
【文・畑史進(編集長Twitter):https://twitter.com/hata_fuminobu】
「のっけからゲームメディアの編集長が何をトチ狂ったことを」と思われるだろう。だが、狂っているのは今に始まったことではない。
最近、ゲームを遊んでいて楽しくなくなったのか? と問われれば、答えは「否」だ。むしろ楽しいし、時間とタスクに余裕があるなら片っ端から遊び倒したい。だが、かつてのような熱量で楽しめているかと言えば、実のところ、そうでもなくなってきている。
子供の頃、未体験のワクワクに溢れていた時期は、シリーズ作品の些細な違いさえ新鮮だった。流れる時間が早く感じられるほど、すべての体験に没入できた。あの頃と比べれば、今の楽しさのレベルが下がってしまったのは否定できない事実だ。
ただ、わし個人の感覚以上に、世間に「ゲームがつまらなくなった」という声が溢れているのもまた事実である。かつての熱狂的なプレイヤーたちは、ギャンブルや別の趣味に金を使い、最新ハードを買っても数本遊べば満足してしまう。あるいは、レトロゲームを買い直して過去の体験をなぞる。昨今のレトロゲームブームは、その典型的な現れだろう。
「本人が楽しんでいるならいいじゃないか」という声も聞こえてきそうだが、結果として多くの人が今のゲームから離れ、過去に浸っている現状は、**「なぜ今のゲームはつまらんのか?」**という命題に直結している。
ゲームが失った「反骨精神」
その答えに明確な正解はないが、わしはこう思う。 **「ゲームから反骨精神と反体制心が消え、保守化してしまった」**のだ。 ゲームが「市民権」を得たと同時に、つまらなくなった。これは今のインディーゲーム界隈にも言えることだ。
あらかじめ、三行も読めない「おつむてんてん」な連中に言っておくが、「すべてのゲームがつまらん」と言っているわけではない。面白いゲームは当然ある。ただ、今回はあくまで「なぜ今のゲームが全体的につまらなく感じられるのか?」という問いを、わしなりに考察したいのだ。
「反骨精神がなくなった」とはどういうことか。 別に政治問題やクールジャパン政策に切り込みたいわけではない。時代が進み、ゲームネイティブ世代が社会の中枢を担うようになったことで、ゲームへの抵抗感が薄れた。その結果起きた「ゲームの大衆化」が、かつての「やってやろうぜ」という気概を削いでしまったのだ。
「敵」だったからこそ、ゲームは味方だった
80年代、90年代、ゲームセンターにたむろする不良たちが社会問題視され、ゲームは悪の元凶のように扱われてきた。00年代には「ゲーム脳」などという、有名大学の肩書きを傘に着た男のトンデモ理論を、テレビやPTAが神輿に担いでいた。今風に言えば「テレビタトゥー」とでも呼ぶべき、イカれた時代だった。
当時、『TVタックル』や『朝まで生テレビ!』『TVタックル』や『朝まで生テレビ!』みたいな番組を見ていたような背伸びをしていたクソガキだったわしは、テレビを観ながら不思議で情けなくて仕方がなかった。なぜゲームメディアが、業界で働く大人たちが、表立って喧嘩をしないのか。ドラクエやFFの生みの親や、ファミ通の編集長が、なぜあの「イカれたハゲ親父」相手に裁判を起こし、毅然と反論しないのか? なぜだんまりなんだ、と憤っていた。
だが、世に出るゲームはどれも最高に面白かった。 今振り返ればシステムが拙いものもあるが、とにかく当時のゲームは世間(大人)にとっての「敵」であり、一方で子供たちにとっては絶対的な「味方」であり、信仰対象だった。大人の社会からの抑圧に抗う「リベラル勢力」としての気概が、そこには確かにあったのだ。
抜かれてしまった「人を狂わせる毒」
ゲームが大衆化した転換点は、Nintendo Wiiの登場あたりだろうか。あるいは『ゲームセンターCX』のような番組が長く続いたことも、市民権獲得の一助になったはずだ。

かつての子供たちが30代、40代となり、社会の決裁権を持つポジションに就いたことで、ゲームは政治や体制の中に完全に取り込まれた。大衆化自体は良いことだが、同時に、人を夢中にさせる「毒」が抜けてしまった。
大手メーカーは「安牌」なシリーズものに傾倒し、ユーザーはその中で新システムや構造を議論する。だが、本質的な問題はそこではない。かつての反骨心があった頃に比べて、**「人を魅了する毒の濃度」**が圧倒的に薄まっているのだ。
毒は正しく扱えば薬になる。ゲームの毒も、ある人にとっては人生を狂わせるものかもしれないが、我々にとっては生きるための「薬」として作用していた。中毒者に少量の毒を与えて満足させるような今の商法は、かつての「何が何でも夢中にさせてやる」という強烈な毒性とは根本的に質が違う。
迎合の果てにある「無味無臭」
昨今、反骨精神を履き違えたような声も目立つが、本当に求められているのは「大衆を魅了するほどの真のエネルギー」だ。
偉大なマリオのコスプレを当時の総理大臣にやらせた時点で、それは「迎合主義」であり、ゲームという文化が体制に食われた瞬間だった。そこには毒も何もない、無味無臭の味気ない食べ物があるだけだ(その元総理も、後に宗教問題との関わりが露呈し、任天堂にとっては特大の黒歴史になったのではないか)。

オリンピックの開会式でゲーム音楽が流れたことに喜ぶ大衆も、わしはどうかと思う。かつて社会の底辺として虐げられてきた我々ゲーマーは、自分たちの文化がこうも都合よく利用されていることに、もっと不快感を示すべきではないのか。
「最近ゲームがつまんないなぁ」と感じる正体は、この反骨精神の枯渇にある。
インディーゲームにしてもそうだ。「大手に作れないものを作る」という看板を掲げながら、結局はメトロイドヴァニアや『Slay the Spire』系の二番煎じを作っているようでは、それもまた「体制への迎合」でしかないのではないか。



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