子どもを守りすぎると、子どもの“守る力”まで奪ってしまうのかもしれない
「危ないから下りなさい」
親になってから、この言葉を何回言っただろう。
木に登ろうとする。
柵の上を歩こうとする。
少し高いところからジャンプしようとする。
こっちは反射で言う。
「危ない!」
もう、ほぼ自動音声だと思う。
子どもが少し高いところに立った瞬間、
親の中の警報システムが作動する。
ウーウーウー。
危険です。
ただちに中止してください。
親の心拍数が上昇しています。
もちろん、けがをしてほしくない。
痛い思いをしてほしくない。
危ない目にあってほしくない。
それは、たぶん愛情だ。
でも最近、少しだけ思う。
もしかすると私たちは、子どもを守ろうとして、
子どもが「自分で自分を守る力」まで奪っているのかもしれない。
2015年、ブリティッシュコロンビア大学のマリアナ・ブルッソーニらは、屋外での「リスクのある遊び」と子どもの健康との関係を調べた21本の研究をまとめた。
そこで示されたのは、少し意外な結果だった。
リスクのある屋外遊びは、身体活動を増やすだけではなく、社会的なやりとり、創造性、レジリエンスなど、子どもの健康や発達に良い影響をもつ可能性があるというものだった。
ここでいう「リスクのある遊び」とは、たとえばこういうものだ。
高いところに登る。
速く走る。
少し大人の目が届きにくい場所を探検する。
友だちと取っ組み合う。
つまり、親の心臓にはあまり優しくない遊びである。
見ているだけで、こっちは小さく寿命が縮む。
でも、子どもにとっては、そういう少しヒヤッとする遊びが、自分の身体を知る時間になる。
どこまで登れるのか。
どれくらいの高さなら怖いのか。
どれくらいの速さなら止まれるのか。
友だちとどれくらいの力でぶつかると痛いのか。
そういうことを、子どもは遊びの中で学んでいる。
大人から見れば「危ないこと」。
でも子どもから見れば、「世界の扱い方」を学ぶ練習なのかもしれない。
ここで大事なのが、
「リスク」と「ハザード」は違うということだ。
リスクとは、子どもが挑戦し、自分で判断し、ある程度コントロールできる刺激のこと。
たとえば、木に登る。
少し高いところから飛び降りる。
友だちとぶつかり合いながら遊ぶ。
一方で、ハザードとは、子どもには予測しにくく、対処も難しい危険のこと。
壊れた遊具。
腐った木。
鋭い金属片。
足元に隠れた穴。
つまり、
木に登るのはリスク。
腐った木に登るのはハザード。
ここを一緒にしてしまうと、全部が「危ない」になる。
そして大人は言う。
「危ないからやめなさい」
便利な言葉だと思う。
一発で止められる。
でも、その一言の中に、
本当に取り除くべき危険と、子どもに必要な挑戦が一緒に入ってしまう。
本当に消すべきなのは、ハザードのほうだと思う。
腐った木は止める。
壊れた遊具は使わせない。
鋭いものは取り除く。
でも、子どもが自分で考えながら登っている木まで、全部止めてしまう必要があるのか。
そこは、少し立ち止まって考えてもいいのかもしれない。
怖さを経験しないと、怖さとの付き合い方は学べない。
ノルウェーの研究者エレン・サンズターとレイフ・ケナイアは、2011年の論文で、リスクのある遊びには「恐怖をやわらげる働き」がある可能性を論じている。
子どもは、高いところ、速い動き、ひとりでの探索などに、少し怖さを感じる。
でも同時に、そこへ近づいていく。
最初は怖い。
でも、少し登れる。
少し飛べる。
少し離れた場所まで行ける。
その経験を重ねることで、
「怖いけど、自分で対処できる」
という感覚が育っていく。
これは、ただの遊びではない。
怖さとの距離を測る練習だ。
自分の身体を知る練習だ。
「自分はできるかもしれない」と感じる練習だ。
もちろん、危ないものは危ない。
だから大人は見守る。
ただ、見守るというのは、何もしないことではない。
すぐ止めるのでもない。
子どもが挑戦している間、
親の心臓を押さえながら、
少しだけ待つことでもある。
これがなかなか難しい。
正直、叫びたい。
「やめてー!」
「そこ登らないでー!」
「こっちの寿命が減るー!」
でも、子どもが自分で考えているなら、少し待つ。
これも親の修行だと思う。
そして、この話は大人にも刺さる。
大人になると、「少し怖いこと」を避けるのがうまくなる。
失敗するかもしれない仕事。
知らない人との会話。
うまくいく保証のない挑戦。
自分の考えを外に出すこと。
Substackに投稿すること。
コメントを返すこと。
新しい場所に飛び込むこと。
大人は理由をつけるのがうまい。
「今はタイミングじゃない」
「もう少し準備してから」
「失敗したら困る」
「自分には向いていない」
このあたりの言い訳は、かなり高性能。
でも、そうやって避けているうちに、
怖さに触れる機会そのものが減っていく。
もちろん、無謀な挑戦をすすめたいわけではない。
大人には責任がある。
守るものもある。
でも、「少し怖いからやめておこう」を続けていると、怖いものがどんどん大きく見えてくることがある。
子どもが木に登るように、
大人にも小さな挑戦が必要なのかもしれない。
いきなり大ジャンプしなくていい。
小さく投稿する。
一言コメントする。
やったことのないことを少しだけ試す。
行ったことのない場所に行く。
自分の考えを、少しだけ外に置いてみる。
それは、根性論ではない。
自分の中の怖さと、少しずつ仲良くなる作業だと思う。
安全は大事だ。
本当に大事だ。
子どもを危険にさらしていい、という話ではない。
けがをしてもいい、という話でもない。
ただ、すべての「危なそう」を取り除くことが、本当の安全なのか。
そこは一度、考えてみてもいい。
子どもに「下りなさい」と言う前に、ほんの少し見る。
この木は大丈夫か。
足元は安全か。
近くに鋭いものはないか。
本人は、自分で考えながら動いているか。
ハザードがあるなら止める。
でも、ただのリスクなら、少し見守る。
それは放任ではない。
子どもが、自分の身体を知り、怖さを知り、判断する力を育てるための、静かな支援なのだと思う。
守るとは、すべての危険を消すことではない。
自分で危険を見分けられる人に育っていく、その機会を残しておくこと。
もしかすると、それこそが本当の意味で「守る」ということなのかもしれない。
子どもは、少し危ない遊びの中で、自分を守る力を育てている。
そして大人もまた、小さな挑戦の中で、自分を前に進める力を取り戻している。
危ないから全部やめる。
ではなく、
これはリスクか。
それともハザードか。
そう考えられる大人でいたい。
そしてできれば、子どもが木に登る姿を見て、
叫びたい気持ちをこらえながら、
そっと心の中でこう言いたい。
「いけ。気をつけてな」
たぶんその瞬間、
子どもだけでなく、大人も少し育っている。
参考文献
Brussoni, M., Gibbons, R., Gray, C., Ishikawa, T., Sandseter, E. B. H., et al. (2015). What is the Relationship between Risky Outdoor Play and Health in Children? A Systematic Review. International Journal of Environmental Research and Public Health, 12(6),
Sandseter, E. B. H., & Kennair, L. E. O. (2011). Children’s Risky Play from an Evolutionary Perspective: The Anti-Phobic Effects of Thrilling Experiences. Evolutionary Psychology, 9(2), 257–284.
Jung, W. H., Lee, S., Lerman, C., & Kable, J. W. (2018). Amygdala Functional and Structural Connectivity Predicts Individual Risk Tolerance. Neuron, 98(2), 394–404.e4.

