心の奥底にあるものを、治そうとしなくていい
なんであんな判断を、と思ったことはありますか
「なんであんなことをしてしまったのだろう」
後から振り返ると、信じられないような判断をしていた。そんな経験、一度くらいはあるんじゃないかと思います。
私にはあります。
機長になって1年目の路線審査で、東京から出雲、そして羽田への復路で、判断がどんどん悪い方向へ流れていきました。その話は以前の記事に詳しく書いたのですが——簡単に言えば、「うまいところを見せたい」という気持ちが、次々と余計な判断を引き起こして、最後はスピードブレーキにランディングギア、あらゆる抵抗を出して、ギリギリで規定高度に収めたのでした。
不合格にはならなかったけれど、「要フォロー」——一定期間、指導機長と飛ぶことになりました。
そしてその指導期間が、さらに深い沼になっていったのです。(この経緯も、以前の記事に書いています)
当時の自分には、答えがなかった
あの審査の後、「なんであんな判断をしたのだろう」とずっと考えていました。
でも当時の自分には、答えがありませんでした。
あったのは「頑張らないと」という気持ちだけ。
今、あの時の自分を遠くから眺めてみると、三層構造になっていたような気がします。
表面には「いい格好を見せたい」がある。その下に「俺はできるんだぞ」がある。さらにその奥に、かすかな自信のなさが、ずっとあった。
「頑張らないと」は、この三層全部を覆い隠すためのエネルギーだったのかもしれません。
資格や地位と、同じ感覚だった
正直に言うと、これは審査の時だけの話ではありませんでした。
退職後、さまざまな資格セミナーに参加しました。「なんとかリーディング」というものに、30万、40万とかけたこともあります。
資格が欲しい、地位が欲しい——そういう感覚と、構造として同じだったと思っています。誰も「お前はダメだ」なんて思っていないのに、何かで自信のなさをカバーしようとしていた。
パイロットを辞めても、その構造は変わっていなかったのです。
一般的な仕事では、この感覚がそのまま判断のズレとして出てくることは少ないかもしれません。でもパイロットの仕事は、その「微かな自信のなさ」が、操縦という形で、リアルタイムに、結果として出てきてしまう。
操縦桿は、正直すぎたのです。
治そうとしても、意味がなかった
あの経験を経て、一つ思うようになったことがあります。
こういう自分の中のエゴや見栄や自信のなさを、治そうとしても意味がないのかもしれない、ということ。
気をつけよう、直そう——それ自体が、また「いい格好を見せたい」と同じ構造をしているんです。
消せるものじゃないし、消す必要もないのかもしれない。
S.L.ハヤカワという人の言葉
少し前に、S.L.ハヤカワの『思想と行動における言語』という本の一節に出会いました。
一般意味論の文脈で書かれた本なのですが、その中にこういうことが書いてあります。
人の心理的健康も、身体と同じように「栄養」が必要だ、と。
その栄養とは——人を喜びの新しい源泉に導き、不幸にあっても孤独でないと感じさせ、自分の問題を新しい観点から見直させ、新しい可能性を提示するもの。
身体の栄養不足は、疲れや痛みというシグナルが来ます。でも心理的な栄養不足は、シグナルが来ないまま——気づいたら、目的と違う方向に歩いていた、という感じになる。
あの審査の場面で、私がそうでした。
「乗客を安全に目的地に届ける」という本来の目的から、いつの間にか「審査官にうまいと思われたい」という方向に、知らないうちにすり替わっていた。
問いを立てることが、栄養だったのかもしれない
では、あの時どうすればよかったのか。
「自信のなさをなくす」でも、「見栄を捨てる」でもないと思っています。
あの時の自分に必要だったのは、一つの問いだったのかもしれない。
「俺の仕事はなんだ。守るべきものはなんだ」
この問いが立てられていたら——エゴに引っ張られた判断から、少し離れられたかもしれない。
心の奥底にあるエゴや見栄や自信のなさは、あっていい。ただ、そこに気づいていること。そして「自分の仕事はなんだ」という問いを、自分に立てられること。
ハヤカワの言う「心理的栄養」は、もしかしたらそういうことなのかもしれない、と今は思っています。
自分の状況を、別の観点から見直すための問い。
それが栄養だった、という気がしています。
確信があるわけじゃないですが。
あの問いを立てられる自分だったら、全ての局面で行動が変わっていた気がします。




「操縦桿は、正直すぎたのです」という一文が残りました。
見栄や不安をなくす話ではなく、それを抱えたまま「守るべきもの」に戻る話として読みました。これは仕事をしている人間には、かなり効きます。