私が本当に欲しかったのは、すごい未来ではなく安心できる毎日だった
〜何者かになりたかった私の、ココロの観察日記〜
私はずっと、
何者かになりたかったのかもしれません。
文章を書く人。
小説を書く人。
誰かに影響を与えられる人。
自分が見てきた尊敬できる人。
自分が影響を受けてきた人。
そういう人たちと同じように、
私も何者かになりたいと無意識に思っていたのかもしれません。
でも今なら、
少しだけ分かる気がします。
自分でも気づいていなかった、
「何者かになりたい」という気持ち。
それがココロの奥にずっとあって、
気づかないうちに、
自分で自分を苦しめていたのかもしれません。
何者かになろうとするほど、
今の自分では足りない気がしてしまう。
もっとすごくならなきゃ。
もっと書ける人にならなきゃ。
もっと誰かに届く人にならなきゃ。
もっと誰かの役に立つことをしなきゃ。
そんなふうに思って、
自分で自分を追い込んでいたのかもしれません。。
でも、
本当に私が欲しかったものは、
すごい未来でも、
影響力のある人になることでも、
誰かの役に立つことで自分を証明することでもありませんでした。
わたしが本当の意味でほしかったものは、
安心できる日常。
丁寧に過ごせる毎日。
平和だなあと感じられる日々。
自分の心が穏やかでいられる環境。
いつも自分の周りに笑顔が溢れていて、楽しく笑い合う声が聞こえる。
そんな毎日が、
私のなりたい未来、作りたい未来なんだと思います。
私は生まれてから結婚するまで、
家族そろってご飯を食べる習慣がほとんどありませんでした。
家族がそろって食べる日は元旦の朝だけ。
わたしの人生の中で、家族揃って一緒にご飯を食べることは、
おそらく10回あるかないかくらいです。しかも元旦の朝だけ。
だから今でも、
高校生の頃にお付き合いしていた彼の家で、
家族みんなでご飯を食べる場に、
私も一緒に入れてもらった日のことを覚えています。
みんなで食卓を囲んで、
笑い合いながらご飯を食べる。
その景色が、
今でも忘れられません。
大きな出来事ではなかったのかもしれません。
でも私にとっては、
小さな石ころにつまずいたように、
心に残る出来事でした。
毎日、
誰かと一緒に食卓を囲むこと。
自分が作った料理を並べて、
笑いながら食べること。
そんな普通に見えることが、
私にとっては、
ずっと欲しかった景色なのです。
結婚して子どもが生まれて、
みんなでそろってご飯を食べられていた時間は、本当にしあわせでした。
今は、仕事が遅番の日には、
家族そろって食卓を囲むことができません。
いつも、後ろ髪を引かれるような気持ちで出勤しています。
子どもたちはもう高校生なので、「さみしい」とは言いません。
でも、
言わないからこそ、余計に思ってしまうんです。
子どもたちに、
さみしい思いをさせてしまっているのではないか。
家族そろって食べられる時間は、
もう限られているのに。
私が大切にしたい当たり前を、今できていない気がして、
自分を責めてしまうことがあります。
誰かにとっては当たり前のことが、
別の誰かにとっては、ずっと憧れていたことだったりする。
夕飯を誰かと一緒に食べること。
ただいまと言えること。
おいしいねと笑えること。
そんな小さな日常が、
ものすごく私にとっては大きな夢で、大切なものだったりします。
もしかしたら私は、
その憧れていた未来を自分の手で作るために、
何者かになりたかったのかもしれません。
もうそろそろ、
すごい人になりたかった過去の自分を、
少しずつ手放してもいいのかもしれません。
有名になること。
影響力のある人になること。
誰かみたいになること。
それよりも、
自分が安心していられる毎日を、
自分の手で作っていきたい。と
何者かになれないなら、
何者にもならなくていい。
ただ、
自分が大切にしたいものを、
ちゃんと大切にできる人でいたい。
誰かの当たり前が、
誰かにとっては憧れかもしれない。
そんなことを、
ふと思ったので、ここに綴っておきます。
あなたにとって、
ずっと欲しかった普通の景色はありますか?
誰かにとっては当たり前でも、
自分にとっては大切なもの。
もしよかったら、
コメントで教えてください。
ここまで読んでくださりありがとうございました。


僕も何者かになりたい、近い感情があるのかもしれません。
でも本当に欲しいものは、自分を含め家族の幸せだけなのですよね。
当たり前が当たり前じゃないんですよね。。
でも失うまで気がつかないのが人間の愚かなところであり、人間らしさでもありますよね😅