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愛犬家くのいちは、黒柴殿を殺せない

作者: mythic shift
掲載日:2026/04/07

犬好きのくのいちと、うつけものと呼ばれた殿のお話。

 すっ、すっ、すっ――。

 城の外縁の板を滑るように、黒い影が進む。

 長い髪を束ね、黒装束に身を包んだその姿は細く、しなやかだった。腰帯には、赤い花飾りの簪が刺さっている。

 月明かりだけが唯一、覆われていない凛とした顔を照らした。


 顔色ひとつ変えず、相手の血ひとつ流さず任務を遂行する――。

 忍仲間から「無血の椿」と呼ばれるその少女は、ただただ、任務とは別のことを考えていた。


 椿はふっと息を吐く。白い息が冬の闇に消えていった。

(早く帰って(あか)をもふもふしたい)

 月を見つめ、椿は里に置いてきた柴犬に思いを馳せた。


 ◇


 数日前、椿が伊賀の里で告げられた任務。

「伊賀の藩主代理・桜見(おうみ)春継を殺せ」

(春継……、あの)

 無能の若君。伊賀一のうつけ者。

 昼は庶民に紛れて遊び歩き、夜は酒に興じる。

 誉めそやされているのは、その美貌だけだ。

(狙う価値はない。いつか勝手にくたばるのに)

「明朝、出立だ」

「……承知しました」

 

 ◇


 こうして今夜、椿は伊賀上野城に参上していた。

 外縁を進み角を曲がると、奥に御殿が見えた。

 冬咲きの椿の花が、広い庭を赤く点々と染めている。

 その庭に面した一角――奥御殿の寝所こそ、藩主代理・春継の居室だ。

 

(さっさと片づけて、褒美で朱に新しい骨を買おう)

 椿は奥座敷の障子に近づいた。ぼんやりとした部屋の灯りに、横たわる影が浮かび上がっている。

 そっと障子に耳をあてる。物音は無い。


 椿は障子をわずかに引いて、中の様子を伺った。

 隙間風が、枕元の灯りを揺らす。

 伏せた春継の胸のあたりが、すうすうという寝息とともにゆっくり上下している。

(大丈夫、寝てる)

 椿はそろりと座敷へ足を踏み入れた。

 

 褥に近づくたび、甘い香りが微かに漂ってくる。

(白檀の香り? 殿が好きだという香りに間違いない)

 

 椿は枕元に座り、春継の顔を覗き込んだ。懐から瓦版の切れ端を取り出し、見比べる。

 そこに描かれた春継の似姿は、今まさに椿の前にいる男そのものだった。

 

 意志の強そうな眉に、涼しげな目元。

 すっと伸びた鼻筋に、つややかな唇。


(へぇ。似姿って、だいぶ美化されてるものだと思ってた。里の皆が騒ぐのも無理ない)

 

 思わず椿は見入ってしまった。

 はっと我に返り、一瞬でも任務を忘れそうになった自分をいさめる。

(何してるの、私)

 ぐっと唇を噛み、瓦版をしまうと同時に、腰帯の簪に手を触れた。


 そのとき、春継がごろりと寝返りをうち、椿の方へ顔を向けた。

 黒髪の内側に、陽の光を受けたような栗色の髪が混じっているのに気づく。

(……まるで、黒柴の毛並みみたい)

 

 ふと、椿の脳裏に、幼い頃よく遊んだ犬の姿がよみがえる。

(あの黒柴可愛かったな……。今はどうしているのだろう)

 ある年の春、里に紛れ込んできた黒柴。

 朱と出会う少し前まで、椿のよき訓練相手だった子犬。

(私を見つけると、駆け寄って鼻を擦り付けてきたっけ。そう、こんな風に――)

 

「え?」

 椿の手の甲に何かあたたかいものが触れた。――春継の鼻先だ。

(やだ、私ってば、無意識に!?)

 慌てて引っ込めようとするが、春継の鼻先がさらに、すりすりと椿の手をくすぐった。

 自分のにおいを付ける子犬のようなしぐさ。

 次の瞬間、春継の口が開いた。

「撫でてくれぬのか? ずっと待っておったぞ」

「……っ!?」

 椿は頬が熱くなるのを感じた。混乱した頭で、春継をじっと見つめる。

 瞼は固く閉じられたまま、春継は薄く笑みを浮かべている。


(寝ぼけてる……)

 すっと息を吸うと、椿は簪を抜いた。鋭い先端がきらりと光る。

(一息にいかないと、苦しむだけ)

 

 振り上げようとしたその瞬間――春継が目を開けた。

 春継の焦茶色の瞳とぶつかる。獣のような鋭い光が宿っていた。椿の心臓がどくんと跳ねる。

 

 椿を見つめていた目が、手元の簪へと移った。

 春継はふっと微笑み、上半身だけ起き上がる。

「おや」

 くしゃりと顔を崩して笑う様子は、子犬のように無邪気だ。

 他の標的と同じように命乞いするでもなく、泣き叫ぶでもなく、ただ椿を眺めていた。

(噂と違う……! ほんとうに、殿はうつけ者?)

 

 ぞくりと悪寒が走る椿をよそに、春継はぐいと自分の襟元を引っ張った。

 寝衣がはだけ、筋肉質な首筋があらわになる。

 一瞬の間に、椿は簪を持つ手を掴まれ、春継に引き寄せられていた。


「のう、首が欲しいんじゃろう?」

 春継の右首筋に簪の針先が当たる。

 胸元から香る白檀と色気が鼻腔を支配する。椿はくらりとした。

(手が、動かない。だめ、これ以上近づいては――)

 

「……さあ、好きなように」

 春継が頭を傾け、椿の耳元でささやいた。

 脈が速くなる。血管が破裂しそうな勢いだ。

 椿はすがるように簪を握りしめる。

(ああ……)

 

 ――ぷしゅっ!


 そのとき、血が座敷の畳に、春継の白い寝衣に、散った。

 点々と、庭の椿の花が一斉に落ちたかのように。

「あ……」

 春継が目を見開いた。

 どくどくと血が流れる。春継の首筋ではなく――椿の鼻の奥から。

 

「ふふ、可愛い顔が台無しじゃ」

 椿の手を離すと、春継は寝衣の袖で椿の顔をぬぐった。

「……っ!」

(恥ずかしい! ……どうして、こんなことに)

 椿は春継から顔をそむけた。

(あれほど鍛えてきたはずなのに、取り乱すなんて……!)

 鼻を押さえすっと立ち上がると、後ろに飛びのく。

 襖を開け、そのまま庭へと駆け出した。

 

 外縁を飛び立った時――椿のつま先が何かを蹴り上げた。

 だが、椿はそれに気づくことなく、庭を走り去っていった。

 

 春継は立ち上がると、寝衣を正して庭へと出ていく。

 庭に転がる黒装束の男を見つけると、ふっと笑った。

「おや、ここに甲賀の忍が」

 

 春継は、ぴっと口笛を吹いた。

 庭の影から足音がし、老いた黒柴が現れる。

 落ちていた椿の花を咥え、嬉しそうに駆け寄ってくる。

 何か特別なものを見つけたかのように、尻尾を振って。


「やはり、椿か。香りも、気配も、昔と変わらぬ」


 春継はその頭を撫でながら、その犬が落とした椿を拾い上げて言った。

 

「吠えなんだ犬も、血を吹いた娘も。……どうにも愉快じゃ」

 春継は隠しきれない笑みを浮かべると、手の中の椿を軽く弾いた。

 花びらがふわりと舞い、闇に赤い軌跡を描いて落ちていった。


 ◇


 暗殺未遂から一夜。椿は忍の里と城の境界にある森の中の、古びた空き家に身を潜めていた。

 身を潜める――正確には、恥ずかしさに顔が燃えて床でごろごろしているだけだ。

 まだ、鼻の奥が少し熱い。

(あんな失態、初めて……!)

 

 ふと椿の懐から、一枚の紙が落ちる。春継の似姿が描かれた切れ端。

 春継と目が合った、気がした。目を逸らしても、瞑ってみても、瞼の裏にあの焦茶色が残っている。

 

 ごつんっ!

 

 椿は自分から柱に頭を打ちつける。

「冷静になるのよ、椿……!」

 椿は息を整えると、床の紙を拾い、じっと見つめた。

(なぜ、あそこで手が止まった?)

 

 昨夜の春継の姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。子犬のような無邪気な笑顔、甘える仕草――。

(殿のことを可愛いと思ってしまった。それに、どこかあの瞳を知っている気がする)

 

 あのとき、春継の瞳が鋭く光った次の瞬間には、引き締まった体に捕えられていた。

 油断し過ぎていたのかもしれない。春継の俊敏な動きは、忍にも劣らぬ訓練された者のそれだった。


 しかし、そんな言い訳は通用しない。

 里の長の冷徹な表情を思い出し、背筋がひやりとした。

「次こそ、必ず殺す」

 椿は切れ端を再び懐にしまい、立ち上がった。


 ◇

 

 その日の朝、城内の端にある川辺に、女中たちが集まっていた。皆木綿の着物を襷掛けしている。

 水を張った桶の脇には、上質な木綿の肌着や、麻の布切れなどがうず高く積み上がっていた。

 

 腰に手ぬぐいを下げた貫禄のある女中の声が響く。

「お菊! まずはこっちを手伝ってもらおうかね」

「はい! ただいま」

 お菊と呼ばれたそばかすの女は、洗濯場を仕切るお局に向かって愛想良く返事をした。お菊は椿の仮の姿だ。

 他の女中に並んで座り、桶の中の布を手際よくもんでいく。

「あんた、新人なのに手慣れてるねぇ」

 お局が声をかけた時、甲高い声が空気を切り裂いた。

 

「きゃーーっ!」

 

「何ごと?」

 悲鳴を上げた女中の周りに、人だかりができる。

「こ、これ……、血の跡!」

 女はふるふると震え、青白い顔で寝衣を指さした。

 ふわりと甘い香りが漂う白い寝衣。その袖と胸元には、赤黒い染みがついている。

 昨夜のものだろうか、まだ湿り気を帯びているような――。

 

 他の女中たちも顔面蒼白だ。椿は眉ひとつ動かさずその様子を見ていたが、その寝衣に気がつくと、誰よりも顔を青くした。心の中で叫ぶ。

(……あれは、もしかして昨夜の私の鼻血!? 人殺しの跡だと思われてる!?)


「誰の寝衣?」

「さ、さあ……」

 女中たちがざわめく中、お局が落ちている寝衣を手にした。くん、と鼻を寄せる。

「白檀の香りがする……。ああ、殿の寝衣だよ」

「ほんとだ! ほら、まろ様の毛もついてるし」

 ひとりの女中が、衣に付いた犬の毛を取って見せた。

「じゃあ、殿は今頃……」

 皆がお局を見つめ、息をつめる。お局は大きくため息をついたあと、答えた。

「朝から元気に、まろ殿と散歩に出かけたのを見たよ。……ったく、殿の寝衣に血が付いてるのはこれで何度目だい」

 その言葉に、安堵のため息があちこちから漏れる。

「そ、そうよね……。あの殿がみすみす殺られるわけないわ。番犬まろ様もいるんだもの」

「それなら、この血は? 殿が誰かを斬ったの?」

「きっとまた女に殴られたのよ」

「ついひと月前、殿を巡る騒動があったじゃない」

「あの時は、まろ様も乱入して大騒ぎだったって……」

「顔がいいのも、罪ねぇ〜」

 

 女中たちの会話をよそに、お菊はうつむき、震えていた。

(あの布を、跡形もなく消したい……!)

 

「物騒な話をして、お菊が怯えてるじゃないか。ほら、仕事に戻るよ!」

 お局は、大きくぱんと手を叩くと、女中たちを促した。皆持ち場に散っていく。

(怯えてなんか……! 恥ずかしくて死にそうなだけ!)


 椿はすっとお局に近づき、手を差し出して言った。

「それ、私が洗います」

「血が、怖いんじゃないのかい?」

「大丈夫ですっ!」

 ひったくるように奪うと、椿は桶の中で衣がちぎれんばかりに勢いよくこすった。


 ◇


 その日の夜。お菊――もとい椿は、屋敷の廊下掃除を命じられていた。

 朝の洗濯で、春継の寝衣をぼろ布に変えてしまった罰として。

 

 昨夜忍んで渡った外縁を、今宵は女中として磨いていく。

 床に膝をつきながら、少しずつ殿の寝所のある奥御殿に近づいた。


(女中たちによると、寝所には番犬がいるという話だった。昨夜は会えなかったけれど)

 警戒心が強く、殿以外には懐かない老犬・まろ。

 非常に賢く、殿が幼い頃から幾度となく危機を救ったという。


 犬の有能さは、里で訓練していた椿自身が一番良く分かっていた。

 下手に動いたら、捕まってしまうだろう。でも――。

(もしも、まろを仲間にできたら、この任務は成功するのでは? いいえ、そんなことより、一目見たい! あわよくば触りたいっ!)

 椿はまろの姿を想像して、顔を崩した。

(黒柴って言ってたな。犬と主人は似るのかしら?)

 

 そんなことを考えていた時、椿はふと、何かの気配を感じた。

 ――忍の勘ではなく、獣のような、甘く濃密な白檀の香りを。

 前方の襖が開き、春継が姿を現す。

 ふらふらと足取りがおぼつかない。

 

 赤い羽織りに、花の文様が刺繍された袴。

 華やかな装束を翻し、上機嫌で歌を詠んでいる。

(酔ってる?)

 

 椿は気配を消しながら様子をうかがった。

 寝所へ向かう春継を、一定の距離を保ち、雑巾がけをしながら後を追う。

(今こそ、絶好の機会だ)

 椿の胸が高鳴った。髪に刺した簪に、手を伸ばす。

 

 そのとき、椿の目の端で、別の何かが動くのが見えた。

 春継のすぐ後ろの柱の陰に、黒装束の男が立っている。春継を見ていた。

 その男が腰の刀を抜いたその時――胸がざわついた。

 首を差し出す仕草をした、昨夜の春継の笑みが頭に浮かぶ。

(……嫌。殿を殺すのは、私よ)

 

 椿はとっさに、男に忍び寄った。

 背後から男の口を雑巾で覆うと、こめかみを簪の後ろで打ち据えた。赤い花飾りが揺れる。

 男は気絶し、膝から崩れ落ちた。

(体が……、勝手に)

 

 椿は平静さを取り戻そうと、男が持っていた刀を取った。しかし、心臓は一向に鎮まらなかった。

(許せない……!)

 手がわなわなと震える。

 だが、その震えが獲物を横取りされそうになった怒りなのか、春継へ刃が向けられたことへの苛立ちなのか――あるいは、己の甘さへの悔しさなのか、椿はわからなかった。


 椿は刀を鞘に戻し、自分の背中の帯に刺した。仕留めた忍を物陰に隠したとき――。

 

 春継がゆらりと振り返った。

 胸元がゆるくはだけ、顔に薄く紅が差している。

 女中姿の椿を目にとめた瞬間、春継の焦茶色の瞳がわずかに見開かれた。

 

 春継の口の端がゆるむ。その笑みは、遊び相手を見つけた子犬のそれに近かった。

「なんじゃ?」

 春継の視線が椿の顔をかすめ、一瞬だけ手元を鋭く射抜く。

 

(ほとんど音を立ててないはずなのに、気づくなんて)

「……夜風が草木を揺らしたのでしょう」

 椿は冷静に答えた。

 

「ほう……、椿の花が落ちたのかと思うたよ」

 春継が笑みを浮かべたまま、椿のもとに近づいてくる。酒と白檀の混じった香りに、眩暈がした。

(酔ってしまいそう)

 

 春継が何かに気づいた様子で、椿の顔に手を伸ばした。心臓が大きく跳ねる。

「……っ!?」

 熱を帯びた春継の指先が椿の額に触れ、乱れた髪をすくう。

 手にしていた簪を春継に取られ、黒髪に差し入れられたとき、椿は息苦しくなるのを感じた。

(まただ。殿に触れられると、どうして)

 

 春継は椿を見つめると、満足そうに微笑む。

「おぬしは赤が似合う、椿()のような赤が」

(私の正体に、気がついている?)

 

 椿は焦りを悟られないよう、微笑んだ。

「もったいないお言葉です。ですが、殿。むやみに簪に触れてはなりません。簪は女の命なのです」

「ふむ……。女の命とな」

 春継は少し考えるような顔をしたあと、椿の顔を覗き込んだ。

 焦茶色の瞳に射貫くように見つめられ、椿は動けなくなる。

 

「ならば、触れることを許される時を待つのも、また一興よ」

(また、あの目だ……! 愉しんでる)

 椿はかっと顔に血が上るのを感じた。春継は名残惜しそうにふと笑みを緩めると、踵を返した。

 そのまま春継は寝所へと歩いていく。酒と白檀の香りだけを残して。

 

(殺り損ねた)

 ひとり残された椿は、ぐっと手を握りしめた。

 勝手に飛び跳ねた心は、もとの場所に収まってくれない。

 

 ふと、里のくのいちが言っていた言葉を思い出す。

「忍の恋と任務は、危険なほど心が躍る」と。

(……危険な任務って、こういう感じ? 殺そうと近づくたびに、胸が騒ぐ)

 

 椿ははっとして、頭を振った。

(いいえ、これは恋のはずがない。だって私は――殿を殺しに来たのだから)

「殿を生かすも殺すも、私の役目よ」

 椿のつぶやきが、闇に溶けていった。


 ◇

 

 伊賀上野城お抱えの庭師の娘、小梅は甲高く特徴的な声の持ち主だった。

 今日はその名も姿も、伊賀のくのいち・椿が借りている。

 

 小梅は門番の前まで来ると、深く被った笠を指で軽く持ち上げ、門番に笑いかけた。甲高い小梅の声が響く。

「庭師の娘、小梅にございます! お庭の手入れに参りました」

「おお……、小梅か? 今日はいつもより早いな」

「しばらく雪で伺えなかったので。今日、殿はお庭にお出ましですか?」

「いや、まろ様と散歩に出かけたよ。いつもの、春千代様のところだろう」

(春千代様……。殿の甥で、本来の藩主だ)

「そうなんですね。では、先に奥御殿からお掃除させていただきます」

「おう、頼んだぞ」

 小梅は門番に軽く一礼すると、城内へと入っていった。

 

 ◇

 

 城内の庭も、一面銀世界だった。

 だが、奥御殿の庭だけは違った。その庭にだけ咲いている椿の花が、ぽつぽつと落ち始めていたのだ。雪に赤が滲んでいる。

 誰も足を踏み入れていない雪の上をそっと踏みしめると、音が吸い込まれていく。

 まるで、この庭だけが別の世界のようだった。

 椿は籠を背負うと、落椿をひとつひとつ拾い入れていった。

 

(毒を仕込まなければ)

 籠の半分ほど花を拾い集めた後、椿は半纏の内側の小袋から、小瓶を取り出した。

 附子の根を乾かし、砕き、水で練った「忍び薬」。

 無色無臭で、触れば痺れを呼び、口に入れば命を落とす。椿の簪の先に隠した、毒針と同じものだ。

 春継が触れそうなところに塗っておき、弱ったところを打つのが椿の計画だった。

 

(任務なのに、どうして……。殿が苦しむところを想像すると、胸が痛くなる)

 重い足を引きずって、春継の寝所に向かう。

 しんとした空気が、椿を包んだ。そのとき――。

 

「わん!」

 背後から犬の声が聞こえた。

 椿はとっさに小瓶を隠し、声の方へと振り向いた。

 黒柴が走ってくる。ぶんぶんと揺れる尻尾が愛おしい。

 椿は一目見て、その黒柴に心を奪われた。顔がほころぶ。

「おいで」

 椿がしゃがみ、手を広げると、黒柴はくぅんと鳴いて鼻先を擦り付けた。

(もしかして、殿の犬?)

 走り方は軽いが、ときどき足運びに年の影が見えた。鼻から漏れる温かい息も、どこかゆったりしている。

(この茶色の瞳……。昔、里にいたあの黒柴と同じ色だ。名前も付けられないまま、別れたあの子。もし、あの子が生きていたら、こんな感じかな)


 椿は目の前の黒い老犬と戯れながら、昔の記憶をたどっていた。

 母が恋しい夜に寄り添ってくれた――幼き日の子犬の姿に重なる。


(このまろ眉。尻尾の振り方。もしかして、この子が……)

 ふと、黒柴の耳がぴんと立ち上がる。椿は何者かが近づく気配を感じた。

(私としたことが、背後を取られるなんて……!)

 振り返るよりも早く、椿の頭上に声が落ちてくる。

「まろ、一人で先に行くな」

 春継が穏やかな笑みを浮かべていた。

 椿は黒柴から離れて、すぐに立ち上がると、甲高い小梅の声で言った。

「どうかお許しくださいませ、お殿様! すぐに掃除を終わらせます」

「よいよい。こやつが邪魔をしたのだろうよ」

「わん!」

 同意するようにまろが吠える。春継は腰を落とし、まろを優しくなでた。

 ふたりの様子に、椿は忘れていた記憶が呼び起こされる感覚がした。

(この光景……見おぼえがある)

 椿がじっと見ていると、春継が顔を覗き込むように見つめ返した。


「気難しい気質ゆえ、わし以外には懐かなんだが……。おぬしのことを気に入ったようじゃ」

「とんでもないことにございます!」

 椿は笠に隠れるように深々とお辞儀をしながら、半纏の内側に手を差し入れた。

 

(余計なことを考えるな、椿。今、ここで打つ)

 椿の指が簪に触れ、毒針を繰り出す。

「恐れ入りますが、これにて失礼いたします」

 顔を上げようとしたそのとき――。

 

「くうん」

 春継に甘えるようなまろの鳴き声が、椿の耳に響いた。

(もしも殿が目の前で殺されたら、この子はどうなる?)

 出会ったころ、おぼつかない足取りで歩いていた子犬の姿がよみがえる。椿の手が止まった。

 

(せわ)しないのう。……もう少し遊んでやればよい、『無血の椿』よ」

(なぜその名を……? 里の者しか知らないはずなのに)

 椿は、ぎり、と歯を食いしばった。

(ここで殺らなきゃ)

 椿は顔をゆっくりと上げた。

 笠の下から見える口元に、薄く笑みが浮かぶ。

「では、少しだけ――」

 簪を取り出し、春継に襲い掛かろうとしたそのとき。

 

 ――ひゅっ、と空気が切り裂かれた。

 春継が目に見えぬ速さで、胸元の扇子を取り出した。

 椿の毒針が扇子に阻まれる。かつ、と金属の音が小さく響いた。

(鉄扇……!)

 

「くっ……!」

 その扇子は思ったより重く、椿はじりと後退った。

 ふたたび飛びかかろうと構えたとき、ふいに椿の首筋がひやりと冷たくなるのを感じた。

 

 春継の扇子が首に突きつけられている。

 椿の簪を持つ手首は、春継のもう片方の手に制されていた。

 

「おぬしは、わしを殺せぬよ」

 春継は目を細めて笑う。だが、声はどこか切実な響きを含んでいた。

 

「……! だけど何度でも、この首を狙う」

「ほう……。では、春までじゃ、椿よ」

 

(この男……、正気?)

 椿は混乱した。暗殺対象から期限の提案をされるなんて、普通では考えられないことだ。

 

(私がなかなか殺せないのを、馬鹿にしてる? それとも、遊ばれてる?)

 椿は掴まれていた手を乱暴に振りほどき、低い声で言った。

「……どういうつもり?」

「これは命を賭けた遊戯じゃ。決め事があるほうが面白いじゃろう?」

「ふざけないで……!」

「まあまあ、最後まで聞いてから考えても悪くないと思うがの」

 春継は椿の声を遮り、ひとつ指を折りながら言った。

「一つ目、必ず一人で討ちに来ること。その代わり、わしも一人で受けて立とう。殿ではなく、春継として。……ああ、まろだけは、どちらについてもよいぞ」

「わん!」

「……一騎打ちだなんて、ずいぶん律儀なこと」

 椿が冷たく言い放つも、春継は笑みを浮かべたまま続けた。

 別の意図があるようなその笑みに、椿は釈然としなかった。

 

「二つ目、期限はこの庭の椿がすべて落ちるまでとする。春まで、好きに狙うがよい。おぬしを捕えたりはしない」

 椿は考えを巡らせた。

 定期的に商人の出入りのある城内、春継の出席する公式行事、まろの散歩……。変装の手札もまだ、尽きていない。

(ひと月あれば、何度か機会はある)

 

「三つ目、椿が落ちたら――わしの番じゃ。どんな手を使ってでも、おぬしを追い、捕える」

「……っ!」

「そのときは、これまでを捨て、名も、命も、心も。すべてを、わしに預けよ」

 春継は椿の首筋に、扇子をなぞるように滑らせ、とん、と胸を突く。

 椿はその感触に、恐怖とも期待ともつかない昂りを感じた。


「春までは私が攻める番、春からはあなたが攻める番ということね」

「そうじゃ。なあに、おぬしは春までにわしを殺せばよいだけのこと」

 飄々と言ってのける春継に、椿はわずかに怒りを覚えた。

(殿は何を考えている?)

 春継の不敵な笑みからは、何も読み取れなかった。

(どのみち、春までに任務を終えられなかったら、里へは帰れない。それに、他に選択肢もない――)

 

「わかった。その条件、のむわ」

 椿の返事に、春継は満足そうな笑みを浮かべる。扇子を椿の体から離すと、手のひらをぽんと叩いた。

「これで決まりじゃ。よいの、これはおぬしとわしの遊戯。他の者を交えてはならぬぞ」

 

 春継は扇子を再び開くと、足元に落ちていた落椿をそっと掬った。

「早く散るか、春先まで生き延びるか。勝負の結果は、この花次第よ」

 春継の焦茶色の瞳が、扇の上の花を愛でるように見つめた。

 

「血のように赤く、しかしまことに優美な――」

 春継の顔がゆっくりと椿の顔に近づいてくる。

「椿は、わしが一番好きな花なのじゃ」

 椿が背負っている籠へと手を伸ばし、そっと赤い花を落とした。

 

 冷たい空気が肌を刺すなか、春継の甘い香りが鼻をくすぐる。

 その落差に、息が詰まった。

「~~~っ!」

 椿は慌てて顔を手で覆うと、くるりと踵を返して駆け出した。

 

(花が散るまで――それまでに殺す)

 椿は走りながら、簪をぐっと握りしめる。

(それができなければ、私が殺される。……それだけのこと。これは任務。恋じゃない)


 ◇


 春継は雪の上に点々と残るかすかな足跡を見つめた。

 一滴だけ、鼻の奥からこぼれたような赤が滲んでいる。

「春まで、楽しみよのう」

 まろが尻尾を振る。春継は笑みを浮かべ、赤く染まった椿の顔を思い出していた。


 ◇


 冬の間、椿は何度も春継の命を狙った。

 ある時は、春継が鬼役で参加した城下町の豆まきで、町娘に扮した。

(殿が私の歳の数、豆をくれた。……鬼なのに)

 

 またある時は、幕府に向かう道中の宿の女将を装った。

(星が雨のように降り注ぐ夜に、二人で息をのんだ)

 

 春継は「椿の匂いがするのう」と言って、ことごとく椿を見つけ出した。

 椿の毒針も、罠も、あの鉄扇で軽く受け流されてしまった。


(呉服屋の若旦那に変装したときは、大騒ぎになったこともあった)

 新しく仕立てた着物を春継に着せているとき、番頭が二人を襲ったのだ。

 若旦那姿の椿が番頭を制したが、乱れた衣服で床に転がる男の姿を女中たちに見られていた。

 春継がついに男にも手を出したと、噂に尾ひれ背びれがついて回った。

(あの番頭は、刺客だったのに)

 憤る椿に、春継は笑ってこう言った。

「皆の目にうつる春継は、まこと愉快な男じゃ」

 

(殿は無能なんかじゃない。私は、本当の姿を知っている)

 椿はなぜか、それだけは忘れてはいけないことのように思えた。

 

 ◇

 

 草木が芽吹き始めるころ――春継の甥・春千代が元服を迎えることとなった。

 元服式は城下の神社で執り行われた。

 

 椿は化粧に白装束で髪を結いあげ、巫女姿で潜伏していた。

(城の庭の椿は残り一輪。きっと今日が最後の機会だ)


 神社に桜見家の遠縁や家臣たちが集まってくる。

 椿はその中に潜む刺客を、密かに、しかし着実に制していた。

(邪魔者が多すぎる……! こんなに殿の命を狙う者が多いなんて)


 拝殿で宮司が祝詞を奏上する間も、春千代が武家装束を纏いお披露目をする間も、椿は気が気でなかった。春継を制するための簪で、甲賀の忍を討っていく。

(他の者に殿を殺されたくないだけ。私だけが殿を――)

 

 やがて、元服式の最も重要な儀式である、加冠の儀が執り行われた。

 藩主代理を務める春継が、直垂姿で春千代前に歩み寄る。桜見家の血を引く者は、今や二人だけだった。


(……少し、疲れてる? 最後の力を振り絞るような)

 春継の穏やかなまなざしに、わずかに影が落ちている。いつもは軽い足取りも、一足一足踏みしめるようだった。

 春千代の前に立つと、春継は膝をついた。烏帽子を掲げ持ち、そっと春千代の頭上に乗せる。

 その横顔は、うつけと呼ばれる殿ではなく、甥の未来に賭けた一人の武士だった。

 春千代は恭しく一礼し、よく通る声で名乗った。

「本日より、春景(はるかげ)と名乗らせていただきます」

 その声に、その場の皆が伏した。

 

 儀式の後、参列者に祝杯が振舞われ、巫女舞が披露された。

 椿は舞いながら、春継の顔を盗み見る。どこか安堵した様子で、春千代の隣に座っていた。時折笑い合いながら、春千代と酒を酌み交わしている。

(……殿が守りたかったものはこれだったんだ。私の任務は終えられなかったけど、これでよかったんだ)

 椿は知ってか知らずか、春継を見守るように微笑んでいた。

 

 こうして藩主・春景――幼名・春千代の元服式は、つつがなく幕を閉じた。


 ◇


 その日の夜。

 奥御殿の庭の最後の椿の花が、まだ残っていた。

 春継は酒を片手に、寝衣のまま外縁に座り、穏やかに月を眺めている。


 ――ぴゅう。


 暖かい風が春継の頬を撫で、黒装束の椿が姿を現した。

「おぬしの舞、見事だったぞ」

 春継は椿の姿を見つけると、心から嬉しそうに笑った。

「椿よ、わしはこの日のために生きてきた気がしての」

 ぐいと酒をあおり、月を眺めながら独り言のように続ける。

「春千代が元服を迎え、わしの務めもひとまず果たした。……そう思うと、不思議と心が軽いのじゃ」

 春継はゆっくりと息を吐いた。その顔は、殿ではなく一人の青年の顔だった。

「おぬしも隣にいる。――今宵殺されても、悔いはない」

 

 その言葉を聞いたとき、椿の腹の奥底がふつふつと煮えたぎるように熱くなった。

 簡単に命を差し出そうとする春継も、それを狙えない自分も、すべてが許せなかった。

 

 椿は春継を睨み、低い声で言った。

「本当に……、そう思っているの?」

「ああ、思ってる。それに――」

 椿が帯に刺した簪を手に取るのを見ると、春継は微笑んだ。

「おぬしに依頼したのは、わしじゃからの」

「……え?」

 椿は言葉の意味を理解できず、驚いた顔で突っ立っていた。

「どういうこと?」

「わしが命を狙われていることは知っておった。だが、確かな証拠がなく、犯人を排除できなかったのじゃ。まあ、前におぬしが見つけた紙が証拠になりそうじゃが」

 春継は刺客の持っていた紙を懐から取り出して言った。

「そこで、伊賀の首長に、春までおぬしを護衛に付けてくれと言ったのじゃが……、『うつけ者の護衛任務では椿は動かない』と言われてしまってな」

 椿はどきりとした。確かに当初は春継の暗殺すら、面倒だと思っていたぐらいだ。

「だから、暗殺依頼として言い渡した?」

「そうじゃ。依頼がなんであれ、伊賀の忍が城に出入りしてるとなれば、敵も警戒するからの」

「どうして、そこまでして私に依頼を?」

「おぬしに会いたかったからじゃよ。伊賀の忍で、まろの育て親のおぬしに」

 春継が椿をじっと見つめた。熱を帯びた視線に、椿は戸惑った。

(ほんとうに、ただ、それだけの理由で?)


「……私のこと、前から知っていたの?」

 春継はにこりと笑った。

「そのうち、気づいてくれると思ったんだがの、椿」

「もしかして――」

 春継の焦茶色の瞳。内側だけ僅かに栗色に染まる黒髪。

「……弥太郎?」

 椿がその名を口にすると、春継は嬉しそうにくしゃりと顔を崩して微笑んだ。それは、幼い日とまったく同じ顔だった。

(そんなはず――でもこの笑い方は……)


 まだ椿が童だったころ、山道で迷っていた武家の子ども。

 まろが最初に気づいて椿に教え、その子の涙を優しく舐めていた。

 その子は「弥太郎」と名乗り、それからいくつかの夏を三人で過ごした――。

 

「何も知らずに、殺していたかもしれないのに……、馬鹿じゃないの!?」

「いつ言おうかと思ったが、遊戯の方が、わしをよく見てくれるようで嬉しくての。それに、何処の馬の骨かもわからない者に殺されるより、椿に殺される方が遥かに良い」

「良くない!」

 椿の激しい声色に、春継は驚いたように目を見開いた。

 椿の手がぶるぶると震えている。

「私が、良くない」

「ほう……、なぜじゃ?」

「なぜって……、幼馴染じゃない」

「武士の世界では、義理も縁も関係なく殺しあうぞ?」

「それに、まろの主人でもあるわ」

「里に連れ帰れば良い。伊賀の首長から譲ってもらったが、元はおぬしの犬じゃ。わしが奪ってしまったようなものじゃからの」

 春継は一息ついて、言った。

「何も問題などない、椿」

 春継は首を傾け、椿を見つめた。主の命を静かに待つ犬のように。


 春継の顔に、深く影が落ちた。

 椿は拳を握りしめ、深く息を吐いて言った。

「……殿は、ほんとうに大うつけ者だわ。遊戯の三か条を忘れたの?」

「いいや」

「なら――」

 椿は懐から細い矢のような棒手裏剣を取り出すと、庭に残った最後の一輪を切り落とした。

 はらはらと庭に花びらが舞う。

 簪を握り直すと、その後ろを春継に向けた。赤い花飾りが揺れる。

「次はあなたの番よ。私を追い、捕えるのでしょう?」

 春継は目を見張った。

「だから、それまでは生きなさいよ」


「……っははは! おぬしには敵わぬ」

 春継は笑うと、簪ごと椿の手を取った。

 椿はわずかに身じろいだが、その手を振りほどかなかった。春継の瞳がきらりと光を帯びる。

「ああ。……必ず捕える。その身も、心も」

 椿の手に、すり、と鼻を近づけたあと、指先に口づけを落とした。

「椿はわしの初恋だからの」

(私が、殿の初恋……?)

 言葉と指先の熱が、椿の心臓を駆けあがり、鼻の奥へと突き抜ける。


 ――たらり。


「……!」

 椿が慌てて鼻を押さえようとするよりも早く、春継が寝衣の袖口で拭った。

「また女中たちに噂されるのう」

 屈託なく笑う春継を見ながら、椿は自分の行く末を悟っていた。

 暗殺任務は幻にすぎず、それも消えてしまった今。

(もう私は、この手を振りほどけない――女の命に触れさせてしまったから)


 元藩主代理・桜見春継の初恋が、春の庭に密かに芽吹こうとしていた。

地理や歴史に明るくなく、辻褄が合わないところがあったかもしれません。

ここまでご覧いただきありがとうございました…!

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