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人文系大学院の経験は役に立つ?—アカデミアの外で活躍する元人文系大学院生たちのリアル

 2025年4月、独立系ベンチャーキャピタル(VC)であるANRIは、新プログラム「ANRI人文奨学金:未来を考える人文フェローシップ」の募集を開始しました。この奨学金は人文系分野で未来を切り拓く意欲的な若手研究者を対象とし、採択者一人あたり50万円が給付される取り組みです。

 ANRIは「未来を創ろう、圧倒的な未来を(Make the Future AWESOME)」というビジョンのもと、技術革新や社会変革を目指すスタートアップ企業への投資や自然科学系研究者への支援に力を注いできました。しかし近年、テクノロジーの急速な進歩による社会への影響を考えるうえで、「人間や社会への深い洞察」の重要性を強く実感し、社会をより良い方向へ導く可能性を秘めた人文系研究への支援も不可欠だと判断しました。こうしてテクノロジーと人文知が交差する未来を共に考えるために立ち上げられたのが、ANRI人文奨学金です。

 第三弾となる本記事では、ANRIの中路隼輔さんをメインコメンテーターとして参加いただきつつ、実際に人文系の大学院で学び、その後アカデミアの外でキャリアを築いている方々をゲストに迎え、人文系大学院での経験が現在の仕事や考え方にどのように活かされているのか、そして大学院生が直面する経済的な課題やメンタルヘルスなどリアルな問題についてお届けします。


1. 大学院進学の動機

A(司会):今日は、慶應義塾大学大学院でフランス文学を専攻し現在フリーランスライターとして活躍している松本さんと、同志社大学大学院でクィア研究を専攻し現在はANRIでOperations Specialistとして勤務されている佐々木さんをお迎えしています。また、ANRIのシニアプリンシパルキャピタリストである中路さんにもご同席いただき、VCの視点からコメントを頂きながら進行いたします。本日はよろしくお願いします。まずはお二人の大学院進学の動機について教えていただけますでしょうか。

松本:よろしくお願いします。私は慶應義塾大学の文学部に進学し、フランスの思想史を専攻しました。特に18世紀フランスの思想家たちに惹かれ、さらに専門的に学んでみたいと思ったのが、大学院に進学した動機です。

佐々木:よろしくお願いします。私は大学院では同志社大学大学院でクィア研究と視覚表象を専攻しました。ICU(国際基督教大学)の学部在学中からジェンダー/セクシュアリティの問題に関心があり、特にフェミニズム/クィア理論を学んでいました。学部で就活はしましたが、自分自身で研究を進めたいテーマがあることに気付き、学びを深めるために大学院進学へ進路変更しました。社会における多様な性をめぐる構造について、アカデミックなアプローチで探求してみたいという思いが進学の動機です。

A:お二人とも、ご自身の関心をとことん追求したいという思いで大学院に進まれたのですね。人文系では、職業的なメリットよりも純粋な探究心から進学を決める方も多いと聞きます。松本さんは思想史への探究心、佐々木さんは社会問題への問題意識が原動力になったわけですね。

2. 大学院生活と経済状況

A:大学院在学中の経済的な状況や生活についてもお聞かせください。大学院生は奨学金やアルバイトで生活費を工面する方が多いと思いますが、お二人はどのようにやりくりしていましたか?

松本:私の場合、学費の支払いに関しては日本学生支援機構(JASSO)の奨学金を利用していましたが、資料を購入する費用を考えるとそれだけでは足りないので、アルバイトもいくつか掛け持ちしていました。家賃を抑えるために友人とルームシェアをしていた時期もあります。生活費についてはいざとなれば実家を頼れる状況ではあったので、そこまで強い危機感があったわけではないものの、経済面のやりくりは常に頭にあったように思います。

佐々木:私も状況は似ていました。大学院の学費と生活費を自分で賄う必要があったので、平日は大学の図書館で学生アルバイトをしていました。研究に集中したい気持ちはあっても、生計を立てるために労働時間を確保しなければならないので、せめてもの移動時間削減で学内で働きましたが、時間的にも体力的にもなかなか大変でしたね。周囲の人文系の院生に、昼間は非常勤の仕事に出て夜に研究をする、といった生活を送っている人もいました。

A:実は私自身も現役の大学院生として、奨学金とアルバイトで何とかやりくりしているので、その大変さは実感としてよく分かります。研究に打ち込みたい気持ちと、生活のために働かなければいけない現実との両立は、本当に難しいですよね。

中路:自然科学系の分野に比べると研究費や奨学金のチャンスも限られていて、人文系の大学院生の多くがアルバイトで生計を立てながら研究していると聞いたことがあります。それでは研究に集中しにくい状況になってしまうため、非常にもったいないと感じますね。実はそうした現状を踏まえて、私たちANRIでは今年「人文奨学金」という若手人文学研究者を支援するプログラムを立ち上げました。経済的な理由で優秀な人材が研究を断念してしまわないように、少しでも力になれればと考えています。

3. 大学院生とメンタルヘルス

A:大学院生は経済的な問題だけでなく、メンタルヘルスの面でも課題を抱えやすい構造があると思います。その中で特に進路や将来への不安を感じる人も多いと聞きますが、お二人はいかがでしたか?松本さんは博士課程への進学を検討されていたとのことですが、その時のご自身のメンタルや心境について教えていただけますか?

松本:そうですね。進学前は、修士課程を終えたら自然に博士課程に進むものだと無邪気に考えていました。しかし実際に進学してみると、自分の能力やモチベーションの問題もあり、大学院生活にうまく適応できませんでした。今思えばよくあるパターンですが、当時の私は「研究」がしたかったというよりも、ただ興味のあることを勉強するのが好きなだけだったんですね。でもそのことをうまく自覚できず、「自分の意志で進学したはずなのに、なぜこんなに苦しいんだろう」と感じていました。今振り返ると、つらい時期だったなと思います。

佐々木:松本さんのお話を聞いて自分の経験を思い出しました。私は大学院時代は自己管理の難しさ、特に研究と生活のバランスを取る難しさに悩まされました。常に締め切りや学会発表準備に追われる一方で、生活がおろそかになり心身のリズムが崩れそうになりました。研究活動はいかに多くの論文を読み込んだり先行研究のデータに当たるかなので、自分の身体が資本だとわかりつつ、だからこそ研究に身ひとつで打ち込みすぎて、院進学を決めたのが遅かったことも拍車をかけて、食事や休息や睡眠も後回しにしてしまう日が続いたこともあります。研究が思うように進まないことや、自分でコントロールできないことにも焦りと情けなさを感じ、このままで研究者になれるのかと不安でしたね。

松本:たしかに、自信を失いやすい環境ではあると思います。自分を律して着実な成果や実績を積み重ねられればよいですが、多くの人はそんなに完璧じゃないし、心身や経済状況が万全でない時もある。状況が悪くなってしまった時に大事なのは周囲のサポート環境ですが、それはすべての大学に等しく備わっているものでもないですからね。むしろ、その環境を自分で整えていけるかどうかも、求められる資質のなかに含まれているように思います。

佐々木:その通りですね。誤解を恐れずにいうと、学問の世界って少しマッチョというか、弱さを見せづらいんです。研究の姿勢として批判精神がとても重要で、自己批判も働きます。精神的にも身体的にも健康であることは当然じゃないよねという視点が重視されつつ、翻って自分の研究の質は落とせない。実績と成果をすぐに積み上げないと、ただでさえポストの少ない研究でのキャリアパスを描きづらい。研究室仲間や先生などに相談したり、比較的弱さを打ち明けやすい環境にいたはずですが、私自身がどれだけ辛くても「ここで弱みを見せたら負けだ、踏ん張らねば」と思い込んで自分を追い込んでいたように思います。その結果、一人で抱え込みすぎて、心の余裕がなくなっていきました。

A:お二人の話を聞いていて、アメリカに留学していた時のことを思い出しました。留学先の大学ではオリエンテーションの一部でメンタルヘルスに関するセクションがあったんです。そこで「大学院生は学部生に比べて約6倍もうつ病のリスクがある」という説明を受けて驚きました。でも、それと同時に大学側がメンタルヘルスのサポート体制を整えていて、大学院生は無料でカウンセリングを受けることができたんです。私は隔週で通っていたのですが、そのカウンセリングが本当に良かったと感じています。話を聞いてもらえる場があるだけでも、自分を追い詰めることが少なくなりましたし、「つらさを感じるのは自分だけじゃない」と気づけたことも大きかったです。日本の大学院でも、そういったメンタルヘルスに関する支援がもっと充実するといいですよね。

4. 修士課程中の葛藤と進路選択

A:大学院で研究を続ける中で、進路について葛藤することもあったのではないでしょうか。博士課程に進むか就職するかなど、どのように進路選択を考えましたか?

松本:自分の場合は先ほどもお話した通り、修士の途中で進学を断念し、就職に切り替えました。ただ、それもスムーズに決断できたわけではなく、正直に言えば「資質的に進学はもう難しいとわかっているけど、なかなか諦めきれない」という状態が長かったんです。ただ、もし仮に大学院生活が肌に合い、勉強や研究をスムーズに進められていたとしても、いずれにせよ経済的な事情で進学を躊躇しただろうと思います。数年間にわたる留学を経て博士号を取得できたとしても、国内でポストを得て帰国できるかどうかはわからない。そうした不安定な状態で何年もポストドクター生活を続けていく自信は、自分にはありませんでした。

佐々木:私も同じように葛藤しましたね。クィア研究を突き詰めたい気持ちは強く、日本でその分野の研究者としてキャリアを築くのは相当狭き門であること自体は念頭にありました。但し、体調や経済的な負担などを考えると、それ以上研究に専念し続けるのは難しい状況でもありました。結局、修士課程を途中で中退し、経済的な自立を優先して就職する道を選びました。研究テーマそのものは今でも大切ですが、アカデミア以外の場所でも自分なりに社会に貢献できる方法があるのではないかと思うようになりました。

A:お二人とも、学問への情熱と現実的なキャリアの間で揺れ動きながら最終的な決断をされたのですね。その選択に至るまでには相当な悩みがあったことと思います。

中路:これは人文系に限らず大学院生が直面する大きな悩みですが、特に人文科学の分野では研究者のポストが限られているために、多くの優秀な方が途中で別のキャリアに転向せざるを得ない現状があります。それ自体は個人にとって前向きな決断だったとしても、社会全体から見ると貴重な人材が研究の世界から離れてしまうことにもなります。だからこそ、アカデミアと社会をつなぐ橋渡し役や、研究で培ったものを活かして活躍できる場を増やすことが大事だと痛感します。松本さんや佐々木さんのお話を伺って、改めてその課題について考えさせられますね。

5. 現在のキャリアと大学院経験の繋がり

A:では、現在お二人がどのようなお仕事をされているのか、そして大学院での経験がどのように今のキャリアに活きているのかを教えてください。

松本:私は現在フリーランスのライター・インタビュアーとして活動しています。この仕事に大学院での経験がどのように役立ったのかについては、ふたつの観点からお答えできそうです。
 まずひとつは、専門に関わるものもそうでないものも含めて、大量の本や資料を読むことで培われた知的体力。仕事柄、短い準備期間でその道の専門家に取材をしなければならない場面が多々ありますが、そのつど新たな分野に「入門」することが苦ではないのは、大学院で過ごした時間があったからこそだと思います。
 もうひとつは、先ほど佐々木さんもおっしゃっていた批判精神ですね。クライアントワークとして取材をしていると、ともすれば「顧客が求めていることを書く」だけの太鼓持ちになりかねません。たとえ相手がクライアントや取材対象者であっても、予定調和的な落とし所はなるべく避け、批判精神を持って問いを掘り下げていく。もちろん自分自身に対しても、「本当にこれでいいのか?」と絶えず問いを向けながら制作する。そんな記事づくりの姿勢の原点は、大学院での学びにあったのかなと思います。

佐々木:私は現在独立系ベンチャーキャピタルのANRIでOperations Specialist(オペレーション担当)として勤務しています。一見するとクィア研究とは全く異なる世界に飛び込んだように思われるかもしれませんが、大学院で学んだことは今の仕事にも確実に活きていると感じます。
 例えば、既存の「当たり前」を問い、多様な立場から想像する力です。投資先スタートアップの事業背景にある社会課題を理解できると、その事業の技術・サービスや社会的インパクト、そしてそこで働く人たち自体へも興味が持てます。困難にあえて挑戦する起業家の皆さんにリスペクトを抱きながらやり取りをさせていただいています。
 また、不確実性に身を晒す業界なので、何か困りごとが起きたら、情報収集・管理力、状況分析力、論理的に文章で伝える力などを駆使して、改善策を検討したり、社内外を適切に巻き込んで調整・実行する上で大いに役に立っています。
 異なる業界に進みましたが、研究で培った姿勢と今のキャリアが断絶している感覚は自分の中にはありません。むしろバックグラウンドが多様だからこそ個がもたらす付加価値があるとも思いますし、将来的には自分の人文学の知見を活かして社会の生きづらさを減らすような取り組みにも関わっていきたいですね。

A:異なるフィールドに進まれても、大学院での学びが土台となって活きているというお話はとても心強いです。現在進学を考えている人や在学中の院生にとっても、大きな励みになるのではないでしょうか。

松本:たまにポストドクターの友人から、キャリアについて相談されることがあります。その時によく伝えているのは、「人文系は、広い意味で捉えればかなり潰しがきく」ということ。自分の専門性と100%合致するキャリアを見つけようとするとニッチに感じられるかもしれませんが、50%、60%ならいろいろな選択肢が見つかるはずだし、それでも世間一般的には相当高い専門性と言えるはずです。自分は最終的に博士課程への進学を選びませんでしたが、「博士進学=アカデミックキャリア以外の選択肢がなくなる」というわけではまったくないので、広い視野でキャリアを捉えてみてほしいと思います。

佐々木:この奨学金が、色んな視点や他者に出会える機会になるといいなと思いますよね。

中路:お二人の現在のお話を聞いて、まさに人文系で培われた力が社会で価値を持っていることを実感しました。松本さんが指摘された「知的体力」や、佐々木さんの仰る「既成概念にとらわれず多面的に考える力」は、ビジネスの世界でも非常に貴重です。テクノロジーが急速に発展する今の時代だからこそ、人間や社会を深く洞察する人文知がより重要になってきていると思います。ANRIとしても、人文系のバックグラウンドを持つ方々がスタートアップや企業の中で活躍し、新たな価値を生み出していくことを期待しています。

A:本日は貴重なお話をありがとうございました。お二人の体験談には、人文系の大学院で学ぶ意義やその後の可能性が凝縮されていたように思います。

ANRIよりお知らせ

ベンチャーキャピタルANRIでは、「ANRI人文奨学金:未来を考える人文フェローシップ」の募集を開始しています!
ご興味のある方は、ぜひご応募ください✨

【助成概要】

  • 採択人数:最大10名

  • 助成金額:1人あたり50万円(2025年9月下旬に一括支給)

  • 使途:研究活動のためであれば完全自由(領収書不要)

  • 助成期間:採択より1年
    応募締切:2025年6月30日 23:59(日本時間)

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