100枚以上描いても、玉置浩二はまだ私から逃げていく
自称「玉置浩二専門絵師!?」が語る、私の偏愛話
こんにちは、キャンディです。
Substackでは、はじめましての方も多いと思います。
普段、noteでは「キャンディ」という名前で、50代主婦の日々の気づきや暮らしのことを、毎日書いています。
そしてもうひとつ、XやInstagramでは「tenchan」という名前で、玉置浩二さんのファンアートを発信しています。
私は2022年、50歳になった時から絵を習い始めました。
それまで本格的に絵を描いていたわけではありません。
それなのに、教室で先生が提示するモチーフを完全スルー(笑)、40年以上ファンの玉置浩二さんだけを描き始めました。
私の描きたいものはこれ一択だったんです。
あのメロディを追っている目を。
あの唯一無二の歌声を発する口元を。
あの全身全霊で平和を祈る表情を。
気づけば、100枚を超えていました。
玉置浩二という唯一無二の生物を絵で追いかける、これまた地球できっと私ひとりだけ?!のランナーになった。
その勢いで去年の夏には、それらの絵をまとめて、オンライン個展もした。(私の偏愛の現物はこちら↓)
https://tenchangallery.my.canva.site/
そしたらAIにも断言された。
「キャンディさん、それ変人級!」と。
でも、まだ終わらない
終われない。
なぜか。
正直、現在の彼はガンガン新曲をリリースしているわけではない。
これまでのヒット曲を年に2回のツアーで選び直し、並び替え、その時の声で歌い直している。
でも毎回生の声を聴くたびに愕然とするのだ。
「あ、またスルリと私の感性から抜け出ししまった」と。
さて、
私は彼の「何を描いている」のか。
似てる、似てないの次元ではなくて。
それは表情、そして佇まいの奥にある、もう一枚の、きっとまだ私達には見えていない世界。
私は、それを探しにいく作業がtenchanのアナログな絵画制作なのだと思っている。
誤解されたくないのは、私は「好きだー!」という愛だけで玉置浩二さんを描いているわけではない、ということ。
私が描きたいのは、ただの“かっこいい玉置浩二さん”ではなくて。
その時代ごとの彼の表情の奥にあるもの。
若い頃の危うげな鋭さ。
大ブレイクの光。
その光の強さゆえの影。
苦しそうに見える時期のまなざし。
すべてを包み込むようになった今の慈悲深い笑顔。
歌という祈りを捧げている横顔。
私はその表情を追いかけながら、彼自身の内側を探っている。
そして同時に、そこには必ず「その時代の私」もいる。
13歳で当時の安全地帯というバンドに出会った私。
結婚し、子育てをし、暮らしに追われながらも、どこかでずっと彼の歌を聴いていた私。
50歳を過ぎて、初めて絵筆を持ち、過去の自分ごと彼の表情を見つめ直している私。
ある意味、彼の表情を借りて、
当時の自分の心や、
半世紀以上生きてきた今の「想い」を、
キャンバスの上に「色」で置いている。
私は玉置浩二を描きながら、実は、彼の歌とともに生きてきた自分の時間まで描いている。
だから、私が生きている限り、
玉置浩二が歌い続けている限り、
100枚以上描いていても終わりはないのだ。
玉置浩二を描く時はたいてい一人きり。
夫もいない時間(笑)
別に怪しい儀式をしているわけではない。
ロウソクも焚いていない。
白い服も着ていない。
霊能者でも、スピ系の世界にいるわけでもない(笑)
ただ、彼の表情と向き合うには、誰の視線もない、没入するための静けさが必要なのだ。
そして私は輪郭から描かない。
顔の形をなぞりたいわけではないから。
私が見つめているのは、表情に浮かぶ「光と影」。
瞳の奥にあるもの。
笑顔の奥に残って灯っている感情。
歌っている時にふとにじむ祈りのような表情。
若い頃のとがった鋭さ。
年齢を重ねた今だからこその、包み込むような慈悲深さ。
その時の彼から感じるものと、
それを受け止める私の心の色が重なった時、
「あ、それはこの色だ」
ふと降りてくる。
この瞬間は青。
このパッションはピンク。
この歌から見えている世界は黄色。
彼の表情と、私の記憶と、その日の心の揺れが重なった時、「その色」が粒子のように見えてくる。
それをチューブから出した原色のまま乗せて…重ねていく。
以前、noteで「AIで玉置浩二は描けるのか」というテーマで書いたことがある。
AIの画像生成技術は改めて言うまでもない。
それなりのプロンプトを入力すれば、玉置浩二らしい雰囲気の画像は出てくる。
でも初めてそれを見た時、確信した。
「似てるけど、中身が空っぽや!」と。
AIが描いたのは、きっと膨大な情報の中にある“玉置浩二像”。
けれど、私が描きたいのは、「私の中」に40年以上積もりに積もってきた“玉置浩二という物語”なのだ。
13歳の私が心震わせて聴いた声。
子育て中の台所で流れていた歌。
50歳を過ぎて、初めて絵筆を持った私が見つめ直した表情。
コンサート会場で、進化し続ける彼を見上げた時の熱い高揚感。
それらすべてが混ざって、ようやく一枚の色になる。
だから、私の玉置浩二は、私にしか描けない。
これはAIを否定しているわけではない。
むしろ、AIと出会ったからこそ、自分のアナログな絵に取り組む価値に改めて気づくことができた。
AIでは描けないもの。
それは「人間の私が40年以上彼を想う気持ち、情熱」そのもの。
私にとって玉置浩二は、ただ「歌がうまい人」ではない。
もちろん、そんなことは私が改めて言うまでもない。
彼は、自身の人生で起きたすべてを、命をかけて音楽という表現に捧げてきた人。
決して順風満帆な一本道ではなかった67年。
長い下積み。
突然の大ブレイク。
光が強すぎる場所に立った人にしか分からない孤独。
心や身体の不調。
活動休止。
そして、何度もステージに戻ってくる姿。
でも私達を虜にするのは、彼がその喜びも、痛みも、孤独も、祈りも
すべて、自身の音楽の進化というものに変えてきたこと。
若い頃の声には、若い頃にしか出せない鋭さがある。
でも今の声には、今の玉置浩二にしか出せない深さがある。
うまいとか、声量があるとか、そういう言葉だけでは足りない。
傷を声に変え、孤独を祈りに変え、人生そのものを音楽に変えてきた人。
だから67歳の今も、まだ完成していない。
まだ進化し続けている。
そこまで行ってしまった人を、私が100枚の絵で描き切れるわけがないのだ。
ここまできて、やっと見えてきたことがある。
人は、同じ人を見ているようで、それぞれまったく違うものを見ている。
そして描く側の私も、日々変化しつづけている。
だから、同じ玉置浩二を描いているはずなのに、一枚として同じ絵にはならない。
本人に頼まれたわけでもない。
描きながらふと「私何してるんやろ」思うこともある。
それでも描いてしまう。
たぶん、これが偏愛というもの。
玉置浩二という一人の表現者を通して、私は「生き方」を学び、自分を表現という楽しみをもらった。
傷も、喜びも、孤独も、年齢も、全部を音楽に変えていく人。
進化を止めない人。
世界の平和や愛まで、歌に乗せて届けようとする人。
その姿を描くたびに、私の心も浄化され、生きる力が、じんわり満ちてくる。
そしてぶれない自分を築こうとしているのかもしれない。
こうして私はひたすら筆を握りしめながら猛進する彼を全力で追いかける。
100枚以上描いても、
玉置浩二は、また私の絵筆の先からするりと逃げていく。
そしてその背中を、今日も私は追いかけている。


オンライン個展 拝見させて頂きました。キャンディさんすごい‼️すごすぎる。 力強くて色彩も惹きつけられます。何よりキャンディさんの想いを感じる。玉置に見てもらいたいなー あと青田さんにも
玉置さんのコンサート、かなり昔ですがいちど行ったことがあります。彼の歌声を聞き、なぜだかただひたすらに涙を流して帰ってきたことを覚えています。
びっくり!キャンディさんの作品って生きている!想いの詰まった文章にも引き込まれました♡