vol.033 AIの時代に水をかけ合う
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世界各地を移動しながら暮らすなかでの出来事や気づきをお届けします。
今週もバンコクにいます。
タイでは旧正月を祝う行事である水かけ祭りの「ソンクラーン」が行われまして、例年通り、多くの観光客で賑わっています。観光業はタイにとって極めて重要な産業で、関連産業を含めるとGDPの約20%を占めるとされています。製造業のように設備投資や人材育成に長い時間を要するわけでもなく、輸出のように為替や通商政策に翻弄されるわけでもない。観光客が来ればその場でお金が落ち、ホテル、飲食、交通、土産物と、広範な産業に一気に波及していきます。短期的に経済をブーストするうえで、これほど即効性のある産業はそうそうありません。だからこそタイ政府はビザ免除措置の拡大や航空路線の拡充など、観光客誘致にあれほど本気で取り組んでいるわけです。
もっとも、今年に入ってからの外国人観光客数は前年同期比で大きく落ち込んでいます。最大市場である中国からの訪問者が激減していることが主因で、政府は通年の外国人観光客数見通しを3700万人から3300万人へと引き下げました。コロナ前の2019年にはおよそ4000万人を記録していたことを考えますと、まだ完全復活には至っていません。それだけに、このソンクラーン期間に世界中から観光客が押し寄せる光景は、タイ経済にとって貴重な稼ぎ時と言えます。
そのソンクラーン、今や最大の目玉の一つとなっているのが「S2O Songkran Music Festival」です。”The World’s Wettest Party”を掲げるこのイベントには、Alan Walker、Steve Aoki、Zedd、Kygoといった世界的DJが集結し、360度から噴射される水を浴びながら数万人が踊り狂うという、もはやソンクラーンの新しい象徴となっているイベントです。興味深いのは、そのS2Oが今年から一日限定で「K2O」と題してK-POPに特化した姉妹フェスを立ち上げたことです。RIIZEやKISS OF LIFE、FIFTY FIFTYといった韓国勢が水を浴びながらパフォーマンスを繰り広げるという、東南アジアにおけるK-POP市場の急拡大を象徴する動きです。
韓国は1990年代末から文化産業の育成を国家戦略として推進し、K-POPや映画、ドラマを世界に送り出してきました。IMFが2024年に発表した研究によれば、2021年時点で韓国のソフトパワー指数は調査対象国でトップ、米国すら上回ったとされます。軍事力や経済力といったハードパワーで大国と渡り合うのは容易ではありませんが、音楽や映像といったソフトパワーは、人種や国籍、言語の壁を軽々と越えていきます。K-POPアーティストが歌えば、タイ人も日本人も欧米人も、一緒に水を浴びながら声を上げる。そこには敵味方の区別がありません。
今年も私はタイの友人に誘われ、S2OやK2Oとは別のローカルなイベントに足を運びました。大量の水を浴びながら、参加者はアルコールを片手に大騒ぎ。DJに加えて、ライブパフォーマンスもあるそのイベントでは、ボーカルもハイネケンを片手に水を浴びながら、会場と一体となって踊っています。
AIの進化が目にも止まらぬ速さで進んでいく中、「人間とは何か」という問いについて最近は考えているのですが、このような様子を見ると、人間ってこれでいいんだよな、人生ってこれでいいんだよなと、ふと思うのです。先週お伝えした通り、タイの景気は決して良いものとは言えません。家計債務はGDP比約90%という世界でも有数の高水準に達し、国内消費の低迷が続いています。しかしながら、水を浴びて音楽に耳を傾け、見知らぬ隣人と肩を組んで踊るこの瞬間に、GDPの数字は入り込む余地がありません。経済指標では測れない豊かさが、確かにここにはあるように思います。
世界のあちこちで戦争や紛争のニュースが絶えない中、ソンクラーンに毎年参加しながら思うのは、この場所は戦争から最も遠い、ということです。水と音楽と多少のアルコールさえあれば、人はこんなにも簡単に国境を忘れられる。来年もぜひ参加したいところです。
📚 今週の一冊
未来を見通すために欠かせない、新しい視点を与えてくれる本を紹介します。
Psychedelic Therapy
ここ数週間にわたって、日本語でサイケデリックに関する本をようやく書き始めました。正直なところ、ずっと書きたいと思いながらもなかなか構成がしっくりこずに着手できずにいたテーマでした。そんな重い腰をようやく上げるきっかけになったのが、この本『Psychedelic Therapy』です。
本書の核にあるのは、「メンタルヘルスの不調の多くはトラウマに根ざしている」という視点です。現代の精神医療は、抗うつ薬などで症状を抑え込むことに主眼を置いてきました。しかしそれは、根本の傷には触れていないのではないか、と著者らは問いかけます。サイケデリック物質は従来の薬とは逆に、心の内容を「増幅」する働きを持っています。普段は蓋をしている感情の傷が意識の表舞台に引き出され、そこにセラピストの安全な関わりが加わることで、幼少期に処理しきれなかった体験を、大人になった今の自分が優しい眼差しで見つめ直せる。このプロセスが丁寧に描かれています。
特に良いと感じた点が、トラウマの定義の解像度の高さです。一般的には「ひどい出来事に遭うこと」をトラウマと呼びがちですが、本書の立場は違います。トラウマとは、脅威に直面したときに身体が示した反応が、その後もうまく解除されず、神経系に居座り続けている状態のことだ、と。つまり、出来事そのものではなく、身体に残った「処理されきれなかった反応」の方が本体なのです。この視点で捉え直すと、うつやPTSDだけでなく、ADHD、慢性痛、過敏性腸症候群、自己免疫疾患までもが、実は水面下で繋がっているのではないかという仮説が浮上してきます。一見バラバラに見える不調が、同じ根から生えているのかもしれない。そう思うと、世の中の風景が少し違って見えてきます。
サイケデリック療法は、薬を飲んでトリップして終わり、ではありません。事前の準備、体験、そして体験後に日常へ落とし込んでいく「統合」という三段階の枠組みで、この療法の全体像をこれほど誠実にまとめた本には、なかなか出会えません。ケーススタディも豊富で、理論と臨床現場の往復運動の中から、サイケデリック療法という営みがどのようなものなのかが立体的に浮かび上がってきます。
僕の本は、もうしばらくお待ちくださいませ。
🔬 未来の実験室
スタートアップや新しい試みを“実験”として取り上げ、未来の断片を観察します。
今週もAIについてお伝えします。
サステナブルなスニーカーブランドとして一世を風靡したD2CのAllbirdsが、なんとAI企業へと大転身するというニュースが飛び込んできました。
Allbirdsといえば、2015年に元プロサッカー選手のティム・ブラウン氏が共同創業し、メリノウールやユーカリ繊維など天然素材を使った履き心地のよいスニーカーで、シリコンバレーのテック業界を中心に熱狂的なファンを生み出したブランドです。僕も一時期愛用したいたことがありますが、ピーク時には40億ドルの評価額がつき、「ミレニアル世代のエコ意識を象徴するブランド」として語られてきました。
ところが先日、同社はフットウェア事業をAmerican Exchange Groupに3900万ドルで売却し、社名を「NewBird AI」に変更すると発表。5000万ドルの資金調達を経て、AIコンピューティング・インフラ事業に参入するというのです。具体的にはGPUを調達し、スタートアップ企業などに長期リース契約で貸し出す「GPU-as-a-Service」を目指すとしており、発表直後、株価は一時600%以上も急騰しました。
しかし、ここに多くの人が少し違和感を覚えるのは事実です。サステナビリティを掲げていたブランドが、その看板をあっさり降ろしてAIインフラへと舵を切る。
AIのデータセンターは膨大な電力と水を消費することで知られています。環境配慮を強みにしてきた企業が、環境負荷の大きい事業に転身するのは、ブランドの根幹を揺るがす判断といえるでしょう。実際、CNBCなどは、かつて清涼飲料メーカーがブロックチェーン企業に衣替えして株価を釣り上げた「Long Blockchain事件」を引き合いに、投資家心理を利用した危うい動きだと警鐘を鳴らしています。翌日には株価が20%以上下落したことも、市場の冷静さを物語っています。
ただし、ここで見えてくるのは単なる矛盾ではありません。サステナビリティもAIも、本来は現実の課題から生まれた「正しさ」でありながら、同時に市場においては「売れる物語」として機能しているという点です。そしていま、その物語はかつてないスピードで差し替え可能になっているように思えます。
もちろん、業績不振に苦しむ企業が生き残りをかけて事業転換を図ること自体は否定できません。ただ、ブランドが長年かけて築いてきた「思想」や「顧客との約束」が、流行りの技術の前で容易に更新されてしまう姿には、疑問を覚えずにはいられません。AI時代において、企業の一貫性とは本当に存在するのか。それとも、それ自体が幻想なのか。そんな問いを投げかける良い事例のように思います。
次週に続きます。





