vol.036 スタジアムの熱狂の行方
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今週も東京にいます。
世間はゴールデンウィークでしたが、どこに行っても混んでいるので、カフェに行って文章を書いたり、本を読んだりする、いつも通りの生活を送っていました。そんな中でも、先日無料チケットを手に入れまして、久しぶりにサッカーの試合を観に行ってきました。
今年のJリーグは、秋春制への移行期間ということで、通常のリーグ戦ではなく「百年構想リーグ」という特別大会が開催されています。J1の20チームを東西に分けて戦うこの大会は、昇降格もなく、引き分けがなくPK戦で必ず決着をつけるという、いつもとは少し違うレギュレーションです。8月からはいよいよ欧州と同じ秋春制が本格的にスタートし、今年はW杯も控えていますので、いわばその準備期間のようなものでしょうか。子どもの日ということもあり、スタジアムは親子連れで大変賑わっていました。
ちなみに僕が行ったのは、FC町田ゼルビアの試合です。J1に昇格した直後と比べると、ファンやサポーターの数が明らかに多くなっており、チームの地道な広報活動と地域密着の取り組みが実を結んでいるのだと実感します。今年からはホーム側のエリアも拡大されたようで、スタジアム全体の一体感がぐっと増していました。
さて、試合が始まると、サポーターたちが声を揃えてチャントを歌い、ゴールが決まれば見知らぬ人同士がハイタッチをする。いつもは控えに回っている選手が出場すれば、スタジアムから応援の嵐。この「一体感」というものは、スポーツならではの力だと改めて思います。普段の生活では絶対に交わらないであろう人たちが、同じユニフォームを着て、同じ方向を向いて、同じ瞬間に喜んだり悔しがったりする。それは理屈ではなく、もっと本能的な、人間の根っこの部分にある感覚なのかもしれません。
ふと、こういう一体感が政治の世界にもあればいいのに、と思いました。
日本の選挙を見ていると、投票率の低さが毎回話題になります。政治に対する無関心、あるいは諦め。「誰がやっても変わらない」「自分の一票では何も動かない」。そんな空気が社会全体に漂っているように感じます。スタジアムであれだけ熱狂できる人たちが、投票所には足を運ばない。同じ「応援」という行為のはずなのに、この温度差は一体何なのでしょうか。
毎年2月に開催されるアメリカのスーパーボウルを見ていると、スポーツと社会の一体感について考えさせられます。スーパーボウルは単なるアメリカンフットボールの決勝戦ではありません。誰が国歌を歌うのか、その国歌がどのくらいの長さになるのか、ハーフタイムショーに誰が出演するのか。試合そのものと同じくらい、いや時にはそれ以上に、これらのことが国民的な話題になります。今年2月のスーパーボウルでは、チャーリー・プースが国歌を歌い、バッド・バニーがハーフタイムショーを務めました。1991年の湾岸戦争のさなかに行われたスーパーボウルでは、ホイットニー・ヒューストンの国歌斉唱が国民の心を一つにしたと今でも語り継がれています。
もちろん、アメリカにも分断はあります。むしろ、日本以上に深刻な分断を抱えている国です。それでも、スーパーボウルという一つのイベントを通じて、わずかな時間であっても「アメリカ人であること」を共有する瞬間がある。政治的な立場も、人種も、宗教も、少なくともその数時間だけは脇に置いて、同じ試合を見て、同じハーフタイムショーに沸く。それは、分断を解消するものではないかもしれませんが、少なくとも「アメリカという同じ国に生きている」という感覚を思い出させてくれる装置のようなものだと思うのです。
翻って日本を見ると、そういった装置が驚くほど少ないことに気づきます。かつてはプロ野球がその役割を担っていた時代もあったのかもしれません。あるいは、国民的な行事といえば紅白歌合戦でしょうか。しかし、どれも年々その求心力を失っているように見えます。バスケットボールのBリーグができたりと新しい試みは生まれていますが、それはあくまで一部のスポーツのファンの中での話です。
町田のスタジアムで感じたあの一体感。あの熱量の何分の一かでも、社会全体で共有できたら、この国の空気は少し変わるのではないか。サポーターが自分のチームを信じて声を枯らすように、国民が自分の国の未来を信じて行動できるような、そんな瞬間があってもいいのにと思ったゴールデンウィークの1日でした。
ちなみに、FC町田ゼルビアのホームスタジアムは駅から徒歩1時間です!
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面白いと思ったニュースや視点をお届けします。
ヘグセス氏のタトゥーが、イランとの戦争について示していること
Voxの解説動画によると、ピート・ヘグセス国防長官は十字軍に並々ならぬ関心を寄せ ており、体には十字軍にちなんだタトゥーを入れ、2020年の著書『American Crusade』の最終章では「十字軍を再び偉大に」と題して持論を展開しています。つまり、彼は 十字軍をキリスト教世界がイスラム勢力から身を守るための「防衛戦争」と捉えているとしているわけですが、中世史の専門家はこれを極端な単純化だと指摘。動画内では、こうした歴史観が現在のイランとの戦争を含む米国の外交政策にどのような影響を及ぼし得るのかを掘り下げています。
日本だとタトゥーはいまだに反社会的なイメージが根強く、「入れている=アウトロー」という見方をされがちですが、欧米では自分の信念やアイデンティティを身体に刻む自己表現の一形態として広く受け入れられています。タトゥーという「身体に刻まれたテキスト」が、そのまま外交政策の思想的背景を映し出しているという切り口は、日本のメディアではなかなか見られない視点です。
シリコンバレーは「恒久的アンダークラス」の出現に備えつつある
シリコンバレーでは、A.I.がホワイトカラーを含む多くの職を代替し、雇用と賃金を押し下げて中産階級を崩し、「恒久的アンダークラス」を生むのではないかという危機感が広がっています。A.I.企業は巨額の利益を見込む一方で、再分配やセーフティネット整備は十分に進んでおらず、政府がどのような課税・雇用政策や保護策を選ぶかが社会の行方を左右すると警告しています。
これは単に企業がリードする資本主義・自由主義の問題ではなく、政治の側で「国民の生活をどう守るのか」「最低限の保障をどう担保するのか」という議論が本格的に必要になってくる局面だということを示しています。日本では、チームみらいがまさにこの論点に踏み込んでいて、AGI実現前にユニバーサル・ベーシックインカムや給付付き税額控除といった広範なセーフティネットの土台を整えておくべきだと提言していますが、テクノロジー企業の利益を成長の果実として法人税・所得税の増収で再分配に回すという設計も含め、「技術の進歩」と「生活の保障」を両輪で考えなければならないのでしょうね。
米国控訴裁判所が中絶薬への遠隔医療アクセスを全米で一時的に停止
米国ルイジアナ州の控訴裁判所が、中絶薬ミフェプリストンへの遠隔医療アクセスを全米で即時停止する判決を下しました。この判決により、オンラインや電話での処方と郵送による提供が禁止され、対面診療が再び必須となります。2022年のロウ対ウェイド判決覆後、遠隔中絶医療は大きく成長していました。製薬会社が最高裁に上訴する見込みで、政治的にも大きな影響が予想されています。
先日お伝えした通り、サイケデリックはかつて「政治的」な理由で弾圧され、半世紀近く研究すら封じられてきましたが、近年ようやく科学的エビデンスに基づいて正当な評価を取り戻しつつあります。一方、今回の中絶薬へのアクセスは科学的・医学的な安全性がすでに確立されているにもかかわらず、「宗教的」な価値観を背景に制限が強化されている。どちらも、科学とは別の政治や宗教といった力学が医療へのアクセスを左右してしまうという構造は共通しているように見えます。科学が示すエビデンスと、社会がそれを受け入れるかどうかは、まったく別の問題なのだと改めて感じます。
元OpenAI取締役、マスク氏から精子提供の申し出があったと証言
元OpenAI取締役のシヴォン・ジリス氏が、カリフォルニア州の連邦裁判所でイーロン・マスク氏との関係について証言しました。ジリス氏は、2020年にマスク氏から精子提供の申し出を受け、現在マスク氏との間に4人の子どもがいることを明かしました。マスク氏は当時、周囲の人々に子どもを持つことを勧めており、ジリス氏が子どもを持っていないことに気づいて提案したと説明しています。この証言は、マスク氏がOpenAIの営利企業化を阻止しようとする訴訟の一環として行われ、ジリス氏は初期のOpenAIとマスク氏の関係において重要な証人とされています。
マスク的マスキュリニティとでも言うべき世界観が凝縮されたエピソードだと思います。人類の未来を憂い、出生率低下を文明の危機と語り、自らも十数人の子どもを持つ。SpaceXで火星移住を、Neuralinkで脳とAIの融合を、そしてOpenAI訴訟でAIの方向性そのものをコントロールしようとする。テクノロジーも、資本も、法廷も、そして生殖さえも、すべてが一人の人間の壮大なビジョンの道具として動員されている感覚があります。それを「偉大な使命」と見るか「究極のパターナリズム」と見るかは、おそらくその人のマスク観そのものを映し出すのでしょうね。
📚 今週の一冊
いま読んでいる本、最近読んだ本から一冊を紹介します。
砂の王国
最近読む小説はどれもリアリティに満ち溢れていて、どうやら僕は頭の中で映像化できるタイプの小説が好きなようです。本書もまさにそうで、上下巻一気に読んでしまいました。
本書の主人公は、証券会社をリストラされ、路上生活にまで転落した元ディーラーです。かつてはクリックひとつで億単位の金を動かしていた男が、百円で買える食い物の映像に胃袋を鳴らすまでに落ちぶれる。そんな彼が、カリスマ的な声を持つホームレスと、人心操作に長けた占い師と出会い、三人で新興宗教を立ち上げます。あらすじだけ聞くと荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、読んでいる間、一度もそうは感じませんでした。冒頭のホームレス生活の描写からして、どこか身体の芯が冷えるようなリアリティがあります。
読んでいて考えさせられたのは、この小説が描いているのは宗教の話というよりも「人間とは何か」ではないか、ということです。追い詰められたとき、人は自分より強い誰かに意思決定を委ねたくなる。現実が厳しければ、現実以外の何かに救いを求めたくなる。それは特殊な人間の話ではなくて、条件とタイミングさえ揃えば誰にでも起こりうることなのだと。そして同時に、救いを「商売」にしてしまった人間にはもう自分自身が救われる場所が残っていないという残酷さも描かれていて、その構造がじわじわと効いてきます。
組織が大きくなるにつれ派閥が生まれ、政治家が近づき、創設者自身が不要になっていく過程もまた、宗教に限らずあらゆる組織に通じるものがあります。読後しばらく余韻が残る一冊です。




