〈考察編#19〉「やましくなければ」で終わらない——コロナが炙り出した監視社会の非対称
はじめに
「やましいことがなければ、見られても困らないはずだ」。
この言葉を、あなたはここ数年で何度耳にしただろうか。マイナンバーカードの普及を訴える政治家から。接触確認アプリCOCOAの導入を呼びかける行政から。あるいは飲食店の営業時間を守らない経営者を非難するネット上の匿名アカウントから。
一見、正論に聞こえる。罪を犯していないのなら、なぜ隠す必要があるのか。透明性は善であり、秘密は悪である——そういう単純な道徳が、この言葉の背景にはある。
しかし、この論理には奇妙な静けさがある。何かが決定的に抜け落ちている。トイレのドアを閉めることに「やましさ」は必要ない。日記に鍵をかけるのは、犯罪の計画があるからではない。それでも人は扉を閉め、鍵をかける。プライバシーとは「不正の隠蔽」ではなく、人格の自律を守る領域だ。
にもかかわらず、「やましいことがなければ大丈夫」は、監視を正当化する最終兵器として繰り返し召喚されてきた。そしてこの言葉が最も強力に展開されたのが、新型コロナウイルスのパンデミックだった。
この問いを、以下、日本の過去の偉業とコロナ禍の実例から、三度ずらしながら考えてみたい。
1. 「失敗」を摘み取る監視——田中耕一と本田宗一郎が生まれない社会
「やましいことがなければ大丈夫」という言葉が暗黙のうちに前提としているのは、監視が取り締まるのは「悪意」や「不正」だけだという想定である。だが実際には、その網が最初に摘み取るのは「逸脱」であり、その逸脱の中にこそ、しばしば偉大な創造が潜んでいる。
島津製作所の一技術者だった田中耕一は、2002年にノーベル化学賞を受賞した。質量分析法の画期的な技術を開発した功績である。しかしその発見のきっかけは、実験中の単純なミスだった。誤ってグリセリンをコバルト粉末の代わりに使ってしまった。手順からの逸脱。プロトコル違反。通常なら「失敗」として処理され、報告書にすら残らない種類の出来事である。

厳格な監視システムの下で、この「失敗」はどうなっていたか。実験手順の逸脱がリアルタイムで記録され、上司に報告されていたら、即座に中止命令が出ていただろう。そもそも「手順を間違える凡庸な技術者」は、キャリアの早い段階で評価を下げられ、研究職から外されていた可能性が高い。ノーベル賞受賞時の田中自身の言葉は「失敗のおかげ」だった。監視とは、この「失敗」を未然に防ぐ装置でもあるのだ。
同じ構造は、戦後日本の焼け跡でも起きていた。本田宗一郎は、物資統制令の下で軍用無線機の発動機を改造し、自転車に取り付ける「バタバタ」を売り出した。これは明確な違法行為だった。後に本田はこう語っている。「規則を守っていたら、ホンダは生まれなかった」。

これらの事例が示すのは、創造や革新の多くが、時の規範や手順からの「逸脱」として始まるという逆説である。監視システムは「悪意」と「逸脱」を区別しない。区別できない。アルゴリズムにとって、手順違反は手順違反でしかない。そして「逸脱」を徹底的に排除した社会で、次の田中耕一や本田宗一郎が育つ余地はあるのか。
2. 「やましさ」の定義は誰が決めるのか——坂本龍馬と石牟礼道子の場合
「やましいことがなければ大丈夫」の第二の嘘は、「やましいこと」の定義が固定的で普遍的だという前提である。しかし歴史を振り返れば、ある時点では合法で問題視されなかった行動が、政権交代や社会規範の変化によって遡及的に「やましいこと」に分類される危険は、決して空想ではない。
坂本龍馬が成し遂げた薩長同盟の仲介は、江戸幕府から見れば完全に「やましいこと」だった。彼は脱藩浪人であり、当時の敵対勢力である薩摩と長州を結びつけるという、明確な体制転覆行為に従事していた。龍馬の移動履歴と接触者リストが幕府の手に渡っていたら、寺田屋での襲撃以前に捕縛されていただろう。そして明治維新という歴史的転換点は、異なる形を取っていたか、あるいは訪れなかったかもしれない。

同じことは、権力への告発という行為にも当てはまる。石牟礼道子が水俣病患者の声を綴った『苦海浄土』は、チッソという企業と、それを擁護する通産省・熊本県という権力構造への痛烈な告発だった。彼女は患者の家に住み込み、公害隠蔽の証拠を集めた。この行為は、当時の企業と行政から見れば、完全に「やましいこと」だったはずだ。
厳格な監視社会化がなされていたら、石牟礼と患者家族との接触記録は全てチッソ側に筒抜けになり、証言収集の段階で妨害されていただろう。内部告発者——チッソの元社員で、排水データの改ざんを証言した人物など——は、監視データから特定され、事前に圧力を受けていた可能性が高い。

ここに決定的な逆説がある。歴史を変える陰謀も、権力の不正を暴く告発も、定義上、その時々の権力にとっては「やましいこと」である。そして「やましいこと」の定義権は、常に監視する側が握っている。あなたが今日「やましくない」と思っている行動も、明日の権力が「やましい」と再定義しない保証はどこにもない。
3. コロナが実演した「定義の高速書き換え」——医師・芸術家・飲食店
「やましいこと」の定義が権力によって恣意的に決められ、しかも緊急時にはその変更速度が極限まで加速する——この理論を、コロナパンデミックは2年間で圧縮実演してみせた。
当初、「やましいこと」の中心は「感染を広げる無責任な行動」だった。しかしその定義は、あっという間に拡張された。
新型コロナ対策に異を唱えた医師たちが、「やましい側」に分類された。東京大学医科学研究所に在籍していた上昌広は、PCR検査の拡大を主張し、政府の検査抑制方針を批判した。結果として厚生労働省の専門家会議から事実上排除され、メディア出演も激減した。イベルメクチンの処方を推奨した開業医たちは、医学会から「非科学的」と烙印を押され、処方権限の調査対象になった。彼らは何か犯罪を犯したわけではない。公衆衛生の専門家として、専門的見地から異論を唱えただけだ。しかし緊急時において、異論は「やましいこと」に再分類された。
ライブハウスや小劇場も同様だった。2020年春、「ライブハウスクラスター」という言葉が一人歩きし、渋谷La.mama、新宿LOFT、下北沢SHELTERといった、日本のアンダーグラウンド音楽文化を半世紀にわたって支えてきた老舗が、存続の危機に追い込まれた。若手ミュージシャンや俳優の多くが活動の場を失い、廃業した。彼らは歴史上の偉人ではない。しかし、これから生まれるはずだった寺山修司や忌野清志郎が、芽の段階で摘まれたということである。
飲食店経営者はさらに苛烈な立場に置かれた。「営業自粛要請」に従わない店はSNSで晒し上げられ、ナンバープレートで県外からの来店者を特定され、「人殺し」と呼ばれた。生き残ったのは資本力のあるチェーン店ばかりで、個人経営の居酒屋やスナック——日本の「深夜の社交」文化の担い手たち——が壊滅的打撃を受けた。

これらすべての人々は、何か「やましいこと」をしていたわけではない。医師は医学的見解を述べ、芸術家は表現の場を守り、飲食店経営者は生業を続けようとしただけだ。しかし「やましいこと」の定義が緊急時に高速で書き換えられるとき、昨日まで合法だった行為が今日「非国民」の烙印を押される。
そしてこの定義変更に対して、異議を申し立てる手段はほとんど存在しなかった。
4. 「やましくない人」が死んだ——受診抑制と超過死亡の逆説
「やましいことがなければ大丈夫」の最も残酷な嘘は、この言葉が実際に人を殺したという事実である。しかも、最も「やましくない」人々を。
コロナ禍で発せられた「不要不急の受診を控えろ」というメッセージは、がん検診受診率の激減をもたらした。症状があっても「コロナでもないのに医療リソースを使うのは申し訳ない」と遠慮する患者が続出した。病院に行くこと自体が「感染リスクを高める無責任な行動」と見なされる空気。その結果、2021年から2022年にかけて進行がんの発見が急増した。これは「早期発見できていれば助かった命」が失われたことを意味する。
先進国では、がん検診を受けなかった人たちの膨大な滞留が見られ、うつ病や不安症、自殺などの精神的な被害も甚大です。興味深いことに、多くの地域で自殺率は上昇していませんが、それでも自殺傾向、うつ病、その他すべての症状がかなり上昇しています。
— 並行図書館 / Parallel Library | Alzhacker (@Alzhacker) October 16, 2021
ここには、監視社会化の本質に関わる倒錯がある。これらの患者たちは、誰に迷惑をかけたわけでもない。規則を破ったわけでもない。むしろ「自粛」という社会的要請に過剰に従った人々である。それにもかかわらず、彼らは死んだ。「やましいことがなければ大丈夫」どころか、「やましくない」ことそのものが死因になったのだ。
日本の超過死亡数が統計予測を一貫して上回った2021年から2023年の数字は、この沈黙の犠牲者たちの存在を物語っている。彼らはニュースにならない。誰も抗議デモを開かない。なぜなら、彼らは「自粛」という監視の内面化によって、声を上げる前に静かに診療所から遠ざかっていったからだ。
これは監視のもう一つの顔を照らし出す。監視は「悪人」を取り締まるだけではない。監視の内面化は、「善人」が自らの生存に必要な行動すら抑制させる。そしてその結果生じる害は、統計上の超過死亡という無機質な数字にしか現れず、誰の責任も問われない。
5. 二重の非対称性——監視する側はなぜガラス張りにならないのか
ここまで見てきた問題の根底には、監視する側と監視される側のあいだに横たわる、二重の非対称性がある。この非対称性こそが、「やましいことがなければ大丈夫」というレトリックの本当の危険を理解する鍵になる。
第一の非対称性:構造的非対称性
「やましいことがなければ大丈夫」という言葉は、監視する側にも同じ基準を適用するだろうか。
政府の政策決定プロセスは、完全に透明化されているか。官僚たちの意思決定に関わったメールのやり取り、省内の非公式な根回し、審議会の議事録に残らない「本音」の部分——これらは「やましいことがなければ見せられるはず」ではないのか。しかし実際には、行政の透明性は極めて限定的である。情報公開請求をすれば、大量の墨塗りと「不存在」の回答が返ってくる。

森友学園問題での財務省の公文書改ざん、加計学園問題での「総理のご意向」と記された文書の不存在主張——「やましいことがなければ大丈夫」の論理で言えば、これらはすべて「やましいことがある」ことの証左ではないのか。
にもかかわらず、監視する側は自らの不透明さを「国家安全保障」「行政運営上の支障」といった論理で正当化し、決してガラス張りにならない。ここに第一の非対称性がある。監視される側には「完全な透明性」を要求しながら、監視する側は「必要な秘密」を主張する。この非対称性そのものが、権力構造の核心である。
コロナ禍でこの非対称性は極限まで露わになった。国民には「接触履歴の開示」「行動記録の追跡」「ワクチン接種証明の提示」が求められた。しかし、ワクチン購入契約の詳細は「企業との守秘義務」を理由に黒塗りにされ、専門家会議の議事録は簡潔な要約のみが公開され、実質的な議論の過程は隠された。監視する側は、自らには「やましいことがなければ大丈夫」を適用しないのである。
第二の非対称性:立証責任の逆転
さらに根深いのは、第二の非対称性——立証責任の所在をめぐる論理のすり替え——である。
「やましいことがなければ大丈夫」は、監視される側に「やましくないことの証明」を要求する。しかし本来、ある行為や制度の正当性を立証する責任は、その行為や制度を導入しようとする側にあるはずだ。監視システムを導入するのであれば、導入する側が「その監視が必要かつ安全で、濫用されない」ことを立証すべきである。ところが「やましいことがなければ大丈夫」は、この立証責任を百八十度ひっくり返す。「監視に反対するなら、お前がやましくないことを証明しろ」——これがこのレトリックの本当の構造だ。
コロナ禍のワクチンをめぐる議論は、この立証責任の逆転を教科書通りに演出した。ワクチンの安全性に懐疑を示す者に対して、「お前が危険性を立証しろ」という要求が浴びせられた。しかし本来、医薬品の安全性を立証する責任は、それを製造し販売する企業と、それを承認する規制当局にあるはずである。懐疑する側ではなく、提供する側が安全性を証明する——これは医療倫理の基本原則ではないか。
ところがパンデミック下では、この原則が完全に逆転した。「ワクチンが危険だという証拠を出せ」「お前の懐疑は非科学的だ」——懐疑する側に立証責任を負わせ、提供する側は「専門家が安全と言っている」という権威への参照(循環論法)だけで自らの立証責任を免れた。これとまったく同じ構造が、「やましいことがなければ大丈夫」という監視正当化の論理にも働いている。監視される側に「やましくないことの証明」を課し、監視する側は「我々は信頼できる」という自己言及的な正当化だけで、自らの権力行使の正当性証明を回避する。
この二重の非対称性——透明性の非対称性と立証責任の非対称性——は、同一の権力構造の表裏である。監視する側は自らを不可視化し、かつ自らの正当性証明を免れながら、監視される側には可視化と証明を無限に要求する。そしてこの非対称な構造そのものが、「やましいことがなければ大丈夫」という一見もっともらしい言葉によって覆い隠されている。
賭けてもいいですが、このような種類の検死は、現在死亡している人々には行われていません。そのため、私たちは知ることができません。スパイク・プロテインが検死で確認できるかどうかはわかりません。しかし、彼らにとっては、もし作業が行われなければ、証拠は消えてしまうのです。
— 並行図書館 / Parallel Library | Alzhacker (@Alzhacker) June 22, 2021
結びにかえて——「無実の証明」を強いられる社会の先にあるもの
「やましいことがなければ大丈夫」の究極の嘘は、この言葉が暗に要求していることの不可能性にある。
完全な監視下で「あなたにはやましいことが一切ない」と証明するには、自分の全行動・全思考を開示し続けるしかない。しかしそれは現実的に不可能である。そして「データにない=やっていない」ではなく、「データにない=隠蔽した」と解釈される危険が常につきまとう。不在証明の悪魔の証明を個人に課す構造そのものが、人間の自由と両立しない。
日本には、この危険を先取りする歴史がある。痴漢冤罪で逮捕された場合、無実を証明するために自分の全行動を説明しなければならないという倒錯。監視カメラにたまたま映っていなければ「証明できない」とされる刑事司法の現実。人権派弁護士たちが長年指摘してきたように、日本の司法は「無罪の推定」ではなく「嫌疑の推定」で動く傾向がある。

監視社会化が進めば、この「嫌疑の推定」が社会の隅々まで拡張される。そして人々は「証明できない無実」の重荷に押しつぶされ、次第に「嫌疑を招かないこと」だけを考えて行動するようになる。
それは、田中耕一の実験ミスも、坂本龍馬の陰謀も、石牟礼道子の告発も、本田宗一郎の違法な試作も、寺山修司の挑発的な舞台も、コロナ対策への専門的異論も——すべてが「嫌疑」として事前に摘み取られる社会である。
プライバシーとは、悪事を働くための隠れ蓑ではない。個人が自分自身でいられる空間を、社会として保障する仕組みである。そしてその空間が消えたとき、失われるのは犯罪者ではなく、未来のノーベル賞受賞者であり、革命家であり、告発者であり、表現者である。
「やましいことがなければ大丈夫」と口にするとき、その言葉は誰の、何のための監視を正当化しているのか。問うべきは、監視される側の「やましさ」ではなく、監視する側の「信頼に足る理由」の方ではないのか。
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