「超えてます」と言われて
旧北九州空港の滑走路は短くて、1600mしかありませんでした。背風での着陸には厳しい制限がついていた空港です。
その日は、陸地側から回り込むには雲が低すぎて、右後ろから風を受けたまま、海側から降りていくしかありませんでした。
進入の最終段階で、着陸許可とともに、風の情報がタワーから入ります。頭のなかで風向と風速を計算していました。この方向、この速度なら、まだ制限にぎりぎり入っている。そう読んでいました。
隣の副操縦士が言いました。
「これ、超えてます」
「もう一回計算して」
「はい、超えてます」
そうか、と返して、「Go-around」を宣言しました。脚をあげ、パワーを入れ、機首を起こして上昇に移ります。
その途端でした。
「間違ってました」
大きな声でした。
「あはは、じゃあ、もう一度、アプローチしよう」
そう返して、旋回に入っていきました。
飲み込んだ一言
上昇しながら、腹のあたりで一瞬、別の言葉が顔を出しかけたのは正直なところです。「おい、ちゃんと計算してくれよ」とか、そういう類のやつです。
でも、そこで声を荒げたら、次に何が起きるかは、なんとなく想像がつきました。
次の便、その次の便で、彼が「ちょっと気になります」と言いたくなった瞬間に、言葉を飲み込むかもしれない。「もう一度確認しよう」と思った、まさにその一瞬に、その声が出てこなくなるかもしれない。
そうなると、困るのは、私のほうなんです。
隣の席から声が上がってこないコックピットで、ひとりで全部を見ているつもりになっていること──これがいちばん怖い、というのは、何度か痛い目を見ながら身体に入ってきた感覚でした。
自分で集中しているつもりでも、見えているのはその瞬間の関心事だけ。周りでじわじわ動いている別の何かが、ごっそり視界から落ちている。あとから思い返して、ひやりとすることの多さは、言いにくい話ですけれど、そこそこあります。
どっちが合っていたのか
あの日の計算、自分のほうが合っていたのかもしれないし、合っていなかったのかもしれない。今でも、よくわかりません。
ただ、副操縦士の「超えてます」という声がなければ、疑うきっかけがないまま、そのまま降りていたはずです。
「間違ってました」と、上昇中に大きな声で言えた彼のほうが、たぶん私よりずっとまともでした。間違いに気づいて、すぐ声に出して戻せる、というのは、案外できることじゃないような気がします。
飲み込んだ側だった頃
副操縦士だった頃の自分を思い返すと、機長の顔色を見て、言おうかどうか迷って、結局言わなかった場面が、いくつも出てきます。あのときの飲み込んだ一言が、どうなっていたかは、もうわかりません。
だから、隣の席の人が、間違いも含めて声を出してくれることのありがたさは、自分が副操縦士を経験した分だけ、肌でわかる気がします。
笑顔と、ありがとう
よく「笑顔で」とか「ありがとうを言おう」とか、そういう話があります。
以前は、そんな小学校みたいなこと、と正直思っていました。
ただ、30年のあいだ、いろいろな相手と飛んできて、コックピットの空気が違うと、上がってくる声の量も違う、というのは、何度か経験しました。
挨拶のときの声の調子、小さなことへの「ありがとう」、ちょっとした表情。こういうものが、次に副操縦士が声を出すか飲み込むかを、たぶん少しだけ左右している。
少しだけ、です。劇的に変わるわけではありません。ただ、その少しが、北九州のあの日のようなタイミングで効いてくるかもしれない、と思うことが、ときどきあります。
やっぱり、「笑顔」と「ありがとう」なんですよね。それがコミュニケーションの核になっている、という感覚が、いまもあります。
価値観と、目的
とはいえ、私もいまだに、飲み込むことはたくさんあります。
なぜだろうと考えてみると、たぶん、目的と価値観が違うからなのかもしれません。
航空機の運航というのは、考えてみると単純です。安全を守ること。その一点に集中しておけばいい。だから、副操縦士の一言も、機長の判断も、同じ方向を向いている前提で出てきます。
でも、他の社会はそうではありません。
目的がひとつに定まっていなかったり、人によって価値観がまったく違っていたり、そもそも何のために集まっているのかがはっきりしないまま動いていたり。そういうなかでは、「声を出す」ということ自体が、そうとう難しい。
笑顔とありがとう、だけでは、たぶん足りないんですよね。
そこがどこに向かっているのか、何を守ろうとしているのか。自分のいる場所の目的と価値観を、ときどき、よく考えてみることが大切な気がします。



