こだわりらいふ
生きることにこだわりを。魚住惇です。
今回もちょっとしたこだわりに、お付き合いください。
つい先日、こんな記事を読みました。
「自分らしく生きたい」「趣味が大事」は一緒だが…20年前の若者にあってZ世代からはすっぽり抜け落ちたもの(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
金沢大学の金間教授という方が書いたもので、20年前の若者と今の若者を比較している内容でした。どちらの世代も「自分らしく生きたい」「趣味を大事にしたい」と言っている点は同じだと書かれていました。なんかちょっとこの時点で少し驚きです。20年前の若者と言えば自分の世代のことで、あの頃って就活で大手を目指すなら金融系・建築系・公務員・IT系みたいな感じでもうレベル別に順番に選んでいる人が多かった空気感がありました。僕自身は最初から教員採用試験しか見ていなかったので、就活らしい就活なんて一切やりませんでした。夢を追いかける生き方をするというのが、大学の中では少数派だったというのを肌感覚で感じていました。
しかし記事では20年前の若者だって自分らしく生きたいなんて思っていたんですね。しかもその20年前の若者の言葉には続きがあって、「自分を探すためになんでもやる」「将来趣味に生きるために今はハードワークする」という精神で社会を生きていたというのです。記事には昔の若者はそういう思いを抱きながら「自分らしさ」を行動に接続していて、今の若者はその行動力が失われているという内容が書かれていました。つまり「自分らしく生きたい」と口では言いながら、具体的な行動に移してないというのが、今の若者の特徴というわけですね。
この記事での指摘はごもっともで、僕のXを見ているよと生徒から結構聞くんですが、実際にフォロワーが増えている実感が持てないんですよ。つまりフォローはしていないんだけれども、IDなどを検索したりブックマークして、普段閲覧するタイムラインに表示させずに見ているということです。普通見たいならフォローするじゃんっていうのが僕の感覚なんですけどね。
こういう感覚を「見る専」と言うそうです。Xに例えるなら、閲覧数そのものは伸びていて、そこから閲覧した人がどれくらいいるのかはわかるけれども、そこからフォローしたり、自分もやってみようという反応を示すことが少ないということです。興味はあるがそこから先の一歩がない。「見る」と「やる」の間に、以前は存在しなかった溝ができているような感覚です。
ゲーム実況動画ばかり見る息子
うちの息子の世代を見ていると、この傾向はさらに顕著になってるなと感じます。ゲーム実況を好んで見ているというのに、そのゲーム自体を自分でやりたいとは思いません。少し前に、PoppyPlayTimeというゲームの実況動画に息子がどハマりしていて、Switch版を買って与えたんですよ。そうしたら探したいアイテムがなかなか見つからなくて、ついにはやらなくなってしまいました。そもそも子どもの方からやりたいと言われたのではなくて、「そんなにハギーワギーが好きならゲーム買ってあげるよ」と僕が発言したことが発端でした。でももう、「難しいから自分じゃやんない!」と言われてしまい、上手な人の実況動画ばかりを見るようになってしまいました。
僕自身はというと、マイクラのワールドをサーバーで動かしているので、アイアンゴーレムトラップの作り方を調べたり、無限○○装置などの情報があればすぐ自分のワールドでも試してみたいと思って、それらの動画を見ながら実際に手を動かしてみるわけですよ。これがまた面白くてね。多少それらの装置が動かなくても、なんとか自分で試行錯誤して直していくのが楽しいんですよ。目当てのものが完成した時のあの達成感は、他には代用できないとも思います。そう、ゲームの動画を見たら「自分もやってみたい」という衝動が自然に湧いてくるんですよね。ただし、息子を見ていると、その衝動自体が見当たりません。
この20年の間に、どうしてこうも変化したんだろうって、疑問に思うわけですよ。良い時代になったと思うんです。部活動だって、数年前までは高校では1年生は強制的に何かの部活に入部するというルールだったのが、今では入学時からも入部が自由になりました。ただ選択肢の中から選ぶことしかできなかったのが、業後(放課後)の時間には自分のやりたいことが自由にできるような時代になったのです。しかし実際にはダラダラと寄り道し、適当な時間に帰りスマホをいじってばっかりの毎日を過ごしてしまう高校生が多くいます。それが現実です。
SNSでは「個性を大切に」「好きを仕事に」という表現が増えました。かつての日本は「社会の歯車になれ」と教えてきて、組織のために個人を差し出せという価値観だったと思います。その反動として今の流れが生まれたことは、社会が次の段階に進んだという感覚でした。今は組織よりも個人が尊重されて、プライベートの充実が肯定される時代です。
ではそのプライベートとやらで若者は何をやっているのか。せっかく取り戻したはずの「自分の時間」にやっていることと言えば、誰かを「推す」ことなんですよね。推しの配信を追いかけて、推しのグッズを買い、推しのために投票しています。せっかく「社会の歯車」から降りたというのに、今度は自分から「推しの歯車」になってしまっているわけですよ。強制ではなく自分の意思でそうしているから、本人は自由に生きていると信じています。
結局は誰かのために時間を使っているという構造は、何も変わっていないような気もします。個性を大切にしようとしながら、その個性を自分で消してしまっていると思うのです。側から見ていると、これが部活動自由化の結末なのかと思うと物悲しくなります。それならサッカー部にでも入ってもらってボールを追いかける青春を送ってくれた方が健全だったかもしれないと思ってしまうほどです。
スマホの悲しい使い道
どうしてこんなことになっているんだろうって思うわけです。みんながスマホを使うようになった。そこまでは良いことです。これまでと比べ物にならないほどの情報を処理できるようになった手のひらサイズのコンピュータを、今やほぼ全ての中高生が持ち歩いている。情報科の教員としては素晴らしい時代だなと思っています。
しかし実際には多くの生徒らはスマホをコンピュータとして使いこなしているわけではありません。ショート動画や無料ゲームなどにどんどん自分の大切な時間を奪われているようにしか見えないのです。本人たちはスマホ1台で何時間も時間が潰せてコスパが良いなんて言っていますけどね、青春時代の時間がどんどん奪われていることに気づいていないわけです。
僕はこれは、SNSなどの利用者数向上や閲覧数を最大化するためのアルゴリズムが原因なのではないかと思っています。かつてテレビが「洗脳装置だ」と批判されたとき、ネットは「自分で調べる場所」として対抗軸として扱われていました。でも今はそのネットがテレビと同じか、あるいはそれ以上の洗脳装置と化しています。テレビは受動的で「情報を押し付けられているな」と感じることが容易でしたが、SNSのアルゴリズムは「あなたが好きそうなもの」を個別に提示してくれるため、本人は自分で選んでいるんだと錯覚するんですよね。
実際にはアルゴリズムが決められたルールや数式によって選んだコンテンツを流し込まれているだけだというのに、それを「自分好み」だと感じてしまいます。これらの次に見るべきコンテンツへの誘導を自由だと思い込ませる仕組みとしては、テレビよりもかなり高性能だなと思います。
ちなみにこの話ね、情報の授業でとあるクラスにだけ話したことがあるんですよ。けれども生徒たちの反応は僕が期待したものとは違いました。一通りこの話をすると「でも、おすすめされたもので楽しんでいるんだから、もうそれでいいじゃないですか。実際にアイドルか可愛いし、動画も面白いし。そうやって楽しく生きているんですよ。それが現代なりの生き方です。」と言い返されてしまいました。ああああ、そうか。そうやって思っているのかと驚嘆しました。論理的には間違っていないようにも思います。
恐らく、楽しいと思っている感情そのものは本物でしょう。好きになってから推していくのも、自分の意思のようにも思います。もはや楽しさの出どころが自分の内側から湧いたものなのか、外側から注入されたものなのか、彼ら自身には区別がつかなくなっているのでしょう。まぁそこまで言われると、僕のガンプラだって、バンダイの戦略によるものかもしれませんけどね。
ただし、こうも思うのです。もしもアルゴリズムにおすすめされるがままに無料ゲームに時間を使ったり、バズっているショート動画にばかり時間を奪われてしまったのだとしたら、それは本当に自分の意思だろうかと。その意思は後付けではないだろうかと。本来なら自分の意思があり、何かを選択し、そしてそれを好きになっていくという順番があると思うのです。これが今やアルゴリズムによって何らかの情報が提示され、好きという感情が発生し、自分の意思だったことにしているのではないだろうかと。
物心ついた時からスマホがあり、自分で選んだ経験がない人は、そもそも「自分で選ぶ」という体験そのものを知らないかもしれません。特に今の勤務校に通ってくる生徒の多くは、受験する高校を自分の意思では決めていません。レベル的にここしかなかったとか、他にどこも行くあてがなかったという話をよく聞きます。全員ではないものの、そういう層がそこそこの人数確かにいるのです。自分で選ぶ、決めるという経験がなければ、確かに僕が今抱いているような違和感には気づかないのかもしれません。そしていつしか「見る専」になってしまうのではないでしょうか。
「好き」の作り方
僕自身はというと、例えばHHKBに行き着くまでには、結構な数のキーボードを買っては試し買っては試しという行動を繰り返してきました。最初は1000円のメンブレンキーボードを買いました。ただし1ヶ月もするとすぐ一部のキーがへたってしまうので、毎月買い換えるようになりました。これはこれでコスパが悪いと思ったので、メカニカルキーボードを買いました。青軸です。もう家族から大不評です。うるさいから。これも違うと思いました。そこでHHKB Lite2に出会い、これまでとは違う配列に出会いました。それから憧れだったProfessional2に行きつきました。
更に今はというと、また最近になってKeyball39を使い始めました。妻からは「もうHHKBでゴールだったんじゃないの?」と言われますが、自分が知らないキーボードが存在しているのなら、試したいと思うじゃないですか。それを知らずにHHKBは最高だ!なんて言っている自分が恥ずかしく思うんですよ。でもKeyball39はそのままだと自分の手には馴染んでくれませんでした。だから角度のついたボディを3Dプリンターで印刷して、試行錯誤しながら使っています。そしてこうしたnewsletterを書いたりするときには、たまにHHKBに戻ったりします。日夜あーでもないこーでもないを繰り返しながら、キーボードが少しずつ増えながら、インターフェイスそのものに向き合っているわけです。かっこいい事を言うと正当化した気分になりますね。
もしこれが「勧められたからHHKBが最高なんだ。だからこれが正解なんだ。」という買い方をしたら、もうそれで物語が終わりなんですよね。確かにHHKBと出会ったところまでは良いんですが、それはあくまで暫定的な正解というか、現時点での最適解に過ぎません。自分のようにこだわるのなら、そこから最適解というのが日々更新されていくと思うのです。
毎年この時期になるとね、校内での情報モラル講話を魚住が担当するので、新入生に向かって情報モラルのお話をするわけなんですよ。今年もその時期です。でも今の世代って、もう耳にタコができるくらい、ああいう書き込みはダメだ、これは炎上するからダメだって教えられてきていると思うんです。そしてそれはもう「あーまたこの話かはいはい」くらいの認識しかありません。
それでも一定の効果はあったと思います。もしかしたら「見る専」が増えた理由は、そういうバカッターにならずに、炎上せずに生き抜くための知恵かもしれません。誰かが歩いた正解の上を歩いていくなら安全ですから。特に失敗を恐れる今の若者にとって、それが正解だと信じているんだなと見ていて思うのです。その結果、何者にもなれなかった無趣味の大人が大量生産されていく。ここまで仕上がってしまったら、もう休みの日にやることなんて、推し活しかありません。
じゃあどうやってSNSを使ったら良いのか。今年の情報モラル講話では、「本物の「好き」を見つけるために発信しよう」と新入生に言おうと思っています。
僕のこだわりには必ず身体性が伴います。万年筆は自分で書いてみないとわからなじゃないですか。キーボードはしばらく打ってみて、打鍵感を確かめないと判断できないじゃないですか。ガンプラだって実際に作って塗装してみないと、エアブラシの難しさも分からないじゃないですか。実際に手で触れてみないと辿り着けない領域があり、アルゴリズムにおすすめされるだけでは到達できないと思うのです。後付けの意思ではない、本物の「好き」を探していく。SNSはそのための情報発信に使うのが良いんじゃないかと思うのです。
推す側から、こだわる側に来い。誰かの人生を応援するのではなく、自分の人生を自分の手で面白くするために時間を使おう。選んで触って失敗して、その積み重ねが人生なんだ。こんな感じに、格好良く決まったら良いなぁ。
あれ、このnewsletterのタイトルって、何でしたっけね。
今回のnewsletterは以上となります。
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振り返ってみてすごくいい学生時代だったかというとそうではなかっと思うけれど、周りと合わせて部活動やバイトなどで色々学んだことは多いなともいます。自分の好きなことだけできる時代(スマホや推しかつ)だけど、それだけでは学べないこともあるし、その年代でしかできないこともあるので、色々目を向けてほしいなと思います。そんなことを思いながら子育て中です。