AIコーディング革命の先の鍵を握る、ハーネスエンジニアリング
最後に私ごとですが、お知らせあり
こんにちは、シバタアキラです。1月に「2026年AI予測を総ざらい」を書き、非常に多くの反響をいただきました。そこでも指摘したように、生成AIはソフトウェア開発においては、文字通り革命を起こしています。一方で、他の業界、業務に広げるほど、統合・運用・評価・権限管理といった「ハーネス」がボトルネックになり、変化の速度は限定的です。本稿では、実務者のインサイトも交えながら、ボトルネックを整理し、日本企業が取りうる現実的な戦略を検証したいと思います。
なぜ「Something Big」をそのまま一般化できないのか
2月中旬、2025年からSomething Bigが起こっているとするMatt Shumerの記事が直近11万ライクの大きな話題になっていました:
「AIの性能がすごい勢いで向上し、すでに多くの仕事を人間から奪っている。早くこの技術を使い倒せるようにならないと、人間のキャリアはレバレッジが効かなくなる」と説いているのですが、私には新しい論点には聞こえませんでした。特に彼の議論の根拠になっているのはコーディングアシスタント領域でのAIの進化で、これに関しては2025年に飛躍的な進化があったのは全くその通りなのですが、それを他の領域にもそのまま引き伸ばして議論を展開しているところが問題です。
実際のところ、アンソロピックが先月発表したように、現在のAIの利用用途は圧倒的にソフトウェア開発に偏っています(Claudeがその方面に強いのでサンプリングバイアスがかかっているのもTrue)
対GDPで見たときに金融やヘルスケアにおいては特に、また他のあらゆる産業において、これからソフトウェア開発で起こっている変化と同じ変化が来るとしたら、これは猛烈な規模のオポチュニティーである、と言いたくなるところです。
実際のところここ2年間で、そのようなバーティカル(業界軸)・ホリゾンタル(業務軸)なAIアプリケーション開発プレーヤーは爆発的に増えており、CB Insightsから出ているマーケットマップは海のようになっています。
しかし、ソフトウェア開発の分野以外で、数百億円規模の売り上げや、数千億円規模の資金調達を達成した企業は一握りにとどまります。
実務的視点:Prompt→Context→Harnessへとボトルネックが多様化
ソフトウェア開発領域で起こっている革命とも言える変化が他の分野にも波及していくことを楽観視しない実務者もいます。下記、Kan Yilmazのブログから:
私はマルチエージェント型のSEOシステムを開発し、プランニング、検証、QA、並列実行などの機能を実装しました。しかし実行してみるとそれはワークしませんでした。
エージェントはGoogle Analyticsやサーチコンソールなどのツールにアクセスがなかったため、それを修正する必要がありました。しかしその後も実際に期待した結果は得られませんでした。CMSへの書き込みができなかったためです。
その後システムは動き出したかのように見えましたが、それも束の間、次の壁にぶつかりました。Product Huntでのローンチ、G2、PRキャンペーン、バックリンク・・・タスクを完成させるまでに、さらに15個のツールが必要でした。
コーディングアシスタントは魔法のようにタスクを片付けてくれるのに対し、その他の業務においてAIは何をしたらいいか教えるだけにとどまります。
LLMが出てきた当初はプロンプトを改良して良い結果を得ることに注目が集まりました。その次に「どんなにいいプロンプトでも、モデルが自社の知識などを知らなければどうにもならないよ」ということで、背景知識=コンテキストをうまく与えるにはどうしたら良いか(RAGなど)が着目されました。しかし実際のアプリケーション開発を進めていくと、チャット型のインターフェースでは不十分で、実際に業務で使われているツールを使いこなすことや、アプリケーションを安全に再現性高く運用するための仕組みが必要だったり、AIエンジンの周辺に数々の開発要件が出てきました。
このような周辺部分をまとめて「ハーネス」と呼び、
プロンプトエンジニアリング:指示の設計
コンテクストエンジニアリング:参照情報の導入(例:RAG)
ハーネスエンジニアリング:上記も包含し、広義にはエージェント、ユーザーインターフェース、ヒューマンインザループ、評価(Evals)、フェイルセーフ、ワークフロー統合、運用監視、コスト管理、データガバナンスなどの周辺技術を指す
というように今のAIアプリケーション開発フロンティアはますます複雑になってきました。
SaaS is dead論の本質:リスクは「置換速度」にある
AnthropicのClaude Coworkがソフトウェア開発領域で起こしている革命とも言える変化が、他の分野にも波及していくイネーブラーと目され、1月終わりからSaaS株が大暴落しているわけですが、あらゆるアプリケーション開発に必要とされるハーネス開発を自動化することはおろか、作られたアプリケーションを安定的に運用するためのインフラやオペレーションをユーザー企業各社が内製できるようになるという考え方は、今起こっている技術進歩の線上にあっても、未だ多くの要素技術が足りていない現状と私は認識しています。
一方でSaaS is dead 論の本質的なリスクは、AIネイティブサービス(これもいわばSaaS)の開発企業がAIコーディングエージェントを使いながら、爆速で既存サービスをリプレイスしていくところにあると考えています。信頼性の高いサービスを開発・運用すること自体は簡単にリプレースできるものではありませんが、スマホアプリの開発に出遅れたデスクトップソフトが一気に市場を奪われたように、新たなプレーヤーが UX・価格構造・導入スピード・自動化レベル で圧倒すると、既存SaaSの優位性は急速に薄れます。
特にAIネイティブなプロダクトは、「機能単位の競争」ではなく「業務そのものの再設計」を起点に価値を作るため、従来のSaaSが前提としてきたUI・ワークフロー・課金モデルが的外れになる可能性があります。結果として、SaaS企業の競争優位はプロダクトそのものではなく、データ・エコシステム・顧客接点・実運用ノウハウへとシフトしていくでしょう。
日本企業の戦略オプション
内製化志向の高い企業ではAIエージェント開発の文脈その他で、ハーネスエンジニアリングを進めてはいるものの、十分に汎用的なノウハウを獲得するに至らず、次から次に出てくる開発ツール・開発フレームワーク、さらにはまだアプリケーションが完成していないのに運用プラットフォーム・セキュアインフラストラクチャーなどに翻弄され、本質的な課題解決のためのオートメーション・省力化には至っていないのが現状です。
この状況下で企業が取りうる戦略をいくつか検証してみましょう:
内製化へのさらなるフォーカス
現時点では未だ実現可能性が証明されていない分野でのハーネスエンジニアリングを、重点的に研究開発していくチームの立ち上げを行うとともに、従来型のプロダクトアウト的研究ではなく、すぐに社内ツールないし自社プロダクトに実用化していく機動力を備えたチームを早急に構築していきます。
Pros:これによって自社固有領域におけるAI価値創出をリードし、競合優位性を獲得するとともに、技術を他社に提供する新たなレベニューストリームを作ることもできるかもしれない。
Cons:このチームに求められるスキルセットを持っているエンジニアを集め、爆速で開発を進めていける企業はデジタルネイティブを中心とした少数にとどまる。
プロダクトの導入
特定インダストリー・ファンクションに特化したAIアプリケーションないし既存SaaSのAI化においては、企業を横断して同種の課題解決に対峙して、AIネイティブエンジニアたちが取り組んでおり、数ヶ月の間に劇的な進化を遂げるアプリケーションも出現します。これらをいち早く取り込むことにフォーカスする戦略でも、大きなDX/AXインパクトを獲得できることが見込まれます。
Pros:日進月歩の勢いで要素技術が進歩しており、追従していくことは並大抵の努力ではない。そのような開発努力は専門企業に任せ、プロダクト化されたアプリケーションの実用性の検証にフォーカスすることで、固定費リスクを減らしながら短時間で実務的インパクトを出せる。
Cons:アプリケーション自体も新しいものが次々に出てくるので、リプレイスを前提に運用することが求められる。ツール選定に疲弊するPoC死に陥ることも。
プロダクト企業とエクイティー・FDR連携
自社領域においてクリティカルインパクトを持ちうるようなアプリケーションを開発している企業との戦略提携により、Forward Deployed Engineerをアサインさせ、独自に必要となるハーネス開発を委託する。場合によっては生産性改善などの結果指標にコミットしてもらう。
Pros:最先端の技術にいち早く触れられることによって競合優位性を確保。カスタマイズ開発含め自社に合った形で迅速に導入するための戦略・実装なども先端企業にある程度任せることができる。
Cons:シリコンバレーの企業にこのようなコミットメントをさせるためには、多額の資金を要求されることが多い上、買収などにより相手側のプライオリティーが大きくシフトしてしまうリスク。また海外企業と連携していくことのコミュニケーションコストも大きい。
本稿を執筆している最中にも「Anthropic、投資銀行業務・人事向けにツール連携可能なAIエージェントを発表」というニュースが飛び込んでくるなど、戦略的意思決定に地殻変動的なインパクトのある変化が起こり続けています。
私ごとですが・・・
さて、そんな変化の中、私ごとですが、3年間お世話になったWeights & Biasesを退職することになりましたので、ご報告します。皆さまからの身に余る信頼のおかげで、日本・韓国、そしてAPAC全体におけるW&Bのプレゼンスと、この地域におけるAI開発のモメンタムを、この3年間でここまで高めることができました。本当にありがとうございました。
技術戦略の意思決定がますます難しくなる中で、AIを企業戦略に位置づけ、価値創出につなげるための意思決定パートナーとして、引き続き貢献していきたいと考えています。
今後もSubstackで発信を続けますので、ご笑覧いただけましたら幸いです。







お疲れさまでしたー
「ハーネス」というワードに配線部品(ワイヤリングやコネクタ)が想起されて「?」だったのですが、もともとの語源である馬具の「ハーネス」だったのですね。ソフトウェアエンジニアとして、AIによる課題解決・社会実装を実運用までもっていくにあたり、記事に述べられているような対象業務周辺のあれこれは昔からあったわけですが、AI活用がそこまで届いてきたということで、いよいよ「人にしかできないことは何か」が問われるようになってきたなと感じました。