなった。吉村さんは転職し、宮澤あさひは懲罰人事で異動。<br>　これにて一件落着、みたいな空気が漂って、次第にみんな二人のことなんか忘れていく。理子はオフィスの空気がだんだん、あの事件が起きる前のものに戻っていくのを感じた。<br>　6月になると、文香先輩から新しい彼氏ができた、と報告された。巧に紹介してもらった社外の人だという。文香先輩はすっかり、吉村さんのことなんて忘れている様子で、理子は安心した。<br>　けれどその反面、また文香先輩が自分から遠いところに行ってしまった気がして、なんだか寂しくなって、ついにこの時、転職を決意した。3か月ほど活動して、何社か内定をもらって、一番ゆるく働けそうだった今の会社を選んだ。<br>　文香先輩といえば、彼女が12月に自分の送別会を企画してくれた時、心底驚いたことを理子は思い出す。理子はずっと、文香先輩が自分で飲み会を開くところを見たことがなかったから。<br>　その時は文香先輩、巧、中島さん、理子の4人で溝の口まで飲みに行き、あれこれ思い出話に花を咲かせたり、今後の人生計画について話したりした。その場で巧から、美月との結婚を真剣に考えていると聞かされて、なんだか完全に吹っ切れた気がした。<br>　結局、その日は3次会でカラオケに行ってオールした。<br>　すっかり酔った中島さんが大声で歌いながら、セーターを脱いで上半身裸になろうとするのを巧が必死に静止した。それを見て怒った文香先輩は中島さんの背中を思いっきり叩いて、痛いはずなのに中島さんは嬉しそうにしている。気持ち悪くっておかしくって、ずっとケラケラ笑っていた。<br>　ちなみに、あの日に一方的に怒りをぶつけて以来、すっかり疎遠になっていた中島さんに理子が直接謝りに行ったのは、さかのぼって昨年の2月、バレンタインデーの日だった。その頃にはもう関西に帰る、と心に決めつつあったから、それまでにちゃんと関係を修復しておきたかった。<br>　理子は他の人にはばらまきみたいな義理チョコを渡したけれど、中島さんに渡すものはちょっとだけ良いものにした。定時後の人が少ないタイミングを見計らって、彼の席までチョコを持っていき、そこで謝った。<br>「あの……」「あのときは本当にすみませんでした」<br>「あれからずっと、謝るタイミングが見つからなくて……」<br>そう言いかけたところで、中島さんはガハハ、と笑った。<br>「いやいや、俺は気にしてないよ」<br>「むしろ、自分の方が飯田さんに嫌われたと思ってて、でも何も言い出せなくてさ」<br>「俺の方が先輩なのに、ごめんな」<br>そう言われて、理子はほっと胸をなでおろした。<br>　年末頃になるとだいぶ仕事も落ち着いていたので、理子は大量に残っていた有休を使って、12月の後半は全休にした。年末に帰省してからは、一度も東京の土を踏んでいない。<br>　今後も、よほどの予定がない限りは東京には行くこともないと思う。ただ、文香先輩や中島さんや巧や、その他のお世話になった人たちに会うこともなさそうなのは、少し寂しい気もする。<br>　ちなみに本当に偶然なのだけれど、理子は昨年末、関西方面に向かう新幹線の中で、徹平とあさひを見かけた。2人席に並んで座って、肩を寄せ合わせながら眠る二人は幸せそうで、それぞれの左手には指輪がはまっている。<br>──この二人、本当に結婚しちゃったんだ。<br>理子はそんなことを考えながら自席に戻った。<br>　当時は最低、と思っていたけれど、今となっては文香先輩も幸せそうだし、二人もそのまま幸せになってほしい、と思った。<br>　そして、大阪で自分も幸せになれることを祈った。<br><br>16<br>　6月末の土曜日、梅雨の中休みに入った東京の空は晴れ渡っていて、もう真夏のように暑い。<br>　時刻は午後13時半、一日で一番暑くなる時間帯で、表参道駅近辺の気温は恐らく、30度をゆうに超えている。<br>　文香は千代田線の出口を抜け、原宿駅方面に出ると、折り畳みの日傘を広げた。色白なのが自慢なので、絶対に日焼けをしたくない。<br>　この日は岩本巧、小野寺美月の美男美女カップルと一緒に、ダブルデートをすることになっていた。<br>　正直、二人に劣等感を感じてしまいそうで少し嫌だった。けれど、去年の5月末に付き合い始めた川村雄大とは巧の紹介で知り合っているし、恐らく今日、二人から直接入籍の報告を受ける。<br>　だから、ここに来ない選択肢はなかった。<br>　原宿駅前のIKEAに入り、そこで雄大と落ち合う。<br>　相変わらず色黒で、ゴツゴツしていた。スタイリッシュで全体的に白っぽい店内の中で、ちょっと異質で浮いている。それを文香はちょっと面白く思う。<br>　"ハイスペック"な男性と知り合いたければ、"ハイスペック"な男性にお願いするのが一番いい。<br>　そう考えた文香が岩本巧に男性の紹介をお願いしたのは去年の春、歓送迎会の日のことだった。<br>　巧は愛媛県松山市出身で、地元の共学私立中高一貫校を卒業後、大阪大学で大学院まで船舶工学を学び、"本体"に就職している。事業部内では評判のイケメンだし、背も高いし、仕事もできる。彼にお願いすればきっと、いい男を紹介してもらえるだろう、と文香は思った。<br>　当時の文香はまだ、部内では"悲劇のヒロイン"として見られていて、巧は彼女に対して同情的だった。その場ですぐに3人ほど、紹介できる男性の候補を挙げてくれた。<br>　なんだかポケモンみたい、と思いながら、文香が選んだのが雄大。<br>　一番顔は微妙だったけれど、許容範囲。体育会ゴリラっぽい筋肉質で、小麦色に日焼けしていて、一番お金を稼いでいそう。これまでずっと文化系っぽい、徹平みたいな男ばかり選んできて、結局うまくいかなかったから、今回は違うタイプにしてみようと思って彼を選んだ。<br>　聞けば巧の研究室の同期で、大阪大学の硬式野球部出身で、大手海運会社で技術系として働いているらしい。これ以上ない当たりを引いたと思った。とんとん拍子で合う予定が決まり、ゴールデンウイークに大手町のカフェでデートをした。<br>　大阪府堺市出身の雄大は関西弁を直す気がさらさらないようで、オシャレなカフェの片隅で、終始キツめの関西弁で話し続けた。けれど、それもいいなと思った。徹平が関西弁を恥ずかしがって、文香の茨城訛りが混じった標準語を真似るのを、彼女は正直なところ、あまり快く思っていなかったから。<br>　2回目のデートは雄大が野球を観ようと言うので、人生で初めて球場に行った。チケット代からグッズ代からビール代まで、何から何まで、全部彼が出してくれた。神宮球場のビジター席で阪神タイガースを一緒に応援して、よくわからないまま、トランペットに合わせてメガホンを叩き続けた。<br>　文香は絶対音感があるから、トランペットの音階を口ずさんでいたら、「絶対音感なん？すげぇ！初めて見た！カッコええわ！」なんて褒められた。ちょっとバカっぽいなと思ったけれど、嬉しかったし、可愛らしく思った。<br>　3回目のデートは、彼が去年買ったという赤いアルファロメオジュリエッタで成城学園前まで迎えに来てもらって、お台場まで連れて行ってもらった。<br>　紹介だし変なことはされないだろう、と思ってドライブデートを受け入れたけれど、実際何の問題もなく楽しかった。手足の細さと長さには自信があるから、ノースリーブを着ていったら、たまにチラチラ見ているのがわかって面白かった。<br>　その帰り道、夜景スポットに車を止めて告白された。断る理由はなくて、彼の告白を受け入れた。<br>　それから1年ちょっと、特に喧嘩をすることもなく順調に月日が流れた。雄大は文香の容姿を気に入って、何かと綺麗だと言ってくれる。飽きないのかというくらいいっぱい写真を撮る。<br>　絶対に彼女に財布を出させることはなくて、徹平よりもずっと稼いでいるから羽振りも良い。<br>　ワガママもほとんどは聞き入れてくれるし、決して嫌な顔をしない。いつもお姫様扱いでチヤホヤしてくれる。<br>　そんな調子なので、年齢も年齢だし、さっさとプロポーズしてほしい、と思い始めたところ。今日、巧と美月からの婚約報告を聞くことで、雄大も結婚について真剣に考え出すことを期待している。<br>　雄大と一緒にIKEAの2階に上がると、巧と美月が真剣に食卓を見ているのが目に入った。相変わらずの美男美女カップルぶりで、少し劣等感が刺激されるけれど、もうこればかりはどうしようもない。<br>　正直、美月を見ているとただただ劣等感が刺激されてしまう。目鼻立ちがはっきりした美人なのは言わずもがな、育ちもいい。紺色の、コンサバなデザインのワンピースがよく似合っていて、いかにも令嬢、といった雰囲気。自分が同じものを着てもああはならないよな、と文香は思う。<br>　彼女の出身は横浜市青葉区で、都内の名門私立女子校を経て慶應の法学部を卒業した。アメリカのニューヨークに1年留学していたこともあるという。<br>　当の本人は"モラトリアム"とか"遊んでただけ"と自虐する大学院進学を経て法学の修士号を取得し、巧より１年早くプラウディアに入社している。<br>──唯一、腕と脚の細さだけは美月に勝てるかな。<br>　文香はふとそんなことを思ったけれど、そんな細かい精神勝利を得たところで結局は虚しくなるだけだと思って、胸の内にしまい込んだ。<br><br>16<br>　4人で巧が予約してくれたカフェに向かう道中、文香はふと、河瀬くんと再会した時のことを思い出す。<br>　徹平に振られて、失意のなか帰省したあの年の年末、つくばエクスプレスの車内で見覚えのある顔を見かけた。すぐに河瀬くんだとわかった。<br>　居ても立っても居られない気持ちになって、自分から声をかけた。相変わらず爽やかでカッコよかったけれど、成人式で再会したときより綺麗になって、彼に釣り合う女性になっている自信はあった。何より、約6年ぶりの再会、それもこのタイミング、ということが嬉しい。<br>　地元の駅には何もないから、柏の葉キャンパスで降りて、駅の近くのカフェに入る。そして、それからお互いの身の上話をした。<br>　河瀬くんはその前の年の春、東北大学の大学院を修了して、大手素材メーカーに就職していた。そして、今は愛媛のとある地方都市にある研究所で働いているという。<br>　それを聞いて思わず、愛媛かぁ、遠いね、と声に出てしまった。<br>　文香は大阪よりも西に行ったことがない。大阪に行ったのも、中3の修学旅行のときの一度きり。だから、愛媛にいる、なんて言われると、ものすごく遠くにいるように感じる。<br>　気になって、彼女がいるかどうか聞いてみたら、今はいないという。その瞬間、一瞬色めきだってしまったけれど、やっぱり愛媛には行けないよな、と思い直した自分に気づいた。<br>　河瀬くんが大学時代に付き合っていた彼女は、仙台にある私立の女子大を出て、仙台の地銀で働く箱入り娘で、宮城から遠く離れた愛媛で働く河瀬くんとの結婚は認めてもらえなかった、と聞いて、気の毒に思った。<br>　お互い一通り話し終え、お互いに今後も"良き旧友"であり続けることを確認した文香と河瀬くんは、地元の駅の改札で手を振り合うと、背を向け合い、それぞれの方面に歩みを進めた。<br>──次に会うのはいつになるだろう？<br>　そんなことを考えてふと振り返った時には、河瀬くんの姿はもう見えなくなっていた。改めて、もうお互いの人生が交わりあうことはないんだろうな、と思い、文香は完全に吹っ切れた。そして雄大と出会って、今ここにいる。<br>　駅から5分ほど歩くとカフェに着いた。南仏風の外観がかわいらしいお店。案内された席に順番に腰かけて、メニューを眺める。<br>　巧と美月はたまに来るお店らしく、おすすめはガレットだというので、全員それを注文した。15分くらいして食事が提供されたとき、雄大がこれだけしかないの？と言いたげな顔をしたのが面白かった。<br>　それから全員一斉に、静かに食事をした。美月の食事の所作が相変わらず上品で、こういうところからして勝てないよな、なんて思う。たまに職場のたわいない、無難な話を挟みながら食事を終え、一息ついたところで、予想通り、巧から入籍の報告を受けた。入籍日は七夕の日、結婚式は秋にするという。<br>　文香はそれを聞いて、素直に羨ましく思った。自分も早く結婚したい、なんて考えながら雄大の表情を確認してみたけれど、あまりいつもと変わっていなくて、ちょっとやきもきする。<br>「結婚式、雄大と佐々木さんは呼ぶとして、あとは誰を呼べばいいかなあ」<br>「社内婚だし、やっぱり課長とかも呼ばないとダメなのかなあ」<br>巧はそんなことを言いながら、美月の方を見る。<br>「そうだねえ」「上司、仲の良い同期、って感じかなあ」<br>「うわー、上司も呼んだらちょっと堅苦しくなりそう、やだな」<br>「雄大と佐々木さん以外なら、中島さんと、あとは飯田……」<br>「えー、中島さんって脱ぎ癖あるって人だよね？大丈夫かなあ」<br>巧と美月のそんな会話を聞きながら、ああ、この人はとうとう、理子の気持ちには気付かなかったんだな、なんて考える。<br>　そして、ふと頭の片隅に、転職していってしまった彼女のことがよぎる。彼女の送別会兼忘年会を昨年の12月に開催したときの、少し晴れやかな顔を思い出す。<br>──理子は果たして、巧の結婚式に来るだろうか？私の結婚式はどうだろう？<br>そんなことを考えた。<br>(おわり)<br>(本作品は実在の人物、組織とは一切関係のないフィクションです)</p><p name="7b06fb30-a0ac-4125-a54d-0a1ae16455ed" id="7b06fb30-a0ac-4125-a54d-0a1ae16455ed"><br></p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n2e16bdca1364'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 08 Aug 2025 22:32:25 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」大希/友哉</title>
      <description><![CDATA[<p name="9e1b96ef-65d7-4d29-ad6a-4612da814b12" id="9e1b96ef-65d7-4d29-ad6a-4612da814b12">「僕、今……」「寺崎さんにストーカーされてるんです」<br>藤井友哉はそう言うと、しかめっ面をした。<br>けれど、内心まんざらでもないのは目を見ればわかる。<br>目が笑っていない、という言葉があるが、今の藤井の表情は目だけが笑っている。<br>気持ち悪い奴、と思ったけれど、ぐっと飲み込む。<br>「半年なんかで振っちゃうから、寺崎さんも未練が残るんだろ」<br>そう返すと、手元のおちょこに残った日本酒を飲み干す。<br>チープな日本酒の雑味にうんざりした。</p><p name="b1415f98-d624-4cef-9438-0da9753ba776" id="b1415f98-d624-4cef-9438-0da9753ba776">安居酒屋の黄ばんだクーラーを見上げながら、寺崎直子の姿を思い返した。<br>今年で32らしいけれど、35にも25にも見える不思議な風貌。<br>ゴワゴワした髪は似合わないのに明るめのブラウンに染めてあり、生え際のところは既に黒くなっている。<br>童顔、というより幼い顔で、小太り。<br>なのに愛嬌がない。<br>メイクはいつも剥げかけているし、背中の肉にブラが食い込んでいるのが、ブラウス越しにはっきりわかる。<br>ああ、この人はモテないだろうな、と一目見て思った。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n9bad3dccacee'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 22 Jun 2025 22:56:10 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」 葉月/謙介</title>
      <description><![CDATA[<p name="32539859-41ce-4eb6-8b80-e2c7688f32b3" id="32539859-41ce-4eb6-8b80-e2c7688f32b3">東京駅から「やまびこ」に揺られて1時間半。<br>福島駅の新幹線ホームに降り立ち、はあ、とため息をついた。<br>6月半ばの福島は東京とさほど気候は変わらず、じんわりと湿気がまとわりつく。<br>キャリーケースを引きながら新幹線の改札を出て、平成の香りを残した連絡通路を通り抜ける。<br>改札も抜けて、駅ビルの喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文する。<br>提供を待つ間に、キャリーケースで席取りをしておくことを忘れなかった。<br>コーヒーを受け取ると席に戻り、一口飲んで、またため息をついた。</p><p name="4f6935c0-f066-4594-8c8b-452d2e419e49" id="4f6935c0-f066-4594-8c8b-452d2e419e49">前夫、謙介との離婚協議が完了し、江東区役所に離婚届を提出したのが今年の2月頭。<br>子供はいないし、それまでに色々ありすぎて、もうあれこれ争う気力もなく、3か月ほどで話がついた。<br>慰謝料だけ弁護士を通して請求したら、300万円もらえた。<br>担当の高島、という中年の弁護士曰く、離婚の慰謝料としてはかなり取れた方らしい。<br>彼の得意げな表情を見ながら、額の問題じゃないんだよな、という感情をぐっと飲みこんだのを思い出す。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/ne0332c51dd09'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://d2l930y2yx77uc.cloudfront.net/assets/default/default_profile_2-5375e0fe14f8f6451ac8859ef34c1b34d978cfaec6bf1222d0655ad5412d97f6.png</note:creatorImage>
      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 15 Jun 2025 11:37:49 +0900</pubDate>
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    <item>
      <title>「チー牛文学」第40話 純(常駐SE)</title>
      <description><![CDATA[<p name="54dcf775-52af-4c83-a435-0e41b5ad0d15" id="54dcf775-52af-4c83-a435-0e41b5ad0d15">「あの！森山さん！」<br>「CADサーバ8号機の不調の件、対応完了報告まだなんですが！」<br>「完了したという認識で良いんですよね？」<br>5月中旬のある日。<br>オフィス中に開発インフラIT課、西岡怜央の怒声が響いた。<br>ああ、報告していなかった、と思い出す。<br>「完了しました！」<br>その場で西岡に向かって叫ぶ。<br>「聞こえません！」「もう一度お願いします！」<br>しょっちゅう繰り返される、いつものやりとり。<br>また奴の怒声が響き、何人かが失笑を漏らす。<br><br>「完了しました！」<br>椅子から立ち、腹に力を入れ、再度西岡に向かって叫ぶ。<br>「了解！」<br>「終わったんだったら、ちゃんとシステム上で報告してください！」<br>奴は俺に対しそう叫ぶと、大げさなため息をついた。<br>──そうやっていつも……<br>わざわざ晒し者にするなよ。<br>そんなことを思いながら、指示通り案件管理システムを開いた。<br>完了報告の一文を書き、はあ、とため息をつく。<br>──ここに来てすぐの頃……西岡が来る前は、ここまで働きづらくなかったのに。<br>そんなことを考えた。</p><p name="a730ca2f-629c-4837-9b72-d522cf875ad2" id="a730ca2f-629c-4837-9b72-d522cf875ad2">思い返せば、遡ること3年前。<br>愛知県刈谷市に本社を置く某大手自動車関連メーカーに、常駐SEとして送り込まれた。<br>就職するまで縁もゆかりもなかった愛知には、未だに全く馴染めていない。<br>毎朝、梅干しみたいな色のボロい電車──スキマスイッチ曰く"スカーレットの電車"にゴトゴト揺られて工場に向かう日々。<br>元々生まれも育ちも東京都内とはいえ、所詮小平。<br>郊外の景色には慣れているつもりだった。<br>けれどいざ来てみれば、想像以上の虚無さを感じた。<br><br>しかもこの辺りは、小平にもいたマイルドヤンキーがうようよいる。<br>奴らに怯えて暮らした公立中時代を思い出し、うんざりする。<br>思い返せば、中学時代の成績はまずまず。<br>国分寺高校に行けるかどうか怪しい程度。<br>結局多摩地区の某三番手公立に進学し、放送部に入った。<br>そこで知り合ったオタク系の連中と自堕落につるむ3年間。<br>女子との会話はほぼゼロ。<br>エロゲもアニメも教養として嗜んだけれど、熱中はできなかった。<br>乃木坂46のかずみん──高山一実──を推していた。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n17d665703abc'>続きをみる</a>]]></description>
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      <pubDate>Thu, 05 Jun 2025 12:16:17 +0900</pubDate>
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    <item>
      <title>「チー牛文学」第39話 静(書店正社員)/香帆(政府系金融機関勤務)</title>
      <description><![CDATA[<p name="0f7dcd9b-4e0c-4592-a3f4-58b9e79a445e" id="0f7dcd9b-4e0c-4592-a3f4-58b9e79a445e">数年ぶりに降り立った、金曜夜の池袋駅。<br>混沌とした雰囲気は相変わらず。<br>改札前でキスをする冴えないカップルが目に入り、居たたまれない気持ちになる。<br>この感覚も懐かしい。<br>JRの改札を抜けて東口に向かい、西武池袋線の改札を通る。<br>ホームを見渡すと、ハリーポッター風の少しちゃちな装飾。<br>大学時代のサークルの同期、江夏静の住まいに向かうため、まだ空いている次の電車に乗り込む。<br>今電車に乗った、と彼女にLINEをした。</p><p name="518aafef-e820-455a-bfc7-fa5ac272b6ef" id="518aafef-e820-455a-bfc7-fa5ac272b6ef">静の住まいは学生時代から変わらない。<br>桜台駅から10分ほど歩いたところにあるデザイナーズマンション。<br>これまでに何度も泊めてもらったことがある。<br>彼女の趣味のもの──本とか、脚本とか、同人誌とか──がたくさん置いてあって、お香の匂いが漂う。<br>けれど、彼女の潔癖気味な性格のおかげで清潔に保たれている。<br>記憶をたどると、静の部屋に最後に行ったのは3年ほど前のこと。<br>楽しみな反面、ちょっと身構えるような気持ちになった。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n5afbf30a4985'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sat, 24 May 2025 00:02:18 +0900</pubDate>
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    <item>
      <title>「チー牛文学」第38話 早苗(メーカー本社人事)</title>
      <description><![CDATA[<p name="dbf4f303-314c-43a3-acce-d0df33a4fd0e" id="dbf4f303-314c-43a3-acce-d0df33a4fd0e">「メーカーの本社なんてキッザニア」<br>「工場の儲けで遊んでるだけ」<br>「本社人事は働いてるふりしてるだけのブルシットジョブ」<br>世間は楽しいゴールデンウイークだというのに、朝っぱらから呪詛のようなツイートがわんさか流れてきた。<br>はいはい、すみませんね、と思いながらスマホの画面を切る。<br>とあるBtoBメーカーに事務系で入社して、早いもので今年で9年目。<br>すっかり中堅社員だけれど、未だに気持ちは若手。<br><br>新卒で配属された山形県某所の工場で4年間総務として僻地勤務をした後、幸いなことに23区内の本社に呼び戻された。<br>以来"キッザニア"で"ブルシットジョブ"に邁進している。<br>ちなみに昨年の秋に出産を済ませ、今は育休中。<br>夫は私には仕事をやめてほしそうにしているけれど、専業主婦になる気はさらさらない。<br>会社も、私含めた女性総合職には何としても辞めてほしくはなさそう。<br>復職後の制度も一通りは整っている。<br>人事という立場上も……復職しないわけにはいかない。<br><br>生まれも育ちも秋田県由利郡本荘町。今は"由利本荘市"。<br>冬になると陰鬱な空が広がり、真っ白ではない雪が積もる。<br>当然ながら、東京ではほとんど誰にも通じない。<br>それに、産まれた場所が"町"だなんて恥ずかしくて言いたくない。<br>だからいつも、秋田出身です、とだけ言っている。<br>ちなみに、さすが秋田美人だね、だなんて言われるのにはもう"飽きた"。<br>いったい、この顔のどこを見てそう思ったんだ？<br>どんなに甘く見積もっても中の中だと思う。<br><br>父、浩は新潟県村上市出身。<br>新発田高校から東北大学に進み、大学院まで半導体材料について学んで、秋田で一番大きな会社に入社した。<br>そのおかげもあって、私は東京の私大に一人暮らししながら、奨学金も借りずに通うことができた。<br>母、容子は矢島町──ここも今の"由利本荘市"出身。<br>専門学校卒の看護士だったけれど、寿退社して専業主婦になった。<br>正直なところ、中学生の時点でちょっと──<br>いや、だいぶ世間知らずな人だと思っていた。<br><br>しかも母は家事を頑張ってくれるわけでもない。<br>気が乗った時しか掃除機をかけないから、家の中はいつも薄ら埃っぽい。<br>制服のブラウスにアイロンなんて、かけてもらった記憶がない。<br>夕食も、平気で週に2回はレトルトカレーで済ませようとする。<br>仕方なく、しょっちゅう父か私が夕食の準備をした。<br>弁当は詰めてくれないから、家族全員自分の弁当は自分で準備する。<br>他の家のお母さんの話を聞きながら、こんなので許されるんだ、といつも思っていた。<br><br>兄、海斗とも今一つ折り合いが良くない。<br>彼は母から溺愛されていて、夕食の準備は免除。<br>中学の制服のワイシャツも、彼の分はたまにアイロンがかかっていた。<br>秋田高専の電気工学科を卒業し、大手化学メーカーの子会社に就職した。<br>今は千葉の市原だったかでプラント設計をしている。<br>数年前に父から聞いた話だと、30過ぎても童貞。<br>実際、自他共に認める理系男子好きの私から見ても"ナシ"だから、世の女性の99%くらいからは"ナシ"判定じゃないかな。<br><br>地元の公立中学では優等生として大人しく過ごした。<br>ダサいシルバーのメガネをかけて、地味な中学生活。<br>美術部に入って、ひたすら絵を描いていた。<br>通知簿は5ばかり。<br>定期テストも数学以外はいつも90点台。<br>周囲からは秋高への進学を期待された。<br>本当は仁賀保高校でCGデザインをやってみたい気もしたけれど、その気持ちはそっと胸にしまい込んだ。<br>幸いにして、無事に秋高に進学することができた。<br>高校でも変わらず、美術部に入ることにした。<br><br>ちなみに秋田では、秋高に落ちた時点で、全国区クラスの"進学校"に行く機会は失われる。<br>東京の人には信じられないと思うけれど、私くらいの世代の男子なら、中学浪人する子もいたという。<br>私の場合、もし落ちていたら、滑り止めの私立お嬢様女子高から新潟大の人文あたりに進学して……<br>今頃は、秋田で公務員か銀行員でもやっていたんだろうと思う。</p><p name="f1637158-732a-4e18-b8d1-058bcea6b8f0" id="f1637158-732a-4e18-b8d1-058bcea6b8f0">高2になる年の3月に、あの地震があった。<br>──人間はみんな、いつ理不尽に死んでしまうかわからない。<br>やりたいことをやらないと。<br>そんなことを思った。<br>前年の夏、描いた絵を展覧会に出し、ちょっとした賞を貰っていた。<br>美大進学、の4文字が薄ら頭の片隅に浮かんだ。<br>やりたいことをやらないと、と頭では思っていた。<br>けれど、実際のところ絵で食っていけるとは思えない。<br>美大の高い学費を両親に払わせて、結局ニートなんて流石にダメだ。<br><br>悩んだあげく進路指導の先生に相談してみると、どこかの国立大学教育学部の美術科に進んで、美術教員を目指すことを薦められた。<br>目の前で散々見てきたはずなのに、全く思いつかなかった進路。<br>なるほど、と思い、数日じっくり考えてみた。<br>けれど、学校の先生になりたいとはどうしても思えなかった。<br>完全に進路で迷子状態。<br>結局は、周囲のとりあえず東北大を目指す流れに乗せられ、文学部で美術史をやれればいいや、と東北大の文学部を目指すことにした。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n61607f5554c8'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Wed, 07 May 2025 17:56:14 +0900</pubDate>
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    <item>
      <title>「チー牛文学」第37話 直輝(雇われ司法書士)</title>
      <description><![CDATA[<p name="d421ca40-4a5b-4167-a851-bef44fb01172" id="d421ca40-4a5b-4167-a851-bef44fb01172">「ヤギとセックスしたヤギ臭い身体でキラキラアピールの売女さんwww」<br>4月最後の月曜日、時刻は20時をまわったころ。<br>そうツイートすると、すぐにいいねがいくつもついた。<br>それを確認して思わずニヤリとしたその顔を、周囲から怪しまれないよう手とスマホで隠す。<br>幸いにして世間のサラリーマンの多くは有給をとっているらしく、都営新宿線下り方面、本八幡行きの車内はいつもよりがらんとしている。<br>恐らく誰にも気づかれていない、見られていないであろうことを確認すると、はあ、とため息をつく。<br><br>もっとも当の自分は、金のためにヤギとセックスする程度の頭の出来とはいえ、夜職インスタグラマーができる程度には容姿が良い、そんな女からはきっと碌に相手にされないに違いない。<br>そう思うと悔しさと、もっと稼ぎたいという気持ちが湧きあがってくる。<br>車窓の外に目を向けると、ちょうど列車は地上に出るところだった。<br>──金が欲しい。<br>それで、さっさと江東区の端っこなんか抜け出して……<br>日本橋あたりのタワーマンションに住んで……<br>いい女を連れ込んで……<br>そんなことを考えているうちに、列車は東大島駅に到着した。<br>慌てて降りると、またはあ、とため息をついた。</p><p name="992065c4-6b17-4dde-8a7d-88c14501c210" id="992065c4-6b17-4dde-8a7d-88c14501c210">生まれも育ちも静岡の清水。<br>静大の農学部を出て地場インフラ企業で技術職として働く親父、章と、常短を出て元々は保育士だった専業主婦の母、いずみの元に生まれた。<br>2つ上に姉貴が一人いるが、地味なくせに声がデカくていけ好かない、絵に描いたような文化部の優等生ブス。<br>あいつが小4でお受験のために塾に通い出したくらいから大嫌い。<br>一応、美咲という名前がある。<br>静附中から野球部が有名な地元トップ公立高に進学し、吹奏楽部で甲子園に行った。<br>その後お茶女の理学部数学科を院まで出て、大手生命保険会社に専門職として就職した。<br>30すぎても結婚していないが、おかげで数年ほど顔を見ずに済んでいる。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n2bde308ccc30'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 01 May 2025 20:47:33 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」第36話 明日香(学習塾正社員)</title>
      <description><![CDATA[<p name="bba122c4-a393-452e-9d34-05c8708d6ecb" id="bba122c4-a393-452e-9d34-05c8708d6ecb">時刻は朝の7時ジャスト。<br>戸田公園駅のホームに降り立つと、ひんやりとした空気を頬で感じた。<br>もう4月も半ばだというのに、未だにコートを羽織らないと薄ら肌寒い。<br>こんな時間にここで電車を降りたのは、自分以外には数えられるほど。<br>まあ当然か、と思った。<br><br>今朝は自分の職場──個別指導塾ベストチョイス 戸田公園教室──のテリトリーのひとつになっているとある戸田市立中学で、通学時間帯のビラ配りをすることになっている。<br>両手には、ビラ入りのクリアファイルとボールペンのセットを計100個詰め込んだ紙袋が1つずつ。<br>少し慎重にホームからの階段を降りる。<br>改札を抜けると、一緒にビラをまいてくれるアルバイトの学生が2人、自分のことを待ってくれていた。<br><br>ひとりは立教の法学部の新3年生、上川杏樹。<br>地元は戸田公園から電車で10分ほどの中浦和で、市立浦和の後輩。<br>東北大と早慶に落ちたところまで自分と同じ。<br>見た目は小綺麗にしているけど垢抜けきれず、真面目なんだけどうっすら不器用そう。<br>そんなところも何となく自分に似ている。<br><br>もうひとりは早稲田の経営システム工学科の新4年生、石倉拓海。<br>彼の地元は中浦和の1つ手前、武蔵浦和。<br>理工学部っぽくない爽やかなイケメン。<br>身長も高い。<br>小学校からずっとサッカーをやっていて、浦高のサッカー部で2年からDFとしてレギュラーを張っていたらしい。<br>ちなみに、彼にインカレで知り合った学習院生の彼女──それも、読者モデルみたいに可愛い子──がいることは教室内でも有名だ。<br><br>もう就職も決まっていて、去年の夏インターンに行っていた某通信会社に行くことになっている。<br>研究室も大して忙しくないところを選んだようで、今は人生最後の自由を謳歌している。<br>こんな調子だから、当然生徒たち、特に中学生女子からは大人気。<br>保護者ウケもバッチリ。<br>どうしてこんな安月給の個別指導塾でバイトをしてくれているんだろう？といつも疑問に思うくらいだ。<br><br>ちなみに──<br>以前こっそり相談されたのだけれど、上川さんは石倉くんに好意を抱いている。<br>そして、その思いが叶うことはないと諦めている。<br>そういうところも含めて自分のうっすら冴えない学生時代を思い出させられて、この二人と一緒にいると、共感と苛立ちが混じった複雑な感情にさせられることが多い。<br>私も石倉くんみたいな……キラキラした人生を送ってみたかったな。<br>そんなことを考えながら、彼に紙袋を手渡した。</p><p name="37755a6d-91fe-4937-8001-ec1960195534" id="37755a6d-91fe-4937-8001-ec1960195534">駅から15分ほど歩くと、お目当ての公立中学校が見えてくる。<br>先代の教室長にかつて聞いたところ、このあたりは10年ちょっと前に再開発で大きなマンションがいくつも建って、一気にアッパーミドルの街になった。<br>そして、それらを学区に含むこの中学は、教育熱心なご家庭の子女で溢れるようになったらしい。<br><br>正門の前に着くと、塾の名前が書かれた黄緑色の、ちょっと──いや、だいぶダサいウインドブレーカーを皆で羽織り、ビラ配りを始める。<br>みんなお行儀よくそれを受け取って、お行儀よく持ち帰っていった。<br>200セットがほぼ捌けたところで朝のチャイムが鳴り響く。<br>本当はすぐにでも家に戻って仮眠をとりたいけれど、教室にビラを置いて帰る、と理由をつけて、学校の前で上川さん、石倉くんと解散した。<br>上川さんが石倉くんと過ごす時間を、少しでも長く作ってあげようと思った。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/nf2cf92207b68'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 20 Apr 2025 20:51:29 +0900</pubDate>
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    </item>
    <item>
      <title>「チー牛文学」第35話 誠(小学校教員)</title>
      <description><![CDATA[<p name="664e98d6-2d34-407c-85c9-fdd1261f1f78" id="664e98d6-2d34-407c-85c9-fdd1261f1f78">「あの……」<br>「こんなこと言いたくないんですけどね」<br>教室机を挟んで座る森本芳子──クラスの問題児、森本涼の母親──の鼻の穴が大きく膨らむ。<br>「先生はまだ独身だし…当然、お子さんもいませんよね？」<br>「それで私たちみたいな人の親の気持ちなんて、理解できるわけないじゃないですか！」<br>目の前のババアはそうヒステリックに喚くと、俺の顔を睨んだ。<br>──そんなこと言われたら、もうどうしようもないだろ？<br>バカガキ一人ひりだしただけで、そんなに偉そうにすんなよ。<br>ブスババア。<br>思わずそう返したくなるが、必死にこらえる。<br>口から出任せの謝罪をそれらしく述べ、頭を下げる。<br>それを見て、またババアが何やら喚き散らし始めた。<br>だが、頭は既にその声をシャットアウトし始めていた。<br>適当に相槌を打ち、適当に頭を下げて謝罪の弁を述べ、嵐が過ぎ去るのを待った。<br>喚き疲れて家路につく森本芳子の、他の母親たちより一回り老けた後ろ姿を眺めながら、はあ、とため息をつく。<br>ブスでも一応慶應出て、まともな職はあるんだから一生独身やってりゃいいのに、30も後半になって結婚して、ガキ産んで、過保護になって。<br>これから先もずっとこんな連中の機嫌取りなのか、と思うと嫌気がさした。<br>けれど、仕方のないことだった。</p><p name="37d69714-eeee-4396-a0fb-277149ad18fb" id="37d69714-eeee-4396-a0fb-277149ad18fb">生まれも育ちも千葉の我孫子。<br>父方は爺ちゃんの代から千葉県の教員。<br>親父は佐倉出身で、地元では名門の誉れ高い公立高校から早稲田教育に進学し、中学校教員になった。<br>担当科目は数学。<br>最終的には組合の要職にもなった。<br>母さんも千葉県の教員。<br>生まれは茨城で、やはり地元では名門と評されるような公立高校から千葉大教育を経て、親父と同じく中学校教員になった。<br>担当科目は国語。<br>教育委員会への出向を経て、最終的には教頭にまで上り詰めた。<br>そんな、いわばエリート教師一家に生まれた。<br>だが、確かに両親は教員の世界ではエリートなのかもしれないが、何をさせても頭が固くて変に真面目で、理想論ばかりが得意。<br>申し訳ないが、とても人として尊敬はできなかった。<br>だから、ずっと教員、あとは公務員にだけはなりたくないと思って育った。<br>ただ、両親譲りで勉強はそれなりにできたこと、我孫子では相対的にかなり裕福な暮らしをさせてくれたことだけは感謝している。<br><br>両親は公立中教員のくせして、地元我孫子の公立中には入れたくない、と俺に中学受験をさせた。<br>勉強自体はそこまで嫌ではなく、家から通いやすくてレベルもそこそこ高い私立中高一貫校に入学できた。<br>良くも悪くも地味で真面目な校風。<br>勉強を頑張ったところで、結局両親みたいなつまんない人間になるのかな、と思うと勉強を頑張る気もあまり起きず、かといって入った軽音部で本気で音楽をやるわけでもなく、似たような無気力仲間と学校の最寄り駅周辺、あるいは少し遠出して新宿や池袋あたりをフラフラするような、うっすらと堕落した6年間を過ごした。<br>その結果、一橋志望と口では言いながら数学は苦手なまま、成績も低空飛行。<br>秋から必死に頑張ったものの、結局横国の経済に落ち、埼玉大の経済と法政の変な学部しか合格できなかった。<br><br>埼玉大にほぼ決めかけたところで、やっぱりどうせなら私文に絞って早稲田を目指そうと思い、結局合格を辞退して浪人させてもらった。<br>けれど、一浪しておいて、結局乱れ打ちした早稲田の法、商、社学、文構と上智の法、経済には不合格。<br>文構は補欠だったから、もしかしたら教育なら受かっていたかもしれないけど、教育学部という時点で絶対に受験したくなかった。<br>結局、最終的に手元に残った合格は立教経営と明治の政経だけ。<br>現役よりマシな結果とはいえ、中学受験してそこそこの学校に入り、浪人までして結局MARCH。<br>けれど、少なくともここを卒業して教員になる道などないだろう。<br>だから、ここで良かったんだ。<br>そう自分を無理やり納得させながら、蔦の絡まった本館の門をくぐった。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n9df14b8faac9'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Wed, 09 Apr 2025 20:15:15 +0900</pubDate>
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    <item>
      <title>「チー牛文学」第34話 哲也(大手IT企業勤務)</title>
      <description><![CDATA[<p name="714990e1-d35a-403e-b39f-42ab201734cc" id="714990e1-d35a-403e-b39f-42ab201734cc">──久しぶり。<br>急にごめんね。元気？<br>修論も出し終わって、今めちゃくちゃ暇。<br>再来週、3月最初の土日はうち来てもいいよ。<br>ありさからかれこれ1年半ぶりに連絡が来たのは、土曜日のことだった。<br>長らくお互いに距離を置いて、音沙汰もなかったところの急な連絡。<br>心底驚いた。<br>ここで「うち来てもいいよ」とはつまり、「うちに来い」という意味だろう。<br>だが、俺が住む小竹向原駅徒歩10分のワンルームから、アイツの住むつくば、研究学園駅からさらにバスに揺られて到着する1LDKまではドアドアで2時間程度。<br>さすがに遠いうえに、今はアサインされている大規模案件が年度末で佳境を迎えていて、忙しいことこの上ない。<br>けれど、その時期の呼び出しということは、ほぼ確実に引越しの手伝いをさせられるだろう。<br>ちょうど2年前、アイツが志木からつくばに引っ越す時も、あれこれ手伝わされたのが未だに記憶に新しかった。<br>もっといえばその週末は、付き合って1年ちょっとになる交際相手、平沼椎菜の部屋で一緒に過ごす予定になっている。<br>しかも仕事が佳境を抜ければ、椎菜にはプロポーズするつもりで、もう食事とホテルを予約して指輪まで準備してある。<br>もう無視しておこうかな、という気持ちと、プロポーズ前、最後にもう一度あの美しい顔を生で拝んで、恐らくはセックスまでできる、という下心を天秤にかけて数秒悩み、下心が勝った。<br>土曜日の昼頃にそちらに向かう、と返信すると、間髪入れずにOK、というスタンプが返ってくる。<br>さらに続けて、俺の心を見透かすかのように「生理は再来週からの予定」と返信が来た。<br>アイツと身体を頻繁に重ねていた頃の記憶が一気に蘇って、思わず身体が疼いた。</p><p name="740a20a6-227e-4fed-b933-d3234812dfda" id="740a20a6-227e-4fed-b933-d3234812dfda">元をたどると、ありさと知り合ったのは2年半ほど前、Tinder経由。<br>都心でも滅多に見ないレベルで可愛いけれど、どこか狂っていそうな目つき。<br>「旧帝一工早慶+国立医学部以上の男だけ」<br>「理系男子大好き」<br>という気持ち悪い自己紹介。<br>こいつなら自分でもワンチャンあるかも、と右スワイプすると、運よくマッチした。<br>のっけから本当に阪大卒なんですか？と質問され、やっぱり変な奴、と思った。<br>けれど、せっかくこんなに可愛い子とマッチしたからにはチャンスをふいにしたくない。<br>部屋を見渡し、ふと、たまたま引っ越しの時に製本済の卒論と修論を持ってきていたことを思い出した。<br>2つまとめて写真に撮って送ってやると、通話してもいいですか？と質問された。<br>OKと答えると電話がかかってきて、そこから通話が始まった。<br>第一声から食い気味に「私、阪大理系院卒とマッチするのは初めてです！」と興奮した声で報告され、やっぱり気持ち悪い女だと思った。<br>鼻にかかっているのに甲高い、独特の声が部屋に響く。<br>出身地はおろか、出身の中学と高校まで根掘り葉掘り質問され、仕方なく奈良県大和郡山市、だとか大阪星光、だとか答えながら話しているうちに、ありさは神奈川県海老名市出身で、横浜のお嬢様学校を卒業して立教の現代心理に通っていて、志木で一人暮らしをしていることが分かった。<br>一通り話し終えたところで、土曜日に池袋で会って飲みたいと言われ、とりあえず一次選考突破、と胸をなでおろした。<br>ふと年齢を見返すと24歳で、2回も留年してるんだなと思った。<br>間違いなく相当ヤバい奴だと確信した。<br><br>その週末の土曜日。<br>待ち合わせ場所の池袋駅西口の交番近くに立っていると、もう秋口だというのにベージュの膝丈ジャンパースカートを着て生足全開、厚底の黒い革靴を履いて、薄ピンクのポシェットを肩にかけたありさが現れた。<br>肩の高さで両手を小さく振り、ああ、哲也さーん、と上ずった声を上げながらこちらに近づいてくる。<br>顔はほぼほぼ写真通りで可愛いけれど、眉毛の引き方がちょっとおかしい。<br>初対面ということを差し引いても目線もどこか落ち着かず、キョロキョロしている。<br>服装もうっすら季節感がないし、少し幼さを感じる。<br>そのうえしわっぽくて、生地がうっすら汚い。<br>小物の色の取り合わせもよく考えればちょっと変。<br>すらっとした脚の脛やひざにはぶつけたような青あざがいくつかあった。<br>その割に、背中まで伸ばした黒髪は妙に手入れが行き届いている。<br>池袋という土地柄もあって、遠目だと出勤前の風俗嬢にも見えた。<br>けれどヤれそうだし、何より顔は可愛いし、別に構わないと思った。<br><br>一軒めはイタリアンバルでワインを飲み、二軒めは適当な立ち飲み屋に入り、終電を逃すまで飲んだ。<br>ありさの飲酒量は尋常ではなかった。<br>話の内容は半分以上が学歴について。<br>お父さんは慶應の医学部卒で、地元海老名で代々続く内科クリニックの院長。<br>お母さんは理科大薬学部卒。<br>お兄さんは現役で順天堂の医学部、妹さんは現役で慶應の薬学部。<br>従兄は北大の法学部を出て大手鉄鋼メーカー。<br>従妹は早稲田の文構に通っている。<br>理数科目が苦手で文系に進むしかなく、早慶の文学部か筑波の心理に行きたかったけど落ち、あげく上智にも落ちて、仕方なく立教に入った自分は一家で一番の落ちこぼれ。<br>だから学歴コンプレックスがあるし、早慶や旧帝大クラスの大学や医学部を出ている人は尊敬している。<br>そんな調子の話をベラベラと一方的に話された。<br>正直あまり興味がなくて、ただただ、こんなに顔が可愛くてエロい女が世の中に本当にいるんだ、と終始思っていた。<br>お互い三軒目に入る気力はなく、流れでラブホに入ったはいいものの、お互い飲みすぎたせいでそのまま寝てしまった。<br><br>早朝、ほとんど同じタイミングでお互い目を覚ました。<br>ありさが俺の顔を覗き込みながらふふ、と笑い、キスをせがんだ。<br>歯も磨いていないし汚い、と一瞬思ったが、化粧が崩れてもなお可愛いアイツの顔がそんな気持ちをすぐに吹き飛ばした。<br>キスをしながらジャンパースカートを捲り上げ、艶やかな太ももに触れたが、全く拒まれなかった。<br>そのまま二日酔いも吹き飛ぶくらいの興奮の中、一心不乱にありさを抱いた。<br>こんなに容姿の良い女を抱くのはもちろん人生で初めて。<br>透き通るような白い肌が妖しく光り、肢体はぶつけたような生傷が目立つ以外は美しくて、夢でも見ているんじゃないかと思うくらいだった。<br>絶頂した後、すぐに俺のものに縋りつくアイツを見て、本当に頭のおかしい女なんだ、と思った。<br>もったいない気がしてすぐに2回目を始め、また絶頂した後、急に猛烈な吐き気に襲われて、トイレに駆け込みひたすらに吐いた。<br>その様子を見て自分も気持ち悪くなったのか、アイツも洗面台に駆け込み、同じくひたすらに吐いた。<br>池袋駅西口、場末のラブホの一室に汚い音が響き渡る。<br>何だか面白くなって、ふふ、と笑ってしまった。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n97f799678ae5'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 16 Feb 2025 14:17:16 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」第33話 梓(金融機関関連会社事務職)</title>
      <description><![CDATA[<p name="402248cb-d03d-4a1e-9ddd-4a5845181d67" id="402248cb-d03d-4a1e-9ddd-4a5845181d67">「来年、定年になったら……」<br>「ママと一緒に浜松に戻る」<br>昨年9月。<br>パパの59歳の誕生日祝いをした、まさにその翌日。<br>彼は突然そう宣言した。<br>またどうせ、いつもの思いつきでしょ、と思った。<br>「それ……ママは納得してるの？」<br>期待を込めてママにそう尋ねる。<br>けれど、その期待は裏切られた。<br>「二人で話して決めたの」<br>「もう歳だし……落ち着いて、地元の近くで暮らしたくて」<br>岡崎出身のママはそう言うと、穏やかな微笑みを浮かべた。<br>「そんな……噓でしょ？」<br>「じゃあ私はどうすればいいの？」<br>リビングのソファに座る二人に思わず詰め寄る。<br>「梓、あなた、次でもう30歳でしょう？」<br>「そろそろ独り立ちしてもいい時期じゃない」<br>そんなに怒らなくても、とでも言いたげな顔をしながらママがそう言った。<br>「それに、もし梓が浜松に来てくれるのなら」<br>「仕事の話はパパがつけてくれるそうよ」<br>ママはそう続けると、パパの方を見た。<br>「うん」<br>「パパの友達に浜松の弁護士がいるんだ」<br>「もし梓が浜松に来てくれるのなら、その人の事務所で雇ってもらう話はつけてあるよ」 <br>パパはそう言うと、スマホでその弁護士事務所の名前を検索し始めた。<br>もちろん、見る気にもならなかった。<br><br>「行かない」「絶対行かない」<br>「浜松なんて、絶対に行かない！」<br>「私は絶対に横浜に残る！」<br>そう宣言すると部屋に戻り、ドアを閉めて鍵を閉める。<br>そんな大事なこと、私に何の相談もなしに決めるなんて。<br>ありえない。<br>二人への文句が次から次へと湧いて出てきた。<br>それが一通り収まると、ふと我に返った。<br>──じゃあ、どうすれば？<br>あいにく月給は29歳にしてようやく25万円を超えたところ。<br>残業はほとんどない代わりに、手取りは20万円ほど。<br>ボーナスは雀の涙。<br>年収は400万円にも満たない。<br>そんな状況で横浜で一人暮らしをしていくとなると、下飯田あたりのボロアパートが関の山。<br>けれど、それだけはどうか勘弁だ。<br>ただ、転職して年収アップしようにもろくなスキルもない。<br>公務員に転身しようにも、もう年齢制限に引っかかるだろう。<br>資格……そんなものAT限定の自動車免許以外に持っていない。<br>年収アップに役立つような資格なんてあと1年では無理だ。<br>結婚……あと1年で入籍して同棲？<br>もし相手が見つかったとしても、せいぜいちょっと稼げるチー牛が関の山じゃないか？<br>つくづく詰んでいる。<br>はあ、とため息をつき、部屋の天井をぼんやりと眺めた。</p><p name="c33fa82b-008e-459f-93a1-51a1a89621b1" id="c33fa82b-008e-459f-93a1-51a1a89621b1">生まれも育ちも横浜市、センター南。<br>徒歩10分で大抵の買い物は完結する。<br>横浜に出れば遊ぶところには困らない。<br>地元の公立中ではバドミントン部に所属していたけど、ほとんどお喋りしに行っているだけ。<br>パパからは川和への進学を暗に期待されていた。<br>けれど、そんなところ行けるはずもないし、行こうとも思わなかった。<br>横浜市内のありふれた、ギリギリ偏差値が60を切るくらいの公立高校に進学した。<br>高校生活はスクールカースト2軍なりにそこそこ楽しく過ごした。<br>3年間サッカー部のマネだった。<br>同級生で一番のイケメン、生田斗真似でボランチの高柳くんにずっと片思いしていたけれど、私にはとても手の届かない存在。<br>彼はバスケ部の荒木さんとスクールカースト1軍同士付き合っていて、私はずっとノーチャンスだった。<br>高3になって、指定校推薦で進学先を選ぶことになった。<br>特にやりたいこともなく、ただ高柳くんと同じ大学に行きたくて、神大の人間科学部を第一志望にしようとすると、「神大に行ったら神大の彼氏しかできない」とママに反対された。<br>早稲田と東女のインカレで知り合ったパパと結婚した、ママらしい意見。<br>最終的にはそれに従って、横浜の女子大の推薦をもらうことにした。<br>大学デビューしてイケメンの慶應生の彼氏を作って、高柳くんと荒木さんを見返そうと思った。<br>進学先が決まってからはひたすらダイエットして、メイクを研究した。<br>4か月で8kg痩せてちゃんとメイクをしたら、自分で言うのも何だけど、結構美人になった。<br><br>大学に入学してすぐ、入学ガイダンスでできた友達と一緒に慶應のインカレの新歓に行きまくった。<br>慶應生の垢抜けた、人生で初めて見るようなイケメンがいっぱいいた。<br>申し訳ないけれど、すぐに高柳くんや荒木さんのことなんて心底どうでもよくなってしまった。<br>なんだかんだ、ママの言っていたことは正しかった。<br>どのサークルに入るか散々悩んだ末、そこまで雰囲気がオラついていない割にはイケメンが多いフットサルサークルのマネを選んだ。<br>そのサークルの1年の夏合宿で、同学年の慶應法学部生、松下直輝から言い寄られ、そのまま付き合うことになった。<br>直輝は石川県金沢市出身。<br>実家は地元ではそこそこ有名な高級旅館で、三男。<br>「俺は地元の小学校では神童だった」<br>「俺は東大ブンイチに1点差で落ちた」<br>が口癖で、ことある毎に頭いいアピールをしてくるのがちょっとウザかった。<br>けれど、ちょっと内田篤人に似ている雰囲気イケメンで、背もそこそこ高かった。<br>ちなみに、「ブンイチ」が文科一類、東大文系で一番難しい学科のこと、というのは彼に教わって初めて知った。<br>大学生にもなったら彼氏とエッチをするのは当たり前と思っていたから、その年の秋には彼に処女を捧げた。<br>直輝は高校時代に彼女がいて、童貞ではなかった。<br>そのおかげか初めての割にはスムーズにことが進んで、安心感があった。<br>幸いにして彼は私の顔も体型も好みだったらしく、特に向こうから別れを切り出されることのないまま就活に突入した。<br><br>就活は全く気合いが入らなかった。<br>少しでも大きくてお給料の良い会社に、なんて考えもしなかった。<br>軸は「丸の内のキラキラOLがやってみたい」、ただそれだけ。<br>結局、大手信託銀行の事務処理を請け負う会社から一般職OLの内定をもらうと、早々に就活を終えた。<br>直輝がインターンを経て鉄道系の大手デベロッパーから内定をもらえることがほぼ確定していたことも、なおさら私から就活のやる気を奪っていた。<br>どうせ、卒業してしばらくしたら直輝と結婚して、養ってもらえる。<br>彼の実家パワーも合わせて、リッチな専業主婦になれる。<br>そう考えて舐めきっていた。<br>けれど、現実は甘くなかった。<br>11月の三田祭が終わった頃に、向こうから突然別れを切り出された。<br>恐らくは就活を真面目にやらなかったのが、彼から見ると頼りなく映ったのだろう。<br>それに、家柄だって違いすぎた。<br>私のパパだって、品川に本社のある大手メーカーの部長。<br>けれど、何代も続く高級旅館の経営者一族からみれば、所詮は庶民にすぎないんだろうと思った。<br>家に帰ってからママに彼氏に振られた、と報告したとき、改めてそのことを現実として受け止めて、悲しくなって部屋でひとり泣いた。<br>直輝の実家が太いことや、彼が大手デベから内定を得ていることなんて結局はささいなことで、彼と一緒に過ごした3年間が自分にとっては何より宝物だったと改めて思った。<br>涙は数時間止まらなかった。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n98589a38233a'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 02 Feb 2025 15:59:59 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」第32話 拓真(大手メーカー関連会社勤務)</title>
      <description><![CDATA[<p name="034838b7-30be-4888-9616-47fc4b2160dc" id="034838b7-30be-4888-9616-47fc4b2160dc">「ごめんなさい」「やっぱり会えません」<br>3年落ちXPeriaの通知にそう表示されるのを見て、口から心臓が飛び出しそうになった。<br>「噓やん？」「もう日立駅におるんやけど」<br>縋るような気持ちで返信する。<br>が、数分待っても既読にはならない。<br>震える手でLINE通話を試みる。<br>しかし、当然繋がらない。<br>TwitterでDMしようとすると、既にブロックされていた。<br>──ああ、終わった。<br>そう呟くと、ベンチにへたり込む。<br>一気に長旅の疲れが押し寄せてきて、動けなくなった。<br>目の前には太平洋が広がっている。<br>ついさっきまで綺麗だと思いながら眺めていたのに、今となっては憎々しくて仕方がない。<br>「あのクソ女……」「俺をバカにしやがって！」<br>周囲の目も気にせず叫ぶ。<br>が、普段ろくに声を出していないせいで喉が空回りして、ほとんど声にならない。<br>ただ怪訝な視線を集めるだけで、何の気晴らしにもならなかった。<br>恥ずかしくていたたまれない気持ちになって、一刻も早く逃げ出したくなった。<br>だが、もはや立ち上がる気力すら残っていない。<br>はあ、とため息をつくと、両膝に手をつき、両手で顔を覆う。<br>涙すら出てこなかった。<br><br>遠路はるばる、茨城は日立までやってきた理由はただ一つ。<br>童貞卒業のため。<br>捨てたくて捨てたくてたまらなかった童貞を、29歳にしてついに捨てられる。<br>そんな希望を胸に抱き、瀬戸内海沿岸、山口は山陽小野田から在来線、新幹線、特急と乗り継ぐこと約7時間。<br>ようやくたどり着いた日立で裏切りに遭った。<br>時間とカネを無駄にした絶望感と、裏切りに対する怒りで頭痛がした。<br>顔を覆っていた手をどけると、まただだっ広い太平洋が広がっている。<br>そのさざ波が自分を嘲笑うかのように見えて、無性に腹が立った。<br>また勢いをつけて立ち上がり、声にならない声で叫んだ。<br>再び怪訝な視線を一身に集めることになったが、そんなことはもう、どうでもよかった。<br>地面に置いていたリュックサックを地面に一度投げつけ、ガラス窓に向かって蹴り飛ばす。<br>運動神経が悪いせいで、期待していたほど勢いは出なかった。<br>ただ鈍い音が響いて、ガラス窓が少しだけ揺れた。<br>中学の時にサッカー部の連中に散々嘲笑われたことを思い出し、また嫌な気持ちになった。</p><p name="228d9977-d63f-4b71-8349-8a70f0d0fbeb" id="228d9977-d63f-4b71-8349-8a70f0d0fbeb">思い返せば、小学校の頃からいじめられっ子。当然非モテ。<br>西神中央の小学校では「拓真菌」扱い。<br>クラスの皆からバカにされた。<br>ドッジボールではわざと顔面を狙われ、何度も鼻血を出した。<br>毎日掃除のたびに床を拭いた後の雑巾を背中に突っ込まれ、毎度泣きながら引っ張り出した。<br>給食の時間、席を班形式にしても一言も話してもらえない。<br>席替えで隣の席になった女子にはキモいと泣かれる。<br>当然、席をくっつけてもらえない。<br>他にも嫌な思い出は山のようにある。<br>いじめを見かねた先生が母さんを呼び出しては、三者面談になった。<br>だが、俺ほどではないとはいえ大概コミュ障でチー牛の親父は、俺が学校でいじめられていることには無関心で、三者面談が終わるたびに母さんと喧嘩をした。<br>恐らくだが、自分も昔学校でいじめられていたから、それくらいは普通だと思っていたに違いない。<br>親父は大教大附属池田を出て京大の法学部まで卒業したくせに、コミュ障のチー牛なせいで結局県庁職員どまり。<br>そのうえ出世も遅れていたようだ。<br>中学受験をしてみたかったが、そんな親父のみみっちい稼ぎで専業主婦の母さんと男2人を養う我が家では、まず無理な話だった。<br>母さんも短大卒でおままごとみたいな仕事しかしたことがなく、チー牛の親父としか結婚できないくらいには社会不適合で、日々の家事すらろくに勤まらない。<br>そんな状況ではパートに出るなんて夢のまた夢。<br>結局中学に上がるタイミングで、多少お行儀の良い鳴尾に引っ越すのがやっとだった。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n98d20b9a6617'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 26 Jan 2025 12:46:39 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」第31話 仁美(専業主婦)</title>
      <description><![CDATA[<p name="41c6fc68-7192-4ec3-8e43-ad29ea5546de" id="41c6fc68-7192-4ec3-8e43-ad29ea5546de">「あなたの1週間の行動評価は50点でした」<br>「残念、このままでは不合格です」<br>夫、晃にそう告げる。<br>晃はマジかよ、と口走りながら、スポーツ刈りの頭を掻きむしった。<br>──キモっ。<br>思わずそう口走りそうになったが、心の内にとどめた。<br>「じゃあ」<br>「今週末もあなたが一人で家事を全部やって」<br>「なおかつあなたのお小遣いで映画のチケットをプレゼントしてくれて」<br>「さらに映画に行ってる間は美羽と留守番してくれるのなら、＋30点で80点にしてあげてもいいけど」<br>晃はほとんど考える間もなく、小さくうわずる声でわかった、と返事をした。<br>「じゃ、いつも通り誓約書書いてね」<br>そう伝えると、リビングの収納からルーズリーフを取り出す。<br>"私、中澤晃は"<br>"2025年1月18日、19日に一人で全ての家事を行います"<br>"加えて、妻、仁美に映画のチケット1枚を、自分のお小遣いでプレゼントします"<br>"妻、仁美が映画を観に行っている間、娘、美羽と2人で留守番をします"<br>ミミズが這ったような字で晃がルーズリーフに記す。<br>彼からそれを受け取り、じゃあ約束通りよろしくね、とだけ伝えると、リビングに晃を残して自室に戻った。<br>彼はいつも、リビングインの部屋に布団を敷いて寝ることになっている。<br>忍び足で自室に入ると今年で3歳になる美羽が、彼女用のベッドでスヤスヤと寝息を立てていた。</p><p name="f8efe3ef-0a80-4058-bbc6-abc7c29f25be" id="f8efe3ef-0a80-4058-bbc6-abc7c29f25be">遡ること5年半ほど前、2019年の10月。<br>コロナ禍の直前に3歳年上の晃と入籍した。<br>彼と出会ったのは結婚相談所。<br>もともとさっさと結婚して、クソみたいな仕事──とある不動産販売会社の営業事務──をやめて、20代のうちに専業主婦になりたい、ママになりたいと思っていたのに、27を目前にして、3年付き合っていた慶應卒、大手損保勤めの剛に振られた。<br>私の一番綺麗な時期だけ楽しんで捨てていった彼を心底恨んだ。<br>けれど、いつまでもウジウジしているわけにもいかないと思い、相談所に登録して婚活を始めた。<br>ちょうど妹の希美がその前の年の秋、大学時代からの彼氏と入籍していて、焦りもあった。<br>もっとも、昔からどこに行っても美人と言われてきたし、スタイルの良さも褒められてきていて、容姿には自信があった。<br>だから、相談所ならすぐ成婚できると思っていた。<br>けれど実際は甘くなかった。<br>27で年収350万円ほどしかなく、実家暮らし、かつ専業主婦志望、という属性では婚活は難航した。<br>人気会員のそこそこまともな男性とお見合いは組めるし、仮交際にも入れるのに、向こうから断られてしまって真剣交際に進めない。<br>今どきは共家事共働き希望の男性が多いので、専業主婦志望なら年収以外は妥協いただくしかありません、とアドバイザーから言われ、"専業主婦OK"の男性の中からオススメだという男を何人か見せられた。<br>全員理系の陰キャか一回り近く年上のおっさんで、呆然とした。<br>同年代～5つ年上に絞ると、中高生の頃も明治学院大学に通っていた時も就職してからも、視界にすら入れていなかったようなタイプの男──中受の塾に通っていた頃、キモいと見下していたようなタイプの男しかいなかった。<br>結局あらゆる条件で妥協に妥協を重ねて、さらに妥協して、専業主婦OKで、甘やかしてくれる同年代で、年収600万円以上ならOKということにした。<br>最終的に、絶対に専業主婦、働いてもパート、家事育児も丸投げNG、それらについて誓約書も書いてほしい、というむちゃくちゃな条件を提示しても、私の容姿が気に入ったから、と呑んでくれた晃で手を打つことにした。<br>それくらい働くのがもう嫌だったし、何となくこの人なら、私のワガママを全部聞き入れてくれそうな気がした。<br>晃と成婚退会したとき、相談所に入ってからすでに1年近い月日が経っていた。<br>入籍からほどなくコロナ禍がやってきて、結婚式は諦めた。<br>もっとも、ハイスぺイケメンと結婚した大学時代の友人達に、晃との誓いのキスなんて絶対に見られたくなかったから、ちょうどよかったと思った。<br><br>晃の顔は如何にも理系の陰キャ、という感じ。<br>キモいのは間違いないが、まあギリギリ許容範囲。<br>かけているメガネから服から髪型から、全てがダサい。<br>だけど、わざわざ口うるさく言って治す気にもならない。<br>体型も、無駄に身長が180センチほどあるくせに、筋肉がほとんどないヒョロガリ。<br>そのせいでさながらナナフシみたいで、やっぱりちょっとキモい。<br>しかも気に入らないことがあると頭を掻きむしる癖があり、頻繁に貧乏ゆすりをする。<br>話し方も何だか変だ。<br>そのうえドルオタ。<br>一回り以上年の離れた乃木坂だの日向坂だの櫻坂だのの女の子を必死にチェックしている。<br>これは正直、めちゃくちゃ気持ち悪いけれど、よく私が似ていると言われる梅澤美波が一押しなのは評価してあげようと思う。<br>あとは特筆すべきこととして、無駄に性欲が強い。<br>結婚当初からずっとそうだったし、36になってもなお、全く性欲が衰えない。恐ろしい限りだ。<br>妊活中は半年近く妊娠できなくて、これ幸いと散々、毎日のように身体を求められた。<br>部屋を暗くしてコンタクトを外して目をつぶって、"今私を抱いているのは田中圭"と必死に暗示をかけて慣らしているうちに、だんだんそこまで苦痛ではなくなった。<br>もっとも、本物の田中圭はあんなヘコヘコ腰を振るようなヘタクソじゃないだろうし、骨も痛くないだろうけど。<br>それから、変な性癖がある。<br>妊活中はよくメイド服だの、バニーだの、スパイファミリーのヨルさんだの、変なコスプレをさせられたし、今もたまにおねだりされることがある。<br>これも大概キモいけれど、もう慣れた。<br>体型維持のモチベーションにもなる。<br><br>あ、もちろん良い点もある。<br>まず、臭くはない。無臭寄り。<br>それから、大手メーカーの係長級でそこそこ稼ぎが良い。<br>年収850万円もあれば、さすがに東京都心で暮らすことは無理だけれど、今住んでいる多摩地域、稲城市ならそう問題ない水準。<br>中古とはいえ、貯金や両実家の援助も合わせて、そこそこグレードの高いマンションを買うことができた。<br>あと、学歴は良い。<br>関西ではそこそこ有名だという私立の中高一貫校を卒業して、早稲田の理工学部──正確には"基幹理工学部"らしい、よく知らないけど──を卒業し、その大学院も卒業している。<br>それに、下宿して私立に通わせられる程度には実家も太い。<br>確か、阪急って東京でいう東急でしょう？<br>晃はその沿線、吹田市出身。<br>お義父さんは同志社大学を卒業して元々某大手生命保険会社に勤めていて、部長クラスまで昇進しているし、おじいさんは京都の郊外の大規模農家兼地主。<br>あと、関西出身だけど訛ってない。<br>美羽が中途半端な関西弁なんて話し出したら、きっと発狂してしまうと思うから。<br>加えて、私にうだうだ働けだとか言ってこない。<br>もしかしたら、単に諦めているだけかもしれないけど。<br>そして何より、私に対して従順。<br>どんなワガママも聞いてくれるし、何でも強く言えばやってくれる。<br>家を買う時は私の実家近くにしてくれたし、平日に母を家に呼んで彼女と家事、育児を分担したり、話し相手になってもらうことも許してくれる。<br>あ、後もう一つ、大事なこと。<br>意外と子煩悩。<br>平日は起きている美羽に会えないせいで存在を忘れられるのが嫌らしく、週末は自発的に彼女の面倒を見てくれる。<br>美羽を任せて、私一人だけで外出することも許してくれる。<br>このあたりは正直ありがたい。<br><br>ちなみにさっきの行動評価は、二人目なんてさらさら作る気もないのに、晃からほぼ毎日身体を求められるのがさすがに鬱陶しくて始めた。<br>「家事の分担も前戯」が合言葉だ。<br>毎週木曜日の0時に持ち点100点で始まって、晃が何か私の機嫌を損ねる度に5から10点、たまに15点や20点を引いていく。<br>何か家事をしてくれる度に5から10点ずつ加点。<br>全部iPhoneのメモに記録していく。<br>水曜日の夜に評価が終わって、70点以上残っていれば合格。<br>金曜か土曜のどちらか、1回だけ私を抱いても良い。<br>80点以上なら金土1回ずつの計2回か好きなコスプレで1回、90点以上なら金土1回ずつ、好きなコスプレ付きで計2回と決まっているが、あいにく、食洗機付きの今の家に引っ越してきてからは皿洗いで点を稼げなくなったせいで、1年ほど晃はろくに点が取れていない。<br>ちょっとかわいそうだし、変な気を起こしてよその女性を襲ったりしても困るから、週末の二日間のワンオペ家事を約束したり、何かをプレゼントしてもらうことで、点数を先食いして加点できるようにした。<br>その加点で70点以上取り、月に数回週末の夜に私を抱く。<br>それが彼の今の人生の楽しみの一つになっているようだ。<br>というのも、この制度を導入して以来、"私に対して失礼"という理由で普段彼が自慰をすることは禁止し、さらにスマホにはフィルタリングをかけ、私物のパソコンはリビングでしか触らせないようにして、彼からはアダルトコンテンツの一切をシャットアウトしている。<br>当然、風俗に行けるような小遣いも渡していない。<br>不倫……できるものならやればいいけれど、できる度胸もなければ出会いもないだろう。<br>そもそも晃に、不倫ができるような男としての魅力はない。<br>だから、彼は私の身体が欲しくて欲しくてたまらないのだ。<br>完全に性欲の奴隷で面白いくらいだし、そこはちょっと可愛げがあると思ってすらいる。<br><br>私はこれまでの人生でずっと美人と言われ続けてきたし、スタイルの良さも褒められ続けてきた。<br>産後に体型が変わるのが嫌だったから、ジムに通ったりして努力して、産前のスタイルをそれなりにきちんと維持している。<br>だから晃にとって、私の身体は必死になって点数稼ぎをするくらいの価値があると確信している。<br>むしろ、必死にならないのはもはや、私に対する侮辱。<br>それにわざわざ痛い思い、しんどい思いをして彼の子供まで産んであげたのだから、専業主婦とはいえ、家事までやってくれることも求めて当然。<br>私はそう本気で思っている。<br><br>朝、8時。<br>美羽と一緒に起きると晃はすでに出社していて、もう家にはいない。<br>これもいつものこと。<br>私の実家への近さを最優先して家を買ったから、彼は毎日片道2時間かけて横浜の工業地帯まで通勤している。<br>元々はリモートもあったけれど、今は毎日出社だから大変そうだ。<br>けれど長時間通勤が嫌なら、彼が年収維持か年収増で、もっと通いやすい会社に転職すればいいだけの話だと思っている。<br>会社は8時半始業だから、5時半には起きて、6時半前には家を出ている。<br>同じタイミングで起きるなんて絶対嫌──そもそも一緒に寝るのも嫌──だから、彼にはリビングで寝てもらっている。<br>ちなみに、彼が出発するときにうるさくして私が目を覚ますと、マイナス20点。<br>晃はたいてい20時半頃まで残業して、そこからまた2時間近くかけて、22時半くらいに帰ってくる。<br>手取りが前の月より低いと私に怒られるから、いつも上限ギリギリまで残業しているようだ。<br>ちなみに、この時間帯にはもう私は美羽と寝ているから、彼は私が用意しておいてあげた夕食を自分で温めて一人で食べ、自分の使った食器を私と美羽の食器とまとめて、食洗機に放り込んでから寝る。<br>ちなみにこれで5点加算。<br>こんな調子なので、平日に彼と顔を合わせるのは定時退社推奨日で少し帰りが早い水曜日の夜、一週間の行動評価を伝えるときくらいになっている。<br>リモートだったときは毎日顔を合わせていて、かなりうんざりしていたから、ちょっと会わなさすぎる今くらいがむしろちょうどいい。<br>たまにふと、晃が定年したときはどうしよう？なんて思ったりもするけれど、まあ、その頃にはシワシワになって、よくわからなくなっているだろう。<br><br>8時に起き、美羽を起こすと、一緒に朝食をとる。<br>食器を食洗機に放り込んで、晃が既に入れていた朝食の食器ごと洗う。<br>ちなみに、ここで晃がシンクに朝食の食器を残していたり、前日洗ったものが食器棚に戻っていなかったりすると、それぞれマイナス5点。<br>朝食の食器が机の上ならマイナス10点。<br>ちなみに、前日夜の食器がシンクに残っていたら、マイナス20点。論外。<br>その後は家事をして、美羽がぐずらない限り、10時前には一緒に家を出て、自宅マンションから徒歩10分ちょっとの児童館に向かう。<br>家を出る前にロボット掃除機を運転することを忘れない。<br>これが毎朝のルーティン。<br>美羽は幸いにしてあまり晃に似ず、私に似て可愛いし、元々女の子が欲しかった──なんなら女の子の一人っ子がベストだと思っていたから、1人目で彼女を授かれて本当に嬉しかった。<br>晃は本当は男の子も欲しいようだけど、私は美羽にしっかり手をかけてお金をかけて育てたいし、二人目なんて考えてもいない。<br>ちゃんと大学受験まで見据えた中学受験をさせて、できれば理系にさせて、MARCH以上の大学には入れて、ちゃんとキャリアを築かせたい。<br>少なくとも、仕事を辞めたくて、妥協して結婚した私みたいにはさせたくない。<br>それを考えると、晃の稼ぎではさすがに二人目なんてまず無理だ。<br>それに、また妊活で週に何度も晃に抱かれるのもしんどいし、彼みたいなチー牛の息子が産まれてきたとして、愛せるかどうかわからない。<br>諸々総合的に考えて、今の状況がベスト。<br>そんなことを思いながら、美羽と児童館の門をくぐった。<br><br>児童館で一通り美羽を遊ばせ、12時半ごろになると、そこからさらに徒歩10分ほど歩いたところにある自分の実家に向かう。<br>私が小学生の時に完成した注文住宅は、既に築25年を迎えている。<br>立教の法学部を卒業して大手食品メーカーで働いていた父、健一は北海道にある子会社の役員になり、今は単身赴任中。<br>3つ下の妹、希美は芝浦工業大学を卒業して、大学時代のサークルで知り合った3つ年上の彼氏を追い、愛知にある自動車関連のメーカーに就職した。<br>社会人1年目の秋にその彼氏と入籍して、今は育休を取って子育て中。<br>だから実家の一戸建てには、今は母の瑞穂しか住んでいない。<br>本当はここに住みたかったけど、さすがに晃が可哀想だからやめてあげた。<br>2階があるから掃除も面倒だし。<br>ただ、瑞穂の様子は心配だし、子育ても手伝ってほしいから、定期的にお互いの家を行き来するようにしている。</p><br/><a 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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 16 Jan 2025 12:32:42 +0900</pubDate>
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    <item>
      <title>「チー牛文学」第30話 直人(ITコンサルタント)/絢(大学生)</title>
      <description><![CDATA[<p name="ad8e52c1-4971-4b64-8567-a6674ce3b8cb" id="ad8e52c1-4971-4b64-8567-a6674ce3b8cb">「成人式、本当に行かなくて良いの？」<br>東京都港区某所の某ホテル、高層階の一室。<br>ベッドの縁に腰掛け、ぼんやり窓の外を眺める絢に声をかける。<br>窓から射し込む朝日が絢越しに目に飛び込んできて、彼女自身が神々しく輝いているように見えた。<br>「行かないですよ」<br>「会いたい子なんていないし」<br>絢はそう答えると、胸に下ろしていた髪を手で背中の方へ払った。<br>綺麗な黒髪が裸の背中にさっ、と広がる。<br>「ま、気持ちはわかる」「俺も行ってないもん」<br>そう返しながら冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を取り出す。<br>栓を開け、コップにゆっくり注ぐ。<br>「ふふっ」<br>「行かなかったんですね、成人式」<br>絢は俺にそう返すと、少し勢いをつけてベッドから立ち上がる。<br>「うん」「会いたい奴なんていなかったからな」<br>「一緒ですね」<br>少し憂いを帯びたような声。<br>絢は膝を屈めると、床に落ちたパジャマを拾い、また立ち上がった。<br>軽くばさばさ、とはたくと、半分、さらにもう半分と畳み、ベッドに置く。<br>その上に、ベッドに無造作に散らかっていた自分の下着を重ねる。<br>そして目線を上げ、俺の方を見てふっ、と微笑みを作ると、ゆっくりこちらに向かって歩いてきた。<br>「これ、絢も飲む？」<br>オレンジジュースの瓶を絢に見せる。<br>「ありがとうございます、今は大丈夫です」<br>「シャワー浴びてきますね」<br>彼女はそう言うと俺とすれ違い、シャワールームに向かう。<br>すれ違いざま、甘い香水の匂いがふわっと漂った。</p><p name="173ab0bc-3965-43a9-8d42-12d01fbe38cc" id="173ab0bc-3965-43a9-8d42-12d01fbe38cc">絢と知り合ったのは昨年の7月のことだった。<br>春先に婚活の無機質さや、現れる女の現金さに嫌気がさして、相談所をやめていた。<br>しかし、仕事が趣味の独り身では金を使うところもなく持て余す。<br>かといって、ソープに行って抱けるような女にも興味がわかない。<br>ふと、同じ現金な女の相手ならパパ活でもしてみるか、と思い立ち、パパ活専用アプリをインストールしたのが昨年の春。<br>期待して覗き込んだ画面には"いかにもパパ活をしています"と言わんばかりの派手な容姿の女の子たちが溢れ、ここもそんなものか、とげんなりさせられた。<br>その中から多少好みに近い子を見つけ出して、顔合わせまで漕ぎつけても、一度食事をしただけで連絡がとれなくなることも多々経験した。<br>そんな中で偶然探り当てた、パパ活には場違いなくらいに地味で真面目そうで、自分を定期Pに選んでくれる女の子。<br>それが絢だった。<br>アプリの画面に映る彼女を見つけたその瞬間、この子が良い！と電撃が走ったような気さえした。<br>肩まで伸ばした黒髪。<br>お世辞にも誰もが認める美人ではないが、かといってブスでもない顔立ち。<br>黒い縁の丸眼鏡。<br>おまけに都内の某国立大学理学部在籍、という肩書。<br>しかもまだ二十歳。<br>大学の頃──もう15年ほど前──に片思いしていた学科の同級生、堀川まゆみのことを思い出したりもして、いてもたってもいられなくなり、すぐに"いいね"を押した。<br>幸いにも翌日には返事が返ってきて、その翌週末には渋谷にある某ホテルのラウンジで顔合わせをすることになった。<br>慌てて約2か月ぶりの美容院を予約し、仕事帰りに新しい服を新丸ビルで買って帰った。<br>まともに服を買ったのは1年ぶりくらいのことだった。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n3dc0e7d551b2'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Tue, 14 Jan 2025 18:31:34 +0900</pubDate>
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    <item>
      <title>"都心勤務の美人OL"と交際し結婚するために必要な年収はいくらか</title>
      <description><![CDATA[<table-of-contents name="7ff95595-bb41-4852-9841-be2106ed8119" id="7ff95595-bb41-4852-9841-be2106ed8119"><br></table-of-contents><h2 name="2c4151ab-c263-4436-82bb-c7b63a0876aa" id="2c4151ab-c263-4436-82bb-c7b63a0876aa">はじめに</h2><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n5bfd8266289b'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://d2l930y2yx77uc.cloudfront.net/assets/default/default_profile_2-5375e0fe14f8f6451ac8859ef34c1b34d978cfaec6bf1222d0655ad5412d97f6.png</note:creatorImage>
      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 05 Jan 2025 00:29:11 +0900</pubDate>
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    </item>
    <item>
      <title>「チー牛文学」第29話 春樹（大手メーカー関連会社勤務）</title>
      <description><![CDATA[<p name="a653488f-76f3-426a-b994-3ec6f0d080e2" id="a653488f-76f3-426a-b994-3ec6f0d080e2">12月30日、午後。<br>ひたすら南下を続ける上越新幹線。<br>その車窓から見える景色が次第に街らしくなってきた。<br>それはつまり、地元が、実家が近づくということ。<br>はあ、と一つ大きくため息をついた。<br>本当ははるばる新潟から新幹線に乗り、何時間もかけてまで、地元や実家に帰りたいとは思わない。<br>親戚連中に会いたくもない。<br>妹の就職祝も別にやりたくはない。<br>けれど、顔を出さないという選択肢もなかった。<br>ただ我が身の無様さを思い、また一つ、はあ、とため息をつく。</p><p name="2d94846c-849e-4772-9ed8-e2c900ccf47e" id="2d94846c-849e-4772-9ed8-e2c900ccf47e">生まれも育ちも千葉県船橋市。<br>父、信は静岡県磐田市出身。<br>磐田南から電通大を経て、NTT系列の会社で技術職として働いた。<br>母、和子はお隣の八千代市出身で、一度もまともに働いたことのない専業主婦。<br>夫婦揃って学歴厨、職歴厨。<br>妹、麻世は「千葉西にしか行けなかった」はずなのに、気づけば明治の経営に合格し、多少化粧映えする顔のおかげか財閥系の信託銀行から内定を得て、家庭内で完全に俺より格上の存在になった。<br><br>ところで俺はというと、地元の公立中では成績優秀な優等生。<br>定期テストではいつも5教科470点を下回ることは無かった。<br>陸上部で長距離をやりながら、クラス委員も務めてしっかり内申を稼ぎ、マインドヤンキー連中とは連中のカンニングを手伝ってそれなりに上手くやって、何とか県船に進学した。<br>けれど、そこで周囲の優秀さに触れ、築いてきたプライドがズタズタにされてしまった。<br>理系クラスを選んだはいいものの、成績は低空飛行。<br>結局センターも大爆死。<br>周りは皆合格しているような理科大に落ち、あげく明治はおろか中央と法政にも落ちて、結局私大は日大理工しか合格できなかった。<br>国立前期日程の埼玉大学工学部、電気電子物理工学科にも落ちた。<br>結局後期日程の山形大学工学部、情報エレクトロニクス学科に拾われた。<br>日大との二択なら国立大学の方がまだ辛うじて残ったプライドが救われると考え、新幹線を乗り継がないとたどり着けない僻地、米沢の大学への進学を選んだ。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n9d18c5c2d7be'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 02 Jan 2025 21:24:43 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」東北編 第5話 大智(青森県六ケ所村出身）</title>
      <description><![CDATA[<p name="7793f40e-f4a3-4024-8d9d-95ce9f252249" id="7793f40e-f4a3-4024-8d9d-95ce9f252249">世の中には「損な役回り」の人達がいる。<br>六ヶ所村で生まれ育った俺は、物心ついた頃からすでにそれを肌で感じ取っていた。<br>皆のために、皆が嫌がる役割を背負った誇り高い街なのに、誰からも感謝されず、ネガティブに語られる。<br>そんな役回りの街は、日本中探して数えても両手でおさまるだろう。<br>地震をきっかけに六ヶ所も含め、日本中の原子力産業の街が好き放題言われるのを見て、当時高専1年、八戸で寮暮らしをしていた俺はやり場のない怒りに震えた。<br>それと同時に、絶対に他人が嫌がる仕事、「損な役回り」を引き受ける立場になってはならないと痛感した。</p><p name="814d39bf-0048-42b7-aefd-ed43004da94f" id="814d39bf-0048-42b7-aefd-ed43004da94f">そのためには東京に出なければ。<br>なおかつ理系ではダメだ。<br>法律を知っていれば、他人からいいようには扱われないはず。<br>そう考え、寮があるという理由で進学した八戸高専の建設工学科を3年で中退することにした。<br>法学部に行って弁護士を目指す、と適当な理由をつけると、両親は仕方ないと認めてくれた。<br>本当の理由は言わなかった。<br>武蔵工業大学の原子力工学専攻を出てウラン濃縮工場の施設管理として働く親父に、「原子力産業は"損な役回り"」とはさすがに言えなかった。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n2112b00b0de7'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://d2l930y2yx77uc.cloudfront.net/assets/default/default_profile_2-5375e0fe14f8f6451ac8859ef34c1b34d978cfaec6bf1222d0655ad5412d97f6.png</note:creatorImage>
      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 30 Dec 2024 22:51:36 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/cheeeee9/n/n2112b00b0de7</link>
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    </item>
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      <title> 「チー牛文学」第28話　遼(コンサル)/弥生(大手メーカー技術職)</title>
      <description><![CDATA[<p name="0145691c-fc53-432a-9ff1-8d12f30e0489" id="0145691c-fc53-432a-9ff1-8d12f30e0489">──ねぇ、先輩。<br>今年のクリスマスプレゼント、新しい住所に送っておきましたよ。<br>奥さんとの新居、東雲の綺麗なマンションですね。<br>しかも12階の景色の良いお部屋。<br>そんなところに住める先輩も奥さんの真子さんも、とっても羨ましいです。<br>なんで階数も部屋も、彼女の名前も知ってるんだって？<br>最後に先輩とエッチした日、先輩のカバンの使ってなさそうなポケットに、こっそりダメ元でAirTagを入れといたんです。<br>まだ気づいてないみたいですね。<br>私のiPhoneにマンションの位置情報がバッチリ出てます。<br>先輩、整理整頓はちょっと苦手みたいですけど、カバンはちゃんと整理しないとダメですよ？<br>友達が東京で不動産営業をやってるから、位置情報のマンションの成約事例を調べてもらって、登記簿を取って片っ端から調べました。<br>登記簿に先輩と真子さんの名前を見つけた時、とっても嬉しかったです。<br>ペアローンって、結婚してすぐ組めるんですね。<br>あまり真子さんを無理に働かせちゃダメですよ？<br><br>あ、そうそう。<br>いろんなSNSを駆使したら、真子さんを特定できました。<br>私と違ってキリっとした美人で、なんだかモデルさんみたいな方ですよね。<br>早稲田の政経出身で、大手重工メーカーの本社にいらっしゃるんですよね。<br>あんな美人バリキャリをゲットして、さすが先輩です。<br>あ、あとね。<br>プレゼントを先輩が独り占めしないように、宛名に真子さんのお名前を入れておきました。<br>お二人でご覧になってくださいね。<br>先輩へ最後に贈る愛のしるしです。<br>ここから東雲は少し遠いですし、先輩には真子さんがいますけれど、それを見てたまには私のこと、思い出してくださいね。</p><p name="ead82606-e239-437a-b3a0-108ec583396a" id="ead82606-e239-437a-b3a0-108ec583396a">──今年の10月に購入して、昨日引っ越してきたばかりの自宅マンションのリビング。<br>朝起きて朝食を取り、コーヒーを淹れて12階からバルコニーの外の景色を眺めながら、うっとりとため息をついた。<br>ついに自分も、憧れの東京湾岸エリア住まい。<br>そう思うと高揚する気持ちを抑えきれなかった。<br>修士卒で就職し、4年8か月ほど働いた某大手電機メーカーを今年の12月いっぱいで退職する。<br>今は有給消化中で、来年の正月休みが明けてから大手町に拠点がある某日系コンサルティング企業で働く予定だ。<br>このマンションを買うとき、一緒にペアローンを組んだ妻の真子は、豊洲に本社がある日系メーカーで人事として働いている。<br>充実した未来の見える新しい仕事、都会的で豪奢ですらあるマンションでの暮らし、そして聡明で美しい妻。<br>身に余るような幸福と豊かさを手に入れ、いっぱしの東京の男になれたような気がした。<br>ソファにゆっくり身を沈めると、ふう、とため息をついた。<br>私のこと、きっと先輩は一生忘れられなくなりましたよね。<br>部署の2つ下の後輩──それだけで表現するのはちょっと苦しい存在──の上村弥生と最後に会った時に冗談めかして言われた言葉が、ふと頭に浮かんで消えていった。<br><br>元々生まれも育ちも長野県諏訪市。<br>東京に近くて遠い微妙な距離感で、ずっと東京に憧れながら育った。<br>父は飯田出身で、信州大学の繊維学部を出て、地元の大手メーカーに勤める技術者。<br>母は元々は地銀で事務職として働いていたが、結婚を機に退職し、今は茅野の理科大で非正規の事務員をやっている。<br>上には姉が一人。<br>地元の公立中から地元では一番の公立高校を出て、津田塾の学芸学部に入ったものの、俺と違って東京が全く肌に合わなかった。<br>卒業後は「東京の空気は汚い」と長野に戻り、松本の地元企業に入社して、松本市役所で働いている高校時代の部活の先輩と結婚した。<br><br>自分は姉と同じ小中高を卒業して、筑波大学の応用理工学類に入学した。<br>本当は東工大に行きたかったけれど、学力が足りなかった。<br>せめて週末に東京に行ける大学に行きたくて筑波に入った。<br>実際のところはほとんど週末に東京に行くことはなく、話し上手になりたくて入った落語サークルで活動しつつ、学科の友達に請われて掛け持ちした小型ロケットを飛ばすサークルでロケット作りを手伝い、バカみたいに酒を飲んでは部室や学内で寝っ転がって寝た。<br>初めて彼女ができたのは2年生になる直前だった。<br>落語サークルの同期で心理学類生の高橋沙那。<br>埼玉の公立女子校出身。<br>さらさらした黒髪を背中まで伸ばしてパーマをかけ、いつも黒ぶちのメガネをかけて、でっかいピアスをつけて、ひらひらした服を着ている、ちょっとお洒落な子。<br>心理学をやりたがる人にありがちなのか、薄ら情緒不安定気味。<br>痩せていて身長が高いのが好みだった。<br><br>沙那にうるさく言われた通り、茅野のイオンで買って持ってきた服は捨てて、都内で服を買い、美容院でも注文の仕方を変えて、ある程度見た目を整えたら、以前より多少は見栄えがするようになった、気がした。<br>彼女が食べたいものをあれこれねだられて料理をするうちに、多少料理が上手くなった、気がした。<br>次第にあれこれ注文が増えていく彼女とのセックスを繰り返すうちに、どうすれば女性を満足させられるのか少しわかった、気がした。<br>そして、定期的に情緒不安定を起こす彼女のためにチャリを飛ばして彼女の住まいに向かううちに、多少は女性の扱いがうまくなった、気がした。<br>けれど、結局長続きしなかった。<br>付き合って1年半ほど、3年の夏で関係は崩壊した。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n6e5e9e5097c2'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 23 Dec 2024 23:01:29 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」東北編 第4話 尚也(福島県郡山市出身）</title>
      <description><![CDATA[<p name="4a5e5123-c40c-4fd2-9fc4-57d18352d5a6" id="4a5e5123-c40c-4fd2-9fc4-57d18352d5a6">「ワーママなんて、ブランドバッグやタワマンを買うために子供を保育園なんかに預けて働いてるんだろ？それよりテメーの子供に向き合えよ！」<br>「キラキラワーママが子供を放置する保育園に俺の払った税金が使われる？ふざけんな！」<br>「アタシの自己実現？それよりテメーの子供の未来を考えろよ！」<br>──こんな風に思いの丈をツイートしていると、どんどんいいねRTが来た。<br>ほとんどは意見を共有できるFFさんの肯定的な意見。<br>一部、ボケワーママとフェミに染まったホモみたいな、嫁に働かせる甲斐性のない男からの気持ち悪い反論。<br>もちろん、気持ち悪い奴は見かけ次第、即ブロック。ざまあみろ。</p><p name="5efd1e0e-b26f-4c20-a55e-a335531aba6b" id="5efd1e0e-b26f-4c20-a55e-a335531aba6b">東京都葛飾区内の賃貸アパートの一室に住み始めて、来年で7年になる。<br>今年で築40年超。金町駅徒歩10分、鉄筋造。<br>1K6畳、3点ユニット。<br>管理費共益費込で家賃5万円。<br>壁が薄く、今みたいな冬の時期は死ぬほど寒い。<br>ボロボロの独身寮を嫌ってできる限り家賃が安いところを探し、ここになった。<br>結婚するにはカネが要ると思い、貯金と投資のため家賃を抑えていたが、33歳となった今も未婚のまま。<br>文科省官僚として係長まで昇格し、月平均60時間の残業をこなして昨年の年収は900万円弱。<br>資産総額は4000万円弱。<br>なのに女性からろくに見向きもされない。<br>もう結婚は諦めている。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/nec9f1e5201f9'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 20 Dec 2024 23:21:07 +0900</pubDate>
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      <title>「チー牛文学」東北編 第3話 瑠璃(山形県山形市出身）</title>
      <description><![CDATA[<table-of-contents name="268224ec-2c81-4c56-84a9-7bff3f02d875" id="268224ec-2c81-4c56-84a9-7bff3f02d875"><br></table-of-contents><p name="4d2e6f0e-db5e-4cf6-ab7c-f1776d6acb0f" id="4d2e6f0e-db5e-4cf6-ab7c-f1776d6acb0f">──ああ、相変わらず愛のないセックスだった。<br>ベッドに一人で横たわりながら思った。<br>暖房をかけているとはいえ、シャワーに行く前に布団を掛けてすらくれなかった。<br>腹が立つ気持ちを抑え込み、布団に頭まで潜り込む。<br>来年翔太と入籍したら、一生これが続く。<br>でも、それでもう構わない。<br>半分自分に言い聞かせるように心の中で繰り返した。<br>それで構わない。構わない。</p><br/><a href='https://note.com/cheeeee9/n/n2a4b5ac8ad72'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>cheeeee9</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 15 Dec 2024 15:38:30 +0900</pubDate>
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