愛犬家くのいちは、黒柴殿を殺せない
犬好きのくのいちと、うつけものと呼ばれた殿のお話。
すっ、すっ、すっ――。
城の外縁の板を滑るように、黒い影が進む。
長い髪を束ね、黒装束に身を包んだその姿は細く、しなやかだった。腰帯には、赤い花飾りの簪が刺さっている。
月明かりだけが唯一、覆われていない凛とした顔を照らした。
顔色ひとつ変えず、相手の血ひとつ流さず任務を遂行する――。
忍仲間から「無血の椿」と呼ばれるその少女は、ただただ、任務とは別のことを考えていた。
椿はふっと息を吐く。白い息が冬の闇に消えていった。
(早く帰って朱をもふもふしたい)
月を見つめ、椿は里に置いてきた柴犬に思いを馳せた。
◇
数日前、椿が伊賀の里で告げられた任務。
「伊賀の藩主代理・桜見春継を殺せ」
(春継……、あの)
無能の若君。伊賀一のうつけ者。
昼は庶民に紛れて遊び歩き、夜は酒に興じる。
誉めそやされているのは、その美貌だけだ。
(狙う価値はない。いつか勝手にくたばるのに)
「明朝、出立だ」
「……承知しました」
◇
こうして今夜、椿は伊賀上野城に参上していた。
外縁を進み角を曲がると、奥に御殿が見えた。
冬咲きの椿の花が、広い庭を赤く点々と染めている。
その庭に面した一角――奥御殿の寝所こそ、藩主代理・春継の居室だ。
(さっさと片づけて、褒美で朱に新しい骨を買おう)
椿は奥座敷の障子に近づいた。ぼんやりとした部屋の灯りに、横たわる影が浮かび上がっている。
そっと障子に耳をあてる。物音は無い。
椿は障子をわずかに引いて、中の様子を伺った。
隙間風が、枕元の灯りを揺らす。
伏せた春継の胸のあたりが、すうすうという寝息とともにゆっくり上下している。
(大丈夫、寝てる)
椿はそろりと座敷へ足を踏み入れた。
褥に近づくたび、甘い香りが微かに漂ってくる。
(白檀の香り? 殿が好きだという香りに間違いない)
椿は枕元に座り、春継の顔を覗き込んだ。懐から瓦版の切れ端を取り出し、見比べる。
そこに描かれた春継の似姿は、今まさに椿の前にいる男そのものだった。
意志の強そうな眉に、涼しげな目元。
すっと伸びた鼻筋に、つややかな唇。
(へぇ。似姿って、だいぶ美化されてるものだと思ってた。里の皆が騒ぐのも無理ない)
思わず椿は見入ってしまった。
はっと我に返り、一瞬でも任務を忘れそうになった自分をいさめる。
(何してるの、私)
ぐっと唇を噛み、瓦版をしまうと同時に、腰帯の簪に手を触れた。
そのとき、春継がごろりと寝返りをうち、椿の方へ顔を向けた。
黒髪の内側に、陽の光を受けたような栗色の髪が混じっているのに気づく。
(……まるで、黒柴の毛並みみたい)
ふと、椿の脳裏に、幼い頃よく遊んだ犬の姿がよみがえる。
(あの黒柴可愛かったな……。今はどうしているのだろう)
ある年の春、里に紛れ込んできた黒柴。
朱と出会う少し前まで、椿のよき訓練相手だった子犬。
(私を見つけると、駆け寄って鼻を擦り付けてきたっけ。そう、こんな風に――)
「え?」
椿の手の甲に何かあたたかいものが触れた。――春継の鼻先だ。
(やだ、私ってば、無意識に!?)
慌てて引っ込めようとするが、春継の鼻先がさらに、すりすりと椿の手をくすぐった。
自分のにおいを付ける子犬のようなしぐさ。
次の瞬間、春継の口が開いた。
「撫でてくれぬのか? ずっと待っておったぞ」
「……っ!?」
椿は頬が熱くなるのを感じた。混乱した頭で、春継をじっと見つめる。
瞼は固く閉じられたまま、春継は薄く笑みを浮かべている。
(寝ぼけてる……)
すっと息を吸うと、椿は簪を抜いた。鋭い先端がきらりと光る。
(一息にいかないと、苦しむだけ)
振り上げようとしたその瞬間――春継が目を開けた。
春継の焦茶色の瞳とぶつかる。獣のような鋭い光が宿っていた。椿の心臓がどくんと跳ねる。
椿を見つめていた目が、手元の簪へと移った。
春継はふっと微笑み、上半身だけ起き上がる。
「おや」
くしゃりと顔を崩して笑う様子は、子犬のように無邪気だ。
他の標的と同じように命乞いするでもなく、泣き叫ぶでもなく、ただ椿を眺めていた。
(噂と違う……! ほんとうに、殿はうつけ者?)
ぞくりと悪寒が走る椿をよそに、春継はぐいと自分の襟元を引っ張った。
寝衣がはだけ、筋肉質な首筋があらわになる。
一瞬の間に、椿は簪を持つ手を掴まれ、春継に引き寄せられていた。
「のう、首が欲しいんじゃろう?」
春継の右首筋に簪の針先が当たる。
胸元から香る白檀と色気が鼻腔を支配する。椿はくらりとした。
(手が、動かない。だめ、これ以上近づいては――)
「……さあ、好きなように」
春継が頭を傾け、椿の耳元でささやいた。
脈が速くなる。血管が破裂しそうな勢いだ。
椿はすがるように簪を握りしめる。
(ああ……)
――ぷしゅっ!
そのとき、血が座敷の畳に、春継の白い寝衣に、散った。
点々と、庭の椿の花が一斉に落ちたかのように。
「あ……」
春継が目を見開いた。
どくどくと血が流れる。春継の首筋ではなく――椿の鼻の奥から。
「ふふ、可愛い顔が台無しじゃ」
椿の手を離すと、春継は寝衣の袖で椿の顔をぬぐった。
「……っ!」
(恥ずかしい! ……どうして、こんなことに)
椿は春継から顔をそむけた。
(あれほど鍛えてきたはずなのに、取り乱すなんて……!)
鼻を押さえすっと立ち上がると、後ろに飛びのく。
襖を開け、そのまま庭へと駆け出した。
外縁を飛び立った時――椿のつま先が何かを蹴り上げた。
だが、椿はそれに気づくことなく、庭を走り去っていった。
春継は立ち上がると、寝衣を正して庭へと出ていく。
庭に転がる黒装束の男を見つけると、ふっと笑った。
「おや、ここに甲賀の忍が」
春継は、ぴっと口笛を吹いた。
庭の影から足音がし、老いた黒柴が現れる。
落ちていた椿の花を咥え、嬉しそうに駆け寄ってくる。
何か特別なものを見つけたかのように、尻尾を振って。
「やはり、椿か。香りも、気配も、昔と変わらぬ」
春継はその頭を撫でながら、その犬が落とした椿を拾い上げて言った。
「吠えなんだ犬も、血を吹いた娘も。……どうにも愉快じゃ」
春継は隠しきれない笑みを浮かべると、手の中の椿を軽く弾いた。
花びらがふわりと舞い、闇に赤い軌跡を描いて落ちていった。
◇
暗殺未遂から一夜。椿は忍の里と城の境界にある森の中の、古びた空き家に身を潜めていた。
身を潜める――正確には、恥ずかしさに顔が燃えて床でごろごろしているだけだ。
まだ、鼻の奥が少し熱い。
(あんな失態、初めて……!)
ふと椿の懐から、一枚の紙が落ちる。春継の似姿が描かれた切れ端。
春継と目が合った、気がした。目を逸らしても、瞑ってみても、瞼の裏にあの焦茶色が残っている。
ごつんっ!
椿は自分から柱に頭を打ちつける。
「冷静になるのよ、椿……!」
椿は息を整えると、床の紙を拾い、じっと見つめた。
(なぜ、あそこで手が止まった?)
昨夜の春継の姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。子犬のような無邪気な笑顔、甘える仕草――。
(殿のことを可愛いと思ってしまった。それに、どこかあの瞳を知っている気がする)
あのとき、春継の瞳が鋭く光った次の瞬間には、引き締まった体に捕えられていた。
油断し過ぎていたのかもしれない。春継の俊敏な動きは、忍にも劣らぬ訓練された者のそれだった。
しかし、そんな言い訳は通用しない。
里の長の冷徹な表情を思い出し、背筋がひやりとした。
「次こそ、必ず殺す」
椿は切れ端を再び懐にしまい、立ち上がった。
◇
その日の朝、城内の端にある川辺に、女中たちが集まっていた。皆木綿の着物を襷掛けしている。
水を張った桶の脇には、上質な木綿の肌着や、麻の布切れなどがうず高く積み上がっていた。
腰に手ぬぐいを下げた貫禄のある女中の声が響く。
「お菊! まずはこっちを手伝ってもらおうかね」
「はい! ただいま」
お菊と呼ばれたそばかすの女は、洗濯場を仕切るお局に向かって愛想良く返事をした。お菊は椿の仮の姿だ。
他の女中に並んで座り、桶の中の布を手際よくもんでいく。
「あんた、新人なのに手慣れてるねぇ」
お局が声をかけた時、甲高い声が空気を切り裂いた。
「きゃーーっ!」
「何ごと?」
悲鳴を上げた女中の周りに、人だかりができる。
「こ、これ……、血の跡!」
女はふるふると震え、青白い顔で寝衣を指さした。
ふわりと甘い香りが漂う白い寝衣。その袖と胸元には、赤黒い染みがついている。
昨夜のものだろうか、まだ湿り気を帯びているような――。
他の女中たちも顔面蒼白だ。椿は眉ひとつ動かさずその様子を見ていたが、その寝衣に気がつくと、誰よりも顔を青くした。心の中で叫ぶ。
(……あれは、もしかして昨夜の私の鼻血!? 人殺しの跡だと思われてる!?)
「誰の寝衣?」
「さ、さあ……」
女中たちがざわめく中、お局が落ちている寝衣を手にした。くん、と鼻を寄せる。
「白檀の香りがする……。ああ、殿の寝衣だよ」
「ほんとだ! ほら、まろ様の毛もついてるし」
ひとりの女中が、衣に付いた犬の毛を取って見せた。
「じゃあ、殿は今頃……」
皆がお局を見つめ、息をつめる。お局は大きくため息をついたあと、答えた。
「朝から元気に、まろ殿と散歩に出かけたのを見たよ。……ったく、殿の寝衣に血が付いてるのはこれで何度目だい」
その言葉に、安堵のため息があちこちから漏れる。
「そ、そうよね……。あの殿がみすみす殺られるわけないわ。番犬まろ様もいるんだもの」
「それなら、この血は? 殿が誰かを斬ったの?」
「きっとまた女に殴られたのよ」
「ついひと月前、殿を巡る騒動があったじゃない」
「あの時は、まろ様も乱入して大騒ぎだったって……」
「顔がいいのも、罪ねぇ〜」
女中たちの会話をよそに、お菊はうつむき、震えていた。
(あの布を、跡形もなく消したい……!)
「物騒な話をして、お菊が怯えてるじゃないか。ほら、仕事に戻るよ!」
お局は、大きくぱんと手を叩くと、女中たちを促した。皆持ち場に散っていく。
(怯えてなんか……! 恥ずかしくて死にそうなだけ!)
椿はすっとお局に近づき、手を差し出して言った。
「それ、私が洗います」
「血が、怖いんじゃないのかい?」
「大丈夫ですっ!」
ひったくるように奪うと、椿は桶の中で衣がちぎれんばかりに勢いよくこすった。
◇
その日の夜。お菊――もとい椿は、屋敷の廊下掃除を命じられていた。
朝の洗濯で、春継の寝衣をぼろ布に変えてしまった罰として。
昨夜忍んで渡った外縁を、今宵は女中として磨いていく。
床に膝をつきながら、少しずつ殿の寝所のある奥御殿に近づいた。
(女中たちによると、寝所には番犬がいるという話だった。昨夜は会えなかったけれど)
警戒心が強く、殿以外には懐かない老犬・まろ。
非常に賢く、殿が幼い頃から幾度となく危機を救ったという。
犬の有能さは、里で訓練していた椿自身が一番良く分かっていた。
下手に動いたら、捕まってしまうだろう。でも――。
(もしも、まろを仲間にできたら、この任務は成功するのでは? いいえ、そんなことより、一目見たい! あわよくば触りたいっ!)
椿はまろの姿を想像して、顔を崩した。
(黒柴って言ってたな。犬と主人は似るのかしら?)
そんなことを考えていた時、椿はふと、何かの気配を感じた。
――忍の勘ではなく、獣のような、甘く濃密な白檀の香りを。
前方の襖が開き、春継が姿を現す。
ふらふらと足取りがおぼつかない。
赤い羽織りに、花の文様が刺繍された袴。
華やかな装束を翻し、上機嫌で歌を詠んでいる。
(酔ってる?)
椿は気配を消しながら様子をうかがった。
寝所へ向かう春継を、一定の距離を保ち、雑巾がけをしながら後を追う。
(今こそ、絶好の機会だ)
椿の胸が高鳴った。髪に刺した簪に、手を伸ばす。
そのとき、椿の目の端で、別の何かが動くのが見えた。
春継のすぐ後ろの柱の陰に、黒装束の男が立っている。春継を見ていた。
その男が腰の刀を抜いたその時――胸がざわついた。
首を差し出す仕草をした、昨夜の春継の笑みが頭に浮かぶ。
(……嫌。殿を殺すのは、私よ)
椿はとっさに、男に忍び寄った。
背後から男の口を雑巾で覆うと、こめかみを簪の後ろで打ち据えた。赤い花飾りが揺れる。
男は気絶し、膝から崩れ落ちた。
(体が……、勝手に)
椿は平静さを取り戻そうと、男が持っていた刀を取った。しかし、心臓は一向に鎮まらなかった。
(許せない……!)
手がわなわなと震える。
だが、その震えが獲物を横取りされそうになった怒りなのか、春継へ刃が向けられたことへの苛立ちなのか――あるいは、己の甘さへの悔しさなのか、椿はわからなかった。
椿は刀を鞘に戻し、自分の背中の帯に刺した。仕留めた忍を物陰に隠したとき――。
春継がゆらりと振り返った。
胸元がゆるくはだけ、顔に薄く紅が差している。
女中姿の椿を目にとめた瞬間、春継の焦茶色の瞳がわずかに見開かれた。
春継の口の端がゆるむ。その笑みは、遊び相手を見つけた子犬のそれに近かった。
「なんじゃ?」
春継の視線が椿の顔をかすめ、一瞬だけ手元を鋭く射抜く。
(ほとんど音を立ててないはずなのに、気づくなんて)
「……夜風が草木を揺らしたのでしょう」
椿は冷静に答えた。
「ほう……、椿の花が落ちたのかと思うたよ」
春継が笑みを浮かべたまま、椿のもとに近づいてくる。酒と白檀の混じった香りに、眩暈がした。
(酔ってしまいそう)
春継が何かに気づいた様子で、椿の顔に手を伸ばした。心臓が大きく跳ねる。
「……っ!?」
熱を帯びた春継の指先が椿の額に触れ、乱れた髪をすくう。
手にしていた簪を春継に取られ、黒髪に差し入れられたとき、椿は息苦しくなるのを感じた。
(まただ。殿に触れられると、どうして)
春継は椿を見つめると、満足そうに微笑む。
「おぬしは赤が似合う、椿のような赤が」
(私の正体に、気がついている?)
椿は焦りを悟られないよう、微笑んだ。
「もったいないお言葉です。ですが、殿。むやみに簪に触れてはなりません。簪は女の命なのです」
「ふむ……。女の命とな」
春継は少し考えるような顔をしたあと、椿の顔を覗き込んだ。
焦茶色の瞳に射貫くように見つめられ、椿は動けなくなる。
「ならば、触れることを許される時を待つのも、また一興よ」
(また、あの目だ……! 愉しんでる)
椿はかっと顔に血が上るのを感じた。春継は名残惜しそうにふと笑みを緩めると、踵を返した。
そのまま春継は寝所へと歩いていく。酒と白檀の香りだけを残して。
(殺り損ねた)
ひとり残された椿は、ぐっと手を握りしめた。
勝手に飛び跳ねた心は、もとの場所に収まってくれない。
ふと、里のくのいちが言っていた言葉を思い出す。
「忍の恋と任務は、危険なほど心が躍る」と。
(……危険な任務って、こういう感じ? 殺そうと近づくたびに、胸が騒ぐ)
椿ははっとして、頭を振った。
(いいえ、これは恋のはずがない。だって私は――殿を殺しに来たのだから)
「殿を生かすも殺すも、私の役目よ」
椿のつぶやきが、闇に溶けていった。
◇
伊賀上野城お抱えの庭師の娘、小梅は甲高く特徴的な声の持ち主だった。
今日はその名も姿も、伊賀のくのいち・椿が借りている。
小梅は門番の前まで来ると、深く被った笠を指で軽く持ち上げ、門番に笑いかけた。甲高い小梅の声が響く。
「庭師の娘、小梅にございます! お庭の手入れに参りました」
「おお……、小梅か? 今日はいつもより早いな」
「しばらく雪で伺えなかったので。今日、殿はお庭にお出ましですか?」
「いや、まろ様と散歩に出かけたよ。いつもの、春千代様のところだろう」
(春千代様……。殿の甥で、本来の藩主だ)
「そうなんですね。では、先に奥御殿からお掃除させていただきます」
「おう、頼んだぞ」
小梅は門番に軽く一礼すると、城内へと入っていった。
◇
城内の庭も、一面銀世界だった。
だが、奥御殿の庭だけは違った。その庭にだけ咲いている椿の花が、ぽつぽつと落ち始めていたのだ。雪に赤が滲んでいる。
誰も足を踏み入れていない雪の上をそっと踏みしめると、音が吸い込まれていく。
まるで、この庭だけが別の世界のようだった。
椿は籠を背負うと、落椿をひとつひとつ拾い入れていった。
(毒を仕込まなければ)
籠の半分ほど花を拾い集めた後、椿は半纏の内側の小袋から、小瓶を取り出した。
附子の根を乾かし、砕き、水で練った「忍び薬」。
無色無臭で、触れば痺れを呼び、口に入れば命を落とす。椿の簪の先に隠した、毒針と同じものだ。
春継が触れそうなところに塗っておき、弱ったところを打つのが椿の計画だった。
(任務なのに、どうして……。殿が苦しむところを想像すると、胸が痛くなる)
重い足を引きずって、春継の寝所に向かう。
しんとした空気が、椿を包んだ。そのとき――。
「わん!」
背後から犬の声が聞こえた。
椿はとっさに小瓶を隠し、声の方へと振り向いた。
黒柴が走ってくる。ぶんぶんと揺れる尻尾が愛おしい。
椿は一目見て、その黒柴に心を奪われた。顔がほころぶ。
「おいで」
椿がしゃがみ、手を広げると、黒柴はくぅんと鳴いて鼻先を擦り付けた。
(もしかして、殿の犬?)
走り方は軽いが、ときどき足運びに年の影が見えた。鼻から漏れる温かい息も、どこかゆったりしている。
(この茶色の瞳……。昔、里にいたあの黒柴と同じ色だ。名前も付けられないまま、別れたあの子。もし、あの子が生きていたら、こんな感じかな)
椿は目の前の黒い老犬と戯れながら、昔の記憶をたどっていた。
母が恋しい夜に寄り添ってくれた――幼き日の子犬の姿に重なる。
(このまろ眉。尻尾の振り方。もしかして、この子が……)
ふと、黒柴の耳がぴんと立ち上がる。椿は何者かが近づく気配を感じた。
(私としたことが、背後を取られるなんて……!)
振り返るよりも早く、椿の頭上に声が落ちてくる。
「まろ、一人で先に行くな」
春継が穏やかな笑みを浮かべていた。
椿は黒柴から離れて、すぐに立ち上がると、甲高い小梅の声で言った。
「どうかお許しくださいませ、お殿様! すぐに掃除を終わらせます」
「よいよい。こやつが邪魔をしたのだろうよ」
「わん!」
同意するようにまろが吠える。春継は腰を落とし、まろを優しくなでた。
ふたりの様子に、椿は忘れていた記憶が呼び起こされる感覚がした。
(この光景……見おぼえがある)
椿がじっと見ていると、春継が顔を覗き込むように見つめ返した。
「気難しい気質ゆえ、わし以外には懐かなんだが……。おぬしのことを気に入ったようじゃ」
「とんでもないことにございます!」
椿は笠に隠れるように深々とお辞儀をしながら、半纏の内側に手を差し入れた。
(余計なことを考えるな、椿。今、ここで打つ)
椿の指が簪に触れ、毒針を繰り出す。
「恐れ入りますが、これにて失礼いたします」
顔を上げようとしたそのとき――。
「くうん」
春継に甘えるようなまろの鳴き声が、椿の耳に響いた。
(もしも殿が目の前で殺されたら、この子はどうなる?)
出会ったころ、おぼつかない足取りで歩いていた子犬の姿がよみがえる。椿の手が止まった。
「忙しないのう。……もう少し遊んでやればよい、『無血の椿』よ」
(なぜその名を……? 里の者しか知らないはずなのに)
椿は、ぎり、と歯を食いしばった。
(ここで殺らなきゃ)
椿は顔をゆっくりと上げた。
笠の下から見える口元に、薄く笑みが浮かぶ。
「では、少しだけ――」
簪を取り出し、春継に襲い掛かろうとしたそのとき。
――ひゅっ、と空気が切り裂かれた。
春継が目に見えぬ速さで、胸元の扇子を取り出した。
椿の毒針が扇子に阻まれる。かつ、と金属の音が小さく響いた。
(鉄扇……!)
「くっ……!」
その扇子は思ったより重く、椿はじりと後退った。
ふたたび飛びかかろうと構えたとき、ふいに椿の首筋がひやりと冷たくなるのを感じた。
春継の扇子が首に突きつけられている。
椿の簪を持つ手首は、春継のもう片方の手に制されていた。
「おぬしは、わしを殺せぬよ」
春継は目を細めて笑う。だが、声はどこか切実な響きを含んでいた。
「……! だけど何度でも、この首を狙う」
「ほう……。では、春までじゃ、椿よ」
(この男……、正気?)
椿は混乱した。暗殺対象から期限の提案をされるなんて、普通では考えられないことだ。
(私がなかなか殺せないのを、馬鹿にしてる? それとも、遊ばれてる?)
椿は掴まれていた手を乱暴に振りほどき、低い声で言った。
「……どういうつもり?」
「これは命を賭けた遊戯じゃ。決め事があるほうが面白いじゃろう?」
「ふざけないで……!」
「まあまあ、最後まで聞いてから考えても悪くないと思うがの」
春継は椿の声を遮り、ひとつ指を折りながら言った。
「一つ目、必ず一人で討ちに来ること。その代わり、わしも一人で受けて立とう。殿ではなく、春継として。……ああ、まろだけは、どちらについてもよいぞ」
「わん!」
「……一騎打ちだなんて、ずいぶん律儀なこと」
椿が冷たく言い放つも、春継は笑みを浮かべたまま続けた。
別の意図があるようなその笑みに、椿は釈然としなかった。
「二つ目、期限はこの庭の椿がすべて落ちるまでとする。春まで、好きに狙うがよい。おぬしを捕えたりはしない」
椿は考えを巡らせた。
定期的に商人の出入りのある城内、春継の出席する公式行事、まろの散歩……。変装の手札もまだ、尽きていない。
(ひと月あれば、何度か機会はある)
「三つ目、椿が落ちたら――わしの番じゃ。どんな手を使ってでも、おぬしを追い、捕える」
「……っ!」
「そのときは、これまでを捨て、名も、命も、心も。すべてを、わしに預けよ」
春継は椿の首筋に、扇子をなぞるように滑らせ、とん、と胸を突く。
椿はその感触に、恐怖とも期待ともつかない昂りを感じた。
「春までは私が攻める番、春からはあなたが攻める番ということね」
「そうじゃ。なあに、おぬしは春までにわしを殺せばよいだけのこと」
飄々と言ってのける春継に、椿はわずかに怒りを覚えた。
(殿は何を考えている?)
春継の不敵な笑みからは、何も読み取れなかった。
(どのみち、春までに任務を終えられなかったら、里へは帰れない。それに、他に選択肢もない――)
「わかった。その条件、のむわ」
椿の返事に、春継は満足そうな笑みを浮かべる。扇子を椿の体から離すと、手のひらをぽんと叩いた。
「これで決まりじゃ。よいの、これはおぬしとわしの遊戯。他の者を交えてはならぬぞ」
春継は扇子を再び開くと、足元に落ちていた落椿をそっと掬った。
「早く散るか、春先まで生き延びるか。勝負の結果は、この花次第よ」
春継の焦茶色の瞳が、扇の上の花を愛でるように見つめた。
「血のように赤く、しかしまことに優美な――」
春継の顔がゆっくりと椿の顔に近づいてくる。
「椿は、わしが一番好きな花なのじゃ」
椿が背負っている籠へと手を伸ばし、そっと赤い花を落とした。
冷たい空気が肌を刺すなか、春継の甘い香りが鼻をくすぐる。
その落差に、息が詰まった。
「~~~っ!」
椿は慌てて顔を手で覆うと、くるりと踵を返して駆け出した。
(花が散るまで――それまでに殺す)
椿は走りながら、簪をぐっと握りしめる。
(それができなければ、私が殺される。……それだけのこと。これは任務。恋じゃない)
◇
春継は雪の上に点々と残るかすかな足跡を見つめた。
一滴だけ、鼻の奥からこぼれたような赤が滲んでいる。
「春まで、楽しみよのう」
まろが尻尾を振る。春継は笑みを浮かべ、赤く染まった椿の顔を思い出していた。
◇
冬の間、椿は何度も春継の命を狙った。
ある時は、春継が鬼役で参加した城下町の豆まきで、町娘に扮した。
(殿が私の歳の数、豆をくれた。……鬼なのに)
またある時は、幕府に向かう道中の宿の女将を装った。
(星が雨のように降り注ぐ夜に、二人で息をのんだ)
春継は「椿の匂いがするのう」と言って、ことごとく椿を見つけ出した。
椿の毒針も、罠も、あの鉄扇で軽く受け流されてしまった。
(呉服屋の若旦那に変装したときは、大騒ぎになったこともあった)
新しく仕立てた着物を春継に着せているとき、番頭が二人を襲ったのだ。
若旦那姿の椿が番頭を制したが、乱れた衣服で床に転がる男の姿を女中たちに見られていた。
春継がついに男にも手を出したと、噂に尾ひれ背びれがついて回った。
(あの番頭は、刺客だったのに)
憤る椿に、春継は笑ってこう言った。
「皆の目にうつる春継は、まこと愉快な男じゃ」
(殿は無能なんかじゃない。私は、本当の姿を知っている)
椿はなぜか、それだけは忘れてはいけないことのように思えた。
◇
草木が芽吹き始めるころ――春継の甥・春千代が元服を迎えることとなった。
元服式は城下の神社で執り行われた。
椿は化粧に白装束で髪を結いあげ、巫女姿で潜伏していた。
(城の庭の椿は残り一輪。きっと今日が最後の機会だ)
神社に桜見家の遠縁や家臣たちが集まってくる。
椿はその中に潜む刺客を、密かに、しかし着実に制していた。
(邪魔者が多すぎる……! こんなに殿の命を狙う者が多いなんて)
拝殿で宮司が祝詞を奏上する間も、春千代が武家装束を纏いお披露目をする間も、椿は気が気でなかった。春継を制するための簪で、甲賀の忍を討っていく。
(他の者に殿を殺されたくないだけ。私だけが殿を――)
やがて、元服式の最も重要な儀式である、加冠の儀が執り行われた。
藩主代理を務める春継が、直垂姿で春千代前に歩み寄る。桜見家の血を引く者は、今や二人だけだった。
(……少し、疲れてる? 最後の力を振り絞るような)
春継の穏やかなまなざしに、わずかに影が落ちている。いつもは軽い足取りも、一足一足踏みしめるようだった。
春千代の前に立つと、春継は膝をついた。烏帽子を掲げ持ち、そっと春千代の頭上に乗せる。
その横顔は、うつけと呼ばれる殿ではなく、甥の未来に賭けた一人の武士だった。
春千代は恭しく一礼し、よく通る声で名乗った。
「本日より、春景と名乗らせていただきます」
その声に、その場の皆が伏した。
儀式の後、参列者に祝杯が振舞われ、巫女舞が披露された。
椿は舞いながら、春継の顔を盗み見る。どこか安堵した様子で、春千代の隣に座っていた。時折笑い合いながら、春千代と酒を酌み交わしている。
(……殿が守りたかったものはこれだったんだ。私の任務は終えられなかったけど、これでよかったんだ)
椿は知ってか知らずか、春継を見守るように微笑んでいた。
こうして藩主・春景――幼名・春千代の元服式は、つつがなく幕を閉じた。
◇
その日の夜。
奥御殿の庭の最後の椿の花が、まだ残っていた。
春継は酒を片手に、寝衣のまま外縁に座り、穏やかに月を眺めている。
――ぴゅう。
暖かい風が春継の頬を撫で、黒装束の椿が姿を現した。
「おぬしの舞、見事だったぞ」
春継は椿の姿を見つけると、心から嬉しそうに笑った。
「椿よ、わしはこの日のために生きてきた気がしての」
ぐいと酒をあおり、月を眺めながら独り言のように続ける。
「春千代が元服を迎え、わしの務めもひとまず果たした。……そう思うと、不思議と心が軽いのじゃ」
春継はゆっくりと息を吐いた。その顔は、殿ではなく一人の青年の顔だった。
「おぬしも隣にいる。――今宵殺されても、悔いはない」
その言葉を聞いたとき、椿の腹の奥底がふつふつと煮えたぎるように熱くなった。
簡単に命を差し出そうとする春継も、それを狙えない自分も、すべてが許せなかった。
椿は春継を睨み、低い声で言った。
「本当に……、そう思っているの?」
「ああ、思ってる。それに――」
椿が帯に刺した簪を手に取るのを見ると、春継は微笑んだ。
「おぬしに依頼したのは、わしじゃからの」
「……え?」
椿は言葉の意味を理解できず、驚いた顔で突っ立っていた。
「どういうこと?」
「わしが命を狙われていることは知っておった。だが、確かな証拠がなく、犯人を排除できなかったのじゃ。まあ、前におぬしが見つけた紙が証拠になりそうじゃが」
春継は刺客の持っていた紙を懐から取り出して言った。
「そこで、伊賀の首長に、春までおぬしを護衛に付けてくれと言ったのじゃが……、『うつけ者の護衛任務では椿は動かない』と言われてしまってな」
椿はどきりとした。確かに当初は春継の暗殺すら、面倒だと思っていたぐらいだ。
「だから、暗殺依頼として言い渡した?」
「そうじゃ。依頼がなんであれ、伊賀の忍が城に出入りしてるとなれば、敵も警戒するからの」
「どうして、そこまでして私に依頼を?」
「おぬしに会いたかったからじゃよ。伊賀の忍で、まろの育て親のおぬしに」
春継が椿をじっと見つめた。熱を帯びた視線に、椿は戸惑った。
(ほんとうに、ただ、それだけの理由で?)
「……私のこと、前から知っていたの?」
春継はにこりと笑った。
「そのうち、気づいてくれると思ったんだがの、椿」
「もしかして――」
春継の焦茶色の瞳。内側だけ僅かに栗色に染まる黒髪。
「……弥太郎?」
椿がその名を口にすると、春継は嬉しそうにくしゃりと顔を崩して微笑んだ。それは、幼い日とまったく同じ顔だった。
(そんなはず――でもこの笑い方は……)
まだ椿が童だったころ、山道で迷っていた武家の子ども。
まろが最初に気づいて椿に教え、その子の涙を優しく舐めていた。
その子は「弥太郎」と名乗り、それからいくつかの夏を三人で過ごした――。
「何も知らずに、殺していたかもしれないのに……、馬鹿じゃないの!?」
「いつ言おうかと思ったが、遊戯の方が、わしをよく見てくれるようで嬉しくての。それに、何処の馬の骨かもわからない者に殺されるより、椿に殺される方が遥かに良い」
「良くない!」
椿の激しい声色に、春継は驚いたように目を見開いた。
椿の手がぶるぶると震えている。
「私が、良くない」
「ほう……、なぜじゃ?」
「なぜって……、幼馴染じゃない」
「武士の世界では、義理も縁も関係なく殺しあうぞ?」
「それに、まろの主人でもあるわ」
「里に連れ帰れば良い。伊賀の首長から譲ってもらったが、元はおぬしの犬じゃ。わしが奪ってしまったようなものじゃからの」
春継は一息ついて、言った。
「何も問題などない、椿」
春継は首を傾け、椿を見つめた。主の命を静かに待つ犬のように。
春継の顔に、深く影が落ちた。
椿は拳を握りしめ、深く息を吐いて言った。
「……殿は、ほんとうに大うつけ者だわ。遊戯の三か条を忘れたの?」
「いいや」
「なら――」
椿は懐から細い矢のような棒手裏剣を取り出すと、庭に残った最後の一輪を切り落とした。
はらはらと庭に花びらが舞う。
簪を握り直すと、その後ろを春継に向けた。赤い花飾りが揺れる。
「次はあなたの番よ。私を追い、捕えるのでしょう?」
春継は目を見張った。
「だから、それまでは生きなさいよ」
「……っははは! おぬしには敵わぬ」
春継は笑うと、簪ごと椿の手を取った。
椿はわずかに身じろいだが、その手を振りほどかなかった。春継の瞳がきらりと光を帯びる。
「ああ。……必ず捕える。その身も、心も」
椿の手に、すり、と鼻を近づけたあと、指先に口づけを落とした。
「椿はわしの初恋だからの」
(私が、殿の初恋……?)
言葉と指先の熱が、椿の心臓を駆けあがり、鼻の奥へと突き抜ける。
――たらり。
「……!」
椿が慌てて鼻を押さえようとするよりも早く、春継が寝衣の袖口で拭った。
「また女中たちに噂されるのう」
屈託なく笑う春継を見ながら、椿は自分の行く末を悟っていた。
暗殺任務は幻にすぎず、それも消えてしまった今。
(もう私は、この手を振りほどけない――女の命に触れさせてしまったから)
元藩主代理・桜見春継の初恋が、春の庭に密かに芽吹こうとしていた。
地理や歴史に明るくなく、辻褄が合わないところがあったかもしれません。
ここまでご覧いただきありがとうございました…!




